「おはよう焦凍くん」

教室に着くなり雄英の制服を着た幼馴染の秦野沙耶が声をかけてきた。
小さい頃俺と偶然遊んだばかりに俺の父親に目をつけられ、最近じゃ結婚だなんだと騒ぎ立てられている。その上、俺のせいで高校まで決められてしまったのだ。これで罪悪感を覚えぬわけがない。関係のない幼馴染まで家庭の問題に巻き込むなんて。

「ああ、おはよう」

雄英を受けると告げられた日は真底驚いた。沙耶がヒーローになりたいなんて話は聞いたことがなかったからだ。もっとも、彼女とは十年の付き合いだというのにろくな会話もしていないのだから当然かもしれないが。
しかし合格したと連絡が来るまでの間にようやく思い至った。彼女が雄英に進学を決めた原因は俺にあるのではないか、俺の父親が彼女なり彼女の親なりに何か言ったのではないかと。そのせいで彼女は雄英に進まざるを得なかったのなら、母親のように俺を嫌うなり恨むなりされるだろうと覚悟は決めていた。

「……どうしたの?」

それなのに沙耶は中学までと変わらず、何事もなかったかのように接してくれている。顔に火傷を負ってから初めて会った時もそうだったな──とぼんやりと浮かんできた思い出を消し去るかのように首を左右に振った。

「いや、なんでもねえ。……あいつらも同じクラスか」
「うん、三奈達も一緒。推薦入試で一緒だった人とかはいる?」
「あんま覚えてねえな」

芦戸や切島と顔を合わせた制服採寸の日に沙耶へ進路を狭めてしまったことを謝りはしたけれど、それで足りるとは思っていない。あの父親のことだからきっと今後も口うるさく言ってくるのだろうが、何としてもこれ以上沙耶に俺や俺の家族が迷惑をかけぬよう立ち回らなくては。

「個性把握テスト……」

始業の合図と共に現れた担任教師の指示により体操服に着替えてグラウンドに出た。授業初日に体育館や講堂ではなく体操服でグラウンドに集まる一年生なんて俺達くらいではないだろうか。
プロヒーローを目指すヒーロー科としては最高峰と呼ばれる高校なのだ、そもそも入学式や始業式なんて概念がないのかもしれない。クラスメイトにはそれに不満そうな表情を見せるものもいたがそんな気持ちは微塵もない。少しでも早くヒーローになる、勿論、片方の力は使わずに。ただそれだけを見据えてこの学校に入ったのだから。

「さ、最下位は除籍……?」

クラスメイト達のざわつきの中で少し離れた位置にいる沙耶の呟きが耳に届いた。一際大きいわけでもないのだが、何年も一緒にいれば──というよりもこんな過酷な学校に連れてきてしまった負い目からかもしれない──声を聞き分けるくらいは造作もない。
周りがどんな個性なのかわからない以上、体力測定で一位を取れるかは断言はしかねるものの自分が最下位になるなんてことはあり得ない。取り立てて騒ぐことでもないだろうと思いながら彼女を見ると、その目には最下位になる恐怖よりも戸惑いの色が見えた。

「……?」

不思議だった。増幅の個性を使えば自身の身体能力が向上するのだから、どのテストでも爆発的な点数が出せない代わりに例え種目がなんであれ応用が効く。つまり常に上位を確保できるわけで、除籍となる最下位とは無縁のはずだ。

「どうした?」
「えっ、な、何が?」
「さっきから最下位スレスレばっかだろ、どっか悪いのか?」

短距離走、握力、立ち幅跳び、反復横跳び。これでもうテストの半分を終えたことになるが沙耶の成績はどれを見ても最下位から一つか二つ上でしかなく、個性があまりにもテストに即していない奴のおかげでなんとか最下位を免れている程度だ。誰であれ通常では出せない数値を最低一つは出してくることを考えると、このままでは沙耶が総合的に最下位を取る可能性は非常に高い。

「ううん、元気だよ。私はほら、元々あんまり運動神経良くないし」

個性使ってもこの程度で、と沙耶は何故か申し訳なさそうに笑った。そんな表情をさせているのは間違いなく俺なのだろう。あの日手を差し出したばかりに、こんなところまで連れてきてしまった。起きてしまったことは変えられないとはいえ、もし変えられるのなら雪の日に戻って彼女と離れてから雪だるまを凍らせてみせるのに。

「みんな真剣にヒーローなりたくて頑張ってるのに……私なんかが来るところじゃなかったかな」
「……」

いや、違う。そもそも彼女と遊ばなければ、近寄らなければよかったのだ。何故そこからやり直そうとは思わなかったのか、自分が不思議でならない。
誰よりも近くにいてくれた母親がいなくなったせいでそれを沙耶に重ねているのかもしれない。父親など関係なく俺が縛り付けていたのだ。いよいよ申し訳が立たなくなってきて「悪い」謝罪が口をついていた。

「え?なんで焦凍くんが謝るの?」
「いや……沙耶が雄英に来たのは俺のせいだから」

このまま除籍にでもなろうものなら既にできた友達を捨ててまた学校を探さなければならないし、家族に責められもする。普通の家庭がどんなものかは知らないが高校入学初日で除籍になる子供を叱らない親なんているわけない。
まだ除籍と決まっていなくとも、もしそうなったらいよいよ彼女は俺を嫌い、恨み、憎みさえするだろう。またあの目を見なければいけないのだ。この世の全てを憎悪しているかのようなあの目を。それを確認するのが怖くて下げた頭を上げることはできなかった。

「違うよ?」

クリアな声で否定された。軽い何かで頭を叩かれたように視界が広がって、反射的に沙耶を見るといつも通りに笑顔を浮かべている。太陽の光が瞳に入って明るく煌めいていた。

「ごめん焦凍くん、私の言い方よくなかったね。確かに雄英受けたのは焦凍くんが行くって決めたからだけど、それは焦凍くんのせいじゃないし、もちろんエンデヴァーさんも関係ない。私が決めたの。雄英に入って個性を鍛えて、立派なヒーローになろうって」
「……」

何か言葉を返そうと思ってはいるのに何も浮かんでこなかった。というよりも、衝撃を受けたというのが正しい表現だろう。自分が彼女を縛り付けていたわけではないという安堵ではなく、彼女が一人の人間で自分の考えを持って動いているという当たり前のことを再認識したせいだ。
彼女は俺のせいで雄英に来たと思い込んでいた。でもそれは違った。彼女は自分の足で自分の人生を歩いている。それを俺の影響だなんて思い上がりも甚だしい。

「ただ、特別運動神経良いわけでもないから情けない成績ばっかりだしちゃって。除籍は嫌だけど……仕方ないかな」

沙耶の見る先にはクラスメイト達がいた。次々にボール投げの測定を済ませていく。既に爆豪とやらが七百メートルもの大記録を出している競技だ。増幅の個性を持ってしてもそれを超えることはできないだろう。
ただ、どうにかしたいと思った。彼女が除籍にならずに済むなら協力したいと。負い目からではなく純粋に、彼女がこのまま雄英にいられるならその方がいい。何故そう感じたのかはよくわからないけれど。

「……ヒーローに」
「え?」
「ヒーローになりたくて雄英に来たんだよな」
「……うん」
「じゃあ沙耶も『真剣にヒーローなりたくて頑張ってる』だろ。まだあと四種目ある」

残りはボール投げと持久走、上体おこしと長座体前屈。この中で他の生徒が出せないような記録を沙耶が出せる競技で一位を狙うしかない。幸いにしてまだ最下位はないのだから、全体の最下位を回避するだけならそれで十分なはずだ。

「他の奴らの個性を考えれば──」
「待って!」
「?」
「考えてくれてありがとう。でもそこからは私が自分で考えて個性を使わなきゃ」

沙耶の表情に先程までのような暗さはどこにもなかった。
雄英に残ることが本当に沙耶のためになるかはわからない。ここを出て普通の高校に通った方が俺の父親も口を出すことは少なくなるかもしれない。それでも本人がここにいたいと願うなら、ヒーローになる夢を叶えたいと思うなら、その手助けをしたいと感じた。

「……俺も手加減はしねえからな」
「もちろんだよ!焦凍くんも抜いて、一位取るからね!」
「わかった」
「えっ、いや、今のはちょっと大袈裟に言っただけだから……真剣に受け止めなくていいよ……」




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