火曜日、君にはあげないよ


「……家の鍵開けるだけだろ、」
真っ暗闇の中に灯る街灯が照らすマンションの廊下。震える手を一旦握って、自嘲気味に笑う。四日ぶりの家に緊張するのは帰るのが怖いから、じゃなくて、あいつにどんな顔して会おうかなってこととか、もし家の中がもぬけの殻だったら?とか、マイナスなイメージをここまでに散々してきたからだ。シュミレーションするのに悪いことばかり考えるのもどうなんだって思ったけど、ふとしたときに思い出すのは全部あいつの泣き顔なもんで、どうにもやめられなかった。四日前、最後に見た泣き顔が、頭に焼き付いて離れない。

静かに鍵穴に刺した鍵を回して、ガチャっと音を立てたドアをゆっくり開ける。部屋の電気は消えていて、まだ帰ってないのかと少し安心したのも束の間、ソファーにある塊と充満した匂いが俺を一瞬にして現実に引き戻した。テーブルに散らばった錠剤のゴミと、見慣れたたばこ。灰皿代わりにされたらしいピンクのマグカップ。全部が目の前の塊と繋がらなくて、慌ててしゃがみ込んで塊に手を伸ばした。

「おいっ、」
「……んぅ……ゆめ?」

視点が定まらない目をゆらゆらさせながら、かすれ気味の声が部屋に小さく響く。てつろぉが居る、ゆめかなあ。なんて笑って、さゆみはその瞼を閉じた。とりあえず、意識があるならそれでいい。錠剤の正体が知りたくて、真っ赤な頬と汗ばんだ額からひとつの答えに行きついた俺は首元に手を伸ばした。たぶんこいつは風邪を引いてるんだろう。とにかく身体が熱い。
ひとまず毛布にくるまったまま、抱き上げてベッドへと運んだ。そのあとは冷蔵庫から冷えピタを探して、氷枕と一緒に寝室へと持っていく。同棲してからさゆみも俺も何回か風邪をひいたことはあるから、その辺は手慣れたもんだ。起きたら飲めるようにと、さゆみのお気に入りのタンブラーに水を入れて、ベッドサイドに置く。そこまでやって、ようやく落ち着いた。
二人用に買ったベッドなのに端っこで寝るさゆみを見て、胸が痛む。なあ、四日間もずっとそうやって寝てたの?狭いだなんて蹴ったりしてくるくせに、ひとりになった途端広すぎて嫌だって我儘言ってたもんなあ。少し苦しそうに息をする彼女の寝顔が、俺の良心に傷をつける。たぶん、ろくに寝てないんだろう。こうやって風邪をひいたのは、俺のせいだ。目の下に現れてしまった隈を、起こさないようにそっと撫でる。

「……ごめん」

ちょっとだけ、しんどかった。そう思ってしまったことが、怖かった。
彼女と付き合って三年が経つ。お互い結婚適齢期なんて呼ばれる歳になって、友人の結婚式に呼ばれることも多くなった。自然と意識する、自分たちの次のステージ。彼女はそこまで結婚の時期にこだわりはなかったみたいだけど、俺は周りから決めるんだったらさっさとプロポーズしとけと急かされた。若いときに付き合い始めると、ゴールテープを切るのが怖くなって、ズルズル引っ張り、結局すべてが無くなる、んだとか。上司の体験談を聞かされて、柄にもなくちょっと焦ったりもした。
だから、結婚して、子どもができて、何人になるかわからない家族像を想像して、またふたりきりになるかもしれない途方もない日々を考えて、……怖くなった。平均寿命で言ってしまえばあと六十年、さゆみと一緒に居続けられるのか。それって少し、”しんどい”ことなのではないか、と。

「……最低だな、」

それはよく、女子から言われた言葉だ。
付き合うと大抵、本気かどうか分からないって言われる。俺が思うに、恋人っていうのは日常生活の中で突然降ってわいた特別クエストってやつで、俺の生活に馴染むまでにはそれ相応の時間がかかって、それまでとなんら変わらない日々を送る中で”日常”に変化していくものだと思ってた。だから、付き合いだすと歴代の彼女たちは揃って「友だちと恋人、どっちが大事なの?」なんて聞いてくる。そんなもん、お前らより長い付き合いの友人たちのが大事だろ。同性の幼なじみが居て、高校の部活仲間もバレーで出会った奴らもみんないい奴で、この縁を切るくらいだったら天秤にかけるくらいなら、なんて考えてしまって、いつも付き合いは長く続かない。何故女はみんな、男の中に自分を強く強く入り込みたがるのか。

寝室を出て、机に置きっぱなしの封を開けられたたばこを手にする。お前のために部屋では吸ってなかったのに、お前がここで吸うのかよと心の中でごちて、ライターで火をつけた。細く長く息を吐けば、部屋中にこの匂いが充満する。
さゆみは過去の彼女たちと同様に、まあまあ重い奴だった。一緒に住む前はデートが終わるたびにキスをせがむし、抱いたあとは意識を飛ばさない限り首に絡みついたまま寝る。その度に「余所見しないで」「私のこと見て」と言う。浮気してるわけでもなければ、その言葉が発せられるときは大抵ふたりきりのときなのに、何が不安なのか。求められた言葉を返すことで安心するのか、その時見せる顔は子どもが母親の愛を確認したあとのような、くすぐったくなるような微笑みだった。
友人との時間を奪われたことはないし、誰と会うのかとかスケジュールを把握されたりはしない。ただとにかく、自分が愛されていることを都度確認したがる彼女だった。だからこの先、もしも俺がお前に求められた言葉を返せなくなったら、そんな時が来たらどんな顔をするのか、そう考えたら急に怖くなった。そう思いだしたら止まらなくて、さゆみから求められることがしんどくなってしまった。そんな矢先にあの喧嘩。思ってることを全部言い合えることはカップル円満の秘訣かもしれないが、あんときの俺には全部がマイナスの方へ加担した。なんも考えずに家を出て、スマホケースに入れてたICカードだけを頼りに実家へと向かったんだ。

「マリッジブルーってやつ?」なんて言う研磨に、プロポーズしてねぇけど案外間違いじゃねぇと笑った。これがあれか、付き合うなら黒尾くんでもいいけど結婚するなら海くんがいいなってやつか。とかなんとか言って大笑いして。物理的にさゆみと距離を取って、仲のいい奴らとちょっとバカ騒ぎして、これがあるんならいろんな奴らから結婚観なんか聞いたりして、今日、俺はこの家に帰って来たわけだ。

「風邪ひいてんのは予想外だったけどな」
短くなったたばこは、さゆみが使ったピンクのマグカップに放り込んで、綺麗に畳まれたスウェットに着替えてもう一度ベッドへ。今度は隣りに座ることなく、そのまま布団の中に潜り込む。たばこは嫌いなくせに、俺に染みつくこの匂いは好きらしい我儘な彼女は、匂いを感じ取ったのか、はたまた人肌に気づいたのか、寝がえりを打ってこちらに擦り寄って来る。こういうところは、可愛いよな、なんて思いながら空いた右腕でその小さな頭を抱き寄せた。起きたら、おはようのあとに謝ろう。んで、そのまま、全部聞いてもらえばいい。余所見はしないしお前のことしか見えてないから、結婚、しようと。



20200329





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