「沙耶、怪我は」
「大丈夫!」

地面についていた膝をまっすぐ立て直し、手についた土を払った。少し前には彼が、そしてその周りにはたくさんの敵がいるのに、数秒前まで近くにいたクラスメイトのほとんどが見当たらない。「あなた達を散らして嬲り殺す!」そう言い切っていた黒いモヤのような男にきっと私達は散り散りにされたのだろう。
肉体的に怪我は一つもないから彼の声に答えた大丈夫という言葉に偽りはないけれど、先生や皆と離れた場所にいるという恐怖、そして初めて明確に向けられた殺意のせいで身体に力が入らない。

「……焦凍くん」
「俺の後ろにいろ。でも念のため力を借りてもいいか」
「う、うん」

彼が使わないであろう左手を取った。彼は一切の震えがなかった。怖くないとは思わない。ただ、彼にはそれを表に出さない強さがあり、私にはそれがまだない。最低でも足手まといにならないようにと思いながら繋いでいない方の手で脚の部分をぎゅっと握りしめた。

「……しっかりしろよ。大人だろ?」

十五歳の語彙力を持ってしてもすごい、としか形容できなかった。USJの土砂ゾーンは一瞬にしてあの雪の日を思い出すような氷世界に豹変していて、彼も私も吐く息が白くなるほどに気温が急降下しているのがわかる。
ゆうに十人を超えていたはずの敵は全員彼の個性により捕獲された。個性把握テストの時は惜しくもトップの座を譲っていたけれど、やはり実戦ともなればその能力と状況への対応は段違いなのだ。

「大丈夫か?」
「うん、ありがとう」

繋いでいる手からも周りからも冷気が伝わってきて寒さからの震えなのか、制圧したとはいえ敵に囲まれているという恐怖からの震えなのかが自分でも理解できていない。彼は実際に敵と戦った後でさえも一切の動揺を見せなかったというのに。

「……悪い、もういいぞ」
「え?」
「あとは俺一人でやる」
「……ううん」

確かに現状を見れば私の力を使わずともこの場を制圧できただろうし、土砂の陰にでも隠れているべきなのかもしれないが私とてヒーローを目指して雄英に来た身だ。たとえ入学から二週間程度のヒーロー志望だとしてもここで退いてはいけないともう一人の私が背中を押す。気遣ってくれた彼に即答とはいかなかったが首を振り、握った手に改めて力を込めた。

「私もヒーローになるんだから」
「……そうだな」

ぎゅっと彼に強く手を握られた。状況が状況でなければ彼と手を繋いでいる事態に心躍らせていたかもしれないが、今はそんな場合ではない。
周辺の気温は氷の影響で真冬のような低さになっている。少しでも気を抜けばカタカタと歯が音を立ててもおかしくない。テストの時のように自身の血液を増やしたいけれど今まで他人と自分同時に個性を使ったことがないのだ、何かの間違いで彼への増幅に問題が起きては困る。
確かに先生はいないしクラスメイトとも離れ離れになった。だけど今、轟焦凍という私のヒーローと手を繋いでいる。だからきっと大丈夫。この場を切り抜けみんなと合流して助けを呼んで、明日からまたあの教室で高校生活を送るのだ。肺を刺すような空気を吸い込んで白い息を吐き出すと少しだけ手の震えが止まった気がした。

「オールマイトを殺す……?」
「そんな簡単に行くわけねえだろうが……」
「でも、それなら学校に戻らないと。オールマイトは今校舎だよね?」

敵が侵入してくる前にオールマイトは来ないだのなんだのと相澤先生が言っていたはずだ。高校生にやられるような敵に平和の象徴がどうにかされるなんてことあるわけないだろうけど、勝ち目ゼロで雄英に来るわけがない。それならばこの事を知らせて先生達に対応してもらう必要があると思った。

「いや。ワープっつう便利な個性があるならもう行ってる。なのにどいつもこいつも残ってるってことは校舎に行く気があるとは思えねえ。山程プロヒーローがいるからだろうな」
「そっか……じゃあきっと他の敵もまだここに……」
「いるはずだ。顔に手がついた奴と馬鹿でかい奴が主犯格ならまずあいつらを捕まえねえと」

そう言った彼の顔は私からUSJの中心部であるセントラル広場の方向へと向いた。何か大きい音がしている。私達がここに飛ばされる前に相澤先生が降り立って戦っていたところだからそれが続いているのかもしれない。

「クラスの皆は?同じように敵に囲まれてるかも」
「……どこにいるかわかんねえ以上は無事を祈るしかねえな」

一度目を伏せた彼に迷いが見えた。かと言って私達にUSJ全てを見て回れるような足はないし、安否を確認できるような意思伝達系の個性もない。
私達に今できる最善はここにいる敵を捕獲し、そして広場に行って相澤先生へオールマイトが狙われていると伝えること。最悪なのは友人の無事を確認したいがために奔走して徒らに時間浪費し、敵が自由に動ける時間を増やしてしまうこと。

「広場……だよね」
「ああ。とりあえず相澤先生と合流した方がいい」

土砂ゾーンにいる敵は全て行動不能にしたことを確認してセントラル広場へ足を向けた。半分くらいは近づいただろうか。ひときわ大きな声が聞こえて地面が揺れた。ここまで衝撃が届くとなると余程強い力が加わったのだろう。心の底に追いやったはずの恐怖がどんどん迫り上がってきて口元まで震えそうになるから唇を噛むことにした。

「沙耶」
「なに?」
「周りに敵もいねえ。この辺りで隠れてろ」
「え、な……なんで?」
「広場は危険だ。相澤先生にオールマイトの事を伝えるまで二人とも捕まるわけにはいかない」
「そうだけど……」
「話し合う時間はねえ。いいな」

言うが早いか彼は私に背を向けて走り去っていく。今ここで二手に分かれた理由は本当にそれだけだろうか。私が広場に近づくにつれ恐怖心を持ち始めたことに彼は気づいていたんじゃないだろうか。広場が危険だと言うなら彼だって行くべきではないのに。
理由はどうあれ彼の指示が間違っているわけではない。相澤先生と連絡が取れるまで私は敵に遭遇することなく、もしここを通るクラスメイトがいればそれを伝え、安全を確保するように促さなければ。未だに鳴り続ける地響きに背を向けて建物の陰に座り込んだ。

「沙耶ー!いたら返事して、もう終わったから!」
「三奈……」

一人になってから何分経ったか正確なところはわからない。結局この道は敵もクラスメイトも誰も通ることがなかった。ただただ息を潜めることに徹していたせいか、まるで数年ぶりに声を出した気がした。

「三奈ー!」
「よかった!怪我してない?!」
「うん、全然!三奈は?どこにいたの?大丈夫?」

お互いの存在を確かめるようにぎゅっとハグをしてようやく実感が湧いた。もう終わったのだ。日常が帰ってきた。

「緑谷は怪我したみたいだけどあとは皆無事だって」
「緑谷くんが……」
「大丈夫だよ、雄英にはリカバリーガールがいるじゃん!」
「そうだよね、大丈夫だよね」
「私達も早く戻ろ、沙耶が無事って先生達に知らせなきゃだし」

三奈に手を引かれながら入り口までの道を走った。そこらに空いた穴からして凄まじい戦闘があったのだろうが、こんなところに焦凍がいたなんて。緑谷以外のクラスメイトは無事ということから彼も怪我がないということはわかっているけれど、壮絶な場にいたのだと理解した私の体からは血の気が引いていくのがわかった。
入り口まで止まることなく走り抜けたらたくさんのヒーローと警察とクラスメイトが集まっていてお互いの無事を喜び合い、「怪我はねえか」心配してくれた彼の言葉に頷いた。

「少し休憩したら事情聴取だそうだ。その前に──」

クラスメイトである緑谷出久がいないこと以外はいつもと同じように自分の席に着いた。いつもと同じ教室、ほぼ変わらないクラスメイト、二週間経ってようやく着慣れてきた雄英の制服。それでもなんだか気が重く居心地が悪く感じるのは私だけではないようで、少しでも時間があれば話し始める十五歳の集まりは一言も私語を挟むことはなかった。

「なんだこれ?ココア?」
「飯田の差し入れってことか?」
「いや、リカバリーガールからこれを事情聴取までに必ず飲みなさいとの指示だ!さあみんな一杯ずつ回してくれ!」

一人一人机に置かれたのは飯田がポットから注いだココアの入ったマグカップ。甘い香りが仄かに鼻をくすぐって「なんで今ココアなんか飲まなきゃいけねえんだよ」眉を顰める男子達を横目にマグカップへ口をつけた。

「リカバリーガール曰く、これはもう一人の保健教諭の個性で作られたココアだそうだ。飲むと心が落ち着いたり、元気になるらしい。だからみんな──飲もう!」

ココアを飲むことに文句を言う人などもう誰もいなかった。私達にあてがわれたのはチンピラ程度だったとはいえ、ほぼ全員が初めてヒーローとして敵に対峙したのだ。確保するなり、逃げるなり、助けを行くなり皆が取った行動はそれぞれだったけれど全員何かしら思うところはあったらしい。
二口、三口とゆっくりココアを飲み干す頃には増幅の個性も使っていないのに、まるで春の穏やかな空気に包まれているかのように胸の中が暖かくなっていった。




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