廊下の先を歩いていた彼の後ろ姿を見つけて呼び止めた。

「焦凍くん」

五歳で出会って、小学校を卒業して、同じ中学に通っているが彼とは三年間クラスが同じになることはなくあまり接する機会はなかった。それなのに遠目からでもわかる彼の表情の冷たさに、キュッと胸の奥が締め付けられたのは一度や二度ではない。
彼が何故こうなってしまったのかはわかっても、私がどう接するのが正解なのかがわからない。

「……どうした?用がねえなら」

話を切り出さない私に彼が首を傾げた。それはそうだろう、わざわざ呼び止めたくせに何も言わないのだから。しかしいざ話しかけたはいいものの、何をどう言うべきかが頭から吹き飛んでしまって緩く握った手の中にじんわりと汗が滲んだ。

「あ、あのね。私雄英受けるんだ」

どうしたら彼を支えられるだろうかと、ここのところずっと考えていた。親同士が勝手に決めた所謂『個性婚』の約束に関係なく私は小学生の時から焦凍が好きで、徐々にあまり良くない方向へ変わりゆく彼の負担を少しでも代わりに持てたらと。悩んだ末に彼がプロヒーローになるのなら、私もと思い至って彼の進路と同じ道に進むことを選択した。
彼は私にそんなこと期待していないだろうけど。私のエゴと言われてしまえばそれまでだけど、それでも何かの助けにでもなれたらと。

「沙耶が雄英?」
「うん。焦凍くんは推薦だよね」
「ああ。この前行ってきた」
「私は一般だから明日入試なんだけど……だからその……頑張るね!」

自分でも何が言いたいのかわからずしどろもどろになってしまったのに、彼は不思議にこそ思っていそうだが変に思いはしなかったようでほんの少し表情を緩めた。その表情には昔見せてくれた笑顔の面影がしっかりと残っていて、何とも言い難い暖かな感情で胸がいっぱいになっていく。

「そうか……頑張れよ」

彼は推薦で雄英への入学が決まっている。私はと言えば必ず受かると断言できるほどの自信はない。座学はともかくとして増福という個性はあくまでサポート向きであり、個としての能力が求められるような試験では成果を出しにくいからだ。
しかし雄英出身者にこういった最前線を張るような個性の人しかいなかったわけではない。私なりに対策は練ったのだ。彼が「頑張れ」と言ってくれるなら、必ずやり遂げなくては。

「それではみんな、いい受難を!」

雄英の入試監督がそういうや否や皆立ち上がり会場へと移動を始めた。実技試験の内容は機械仕掛けの仮想敵を倒すこと──幸いなことに機械相手なら私の個性でも通用するはず。合格してみせる。合格して、私も彼と同じ道に進んでみせる。目を閉じて深呼吸すると、応援してくれた彼の顔が思い浮かんだ。

「よしっ……次!」

触れさえすれば個性は発動できる。増幅という個性は初めて自覚したあの雪の日の影響で、てっきり人の個性の最大値を伸ばすものだと思っていたが使い道は決してそれだけではなかった。

『標的捕捉!』
「!」

機械の声に振り向いて寸前のところで攻撃を交わす。自分の身体能力を増幅したおかげで避けられたが、恐らく通常時なら地面に叩きつけられていたことだろう。
機械が次の攻撃動作に入る数秒を狙って機械に触り、流れている電気信号を増幅させる。バチバチと鳴る電気の音やショートし始めた焦げ臭い香りを確認してから距離を取ると次の瞬間には残骸が地面に散らばっていた。

「あと一分だぞー」

アナウンスが入る頃にはもう私の個性は限界を迎えていた。いや、私だけではなく大半の人達がそうだろう。こんなに長時間個性を使い続けた経験など普通の中学生にはない。彼のような特殊な事情を除いては。

「大丈夫か?」
「あ、うん、ありがとう」

膝に手を当てて呼吸を整えている間に蠍のような形をした機械が迫っているのはわかっていた。わかっていたけれどこちらから仕掛ける体力がなく、一か八かのカウンター狙いでと思っていたら目に見えて硬そうな肌をした黒髪の男の子がその機械の攻撃から守ってくれた。

「悪い、あれ狙ってたか?」
「ううん、できるかわからなかったから」

ちらりと周りを見ても機械はいない。あと一分というタイムリミットと私の体力の限界値からしてもうこれ以上点数は取れないだろう。あの二点が惜しかったと言われると勿論そうなのだが、しかし触れるだけでいい今回の試験のおかげで時間も個性も節約でき、四十体前後はポイントを確保している。余程他の人の成績が抜きん出ていなければ問題ないはずだ。

「助けてくれてありがとう、えーと……」
「俺は切島。お前は?」
「秦野沙耶って言います」
「秦野か。お互い入れるといいな」

試験終了のアナウンスを聞いて会場を出ると個性を使い切ったらしい皆が試験開始の時とは打って変わって暗い表情をしている。この試験向きの個性で本当に良かった。切島と名乗った男子もあの硬そうな肌が個性なのだ、たくさんポイントを持っていることだろう。

「あっ切島ー!と……あら?」
「秦野沙耶です、はじめまして」
「私、三奈!切島とは同じ中学なんだ、よろしくね!てか試験疲れたよね、怪我とかしてない?あっちにリカバリーガール来てたけど行く?」

ツノの生えた女の子が快活な笑顔を見せた。彼女の持つ朗らかな雰囲気が一瞬にして距離を縮めてくれたように思える。クラスでも中心人物なのだろうなと瞬時に分かってしまうほどの明るさとオーラがある。

「俺は平気。秦野は?」
「私も。最後危なかったけど切島くんが助けてくれたから」
「へーえ?切島が?ふーん?」

途端に表情を切り替えて切島を肘でつつく彼女は切島と同じ中学だと言っていた。私も同じ中学の人がいるのに、何なら五歳の頃から知った仲だというのにこんな親しげに接することなど一度もなかった。呼び止める時にさえ一々身構えてしまうほどだ。
年齢を重ねるごとにどんどん距離が開いていくのは嫌でも感じている。性差があるから仕方ないと言い聞かせていたのに目の前の彼らはそんなものなどないかのように振る舞っている。微笑ましいやり取りを見て、まるで肌にトゲが刺さった時のような痛みを覚えていた。



「そう、中学卒業おめでとう」
「ありがとうございます」

焦凍の母、轟冷が微笑んだ。何があったのか詳細は知らないけれど長い間入院していると聞いて数ヶ月に一度は母と二人でお見舞いに来ているのだが、会う度に表情が柔らかくなっていくのが私でもわかる。もしかしたら次に会うのはこの病室の外かもしれない。

「じゃあこのまま雄英に行くのね?一人でいける?」
「入試も一人で行ったんだもん、大丈夫だよお母さん。冷さんまた来ますね」

穏やかな表情を見せた冷さんに手を振って病室を後にした。もう少しゆっくり話したかったけれど今日は雄英高校の制服採寸日。入学前から遅刻など許されない。

「沙耶だ!」
「あ、三奈……じゃあ受かったんだね!」
「沙耶も合格してたんだ、本当よかった!」

採寸のお知らせの紙を握りしめて指定された部屋の扉を開けると入試で顔を合わせた彼女がパッと明るい声で出迎えてくれる。制服採寸をしていた係の人には静かにしろと言わんばかりに睨まれてしまったけれど、連絡先も交換してない私達が初めてお互いの合格を知る場となったのだ、少しくらいは多めに見てほしい。

「うわーよかった沙耶に会えて!制服採寸した後って学校見て行ってもいいらしいから一緒に回らない?」
「えっそうなんだ、いいなら行きたい!雄英ってすごく大きいから初日から迷って遅刻しないかなって少し不安だったの」
「わかるわかる、今日もここまでいろんな部屋あったよね?」

三奈とはまだたった一日、それも数十分会話しただけだというのにまるで中学からの知り合いだったかのような気分になる。身振り手振りを加えながら自分の中学時代のことや入試の話をする三奈の話術は本当に人を惹きつける何かがあるに違いない。最初こそ静かにするよう私たちを睨んでいた係の人も、採寸が終わって部屋を出る今となっては手を振って見送ってくれるほどに三奈のことを気に入るほどだった。

「あれ?切島じゃん」
「芦戸と……秦野だよな?お前らも今日だったんだ」

部屋を出ると入試で最後に助けてくれた彼と出くわした。やはり彼もあの入試を突破したのか。「合格おめでとう」と声を掛けると「お前も受かっててよかった、あの点横取りしたようなもんだしな」と気まずそうに笑っていた。

「同じ日だったんなら言ってくれればよかったのにー」
「いや芦戸の採寸日なんて知らねえし」
「他にヒーロー科っぽい子いた?」
「無視かよ……さっき一人いたな。入試で見た顔じゃねえから普通科なのかもしれねえけど……あ、出てきた」

どれどれ、と身体をずらして廊下の奥を見る三奈に倣い、私もちらりと覗いてみるとそこにいたのは他でもない、幼馴染の彼だった。

「焦凍くん」
「……ああ、沙耶」

そういえば彼に合格の報告メールを送ったがなんの返信もなかったなとふと思い出す。メール不精なことは知っていたから今回も読んでくれてはいるかな、くらいの認識だったけれど。

「あれ?お前ら知り合い?」

切島と三奈が私達を見比べる。中学の制服だったら男女で多少の差があると言っても同じ学校だということはすぐにわかるのだろうが、今は中学も卒業して私服。

「同じ中学の轟焦凍くん。焦凍くん、こっちは入試で知り合った三奈ちゃんと切島くん。みんなヒーロー科だよ」

三人にそれぞれ紹介すると三奈と切島は明るく朗らかに挨拶をしたものの、彼はそれを一瞥しただけで私に視線を戻した。

「……なあ」
「?どうしたの」

彼の表情はいつも以上に固まっているように見える。家でエンデヴァーと何かあったのだろうか。彼の父親は『焦凍』ではなく『二つの個性を併せ持つ焦凍』を大事にしているそうだから、雄英に入ることでまた何か起きたとしても不思議ではない。
三奈と切島がどうしたのかと変に思っているのも理解しつつ、彼の話を聞くことが私には最優先だった。

「勘違いだったら笑ってくれて構わねえけど……雄英受けたのは俺のせいか?」
「えっ?」

直球ど真ん中ストライクに投げ込まれるボールというのはまさにこのことなのかもしれない。カッと一瞬にして体に火がついたかのような体温になっていく。事実を言い当てられたからなのか、それとも、この後に続く言葉が何となくわかってしまったからなのか。

「もしそうなら、入試前に言えばよかったな。雄英に来たくて来たわけじゃねえのに」
「そんなことは……」
「もう入っちまったもんはどうしようもねえけど、結婚するつもりはないから安心してくれ」

「え?結婚?」なんて三奈の声が隣でするけれど、私にはそんな一言でさえ口にすることができなかった。
今彼に言われた言葉を反芻する。エンデヴァーの真剣度はわからないが私の親としては軽い口約束程度の婚約関係。子供じゃあるまいしこのまま順調に結婚すると思っていたわけではないのだ。私と結婚しないと言われたことがショックだったわけではない。

「……あ、う、うん」

耳の奥で血液の流れている音がする。握りしめた手もじんわりと汗をかき、胃がひっくり返りでもしたかのような不思議な感覚に陥っている。
私自身でなくとも私の個性なら必要としてくれると思っていた。個性婚でなくとも、サイドキックだとかヒーロー同士として有用に思ってくれるのではないかと。だから雄英に来て個性を磨き、彼に求められるように、支えられるようになろうと決心をしていた。
なぜ気づかなかったのだろう、その考えは彼が何よりも嫌っている父親のそれとまるで同じだったのに。




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