「先生!英語教えてください!」
「D組の子達にも頼まれてるから一緒でいい?」

廊下の向こうでは剛翼の個性を持つ教育実習生がクラスメイトの女子に囲まれている。前は数学の問題集をダシに使われていたような。いや、それどころか女子に囲まれているこの光景はこの二ヶ月学校に来ると毎回見ている気がする。
気持ちはわかる、教育実習生は私達高校三年生から見て五歳かそこらしか変わりはないはずなのにクラスメイトの男子よりよっぽど大人びているのだから。私達より知識も豊富で落ち着いていて、それに加えて整った容姿と人付き合いの良さ。人気が出ないわけがない。

「インターンに行くのはいいが週四となると授業がなあ……久保、お前呼ばれすぎじゃないか?」

隣を歩く担任が出席簿を確認しながらため息を吐き、私の目は廊下の奥から隣に戻った。担任の言うことはごもっともなのだが、呼ばれている以上は必要とされているのだしそちらに時間をかけたい。むしろ受験なんてしないのだから登校こそ本当は免除してほしいくらいだ。

「補修で何とかなりませんか?」
「そりゃなるけどな。高校生活最後の年なんだからもう少し楽しんだらどうだ?まあでも今日来てるんならこのプリント終わらせてから帰れよ」

手渡されたのは基本五教科に加えてヒーローに関わる法律の小論文のプリント。十数枚ならすぐに終わるだろうと思っていたが、いざ取り組んでみると全くそんなことはなかった。誰もいない教室で時に辞書や教科書で知識を確認しながらでないと穴埋めが進まない。やはり授業を出ていないとわからない箇所が多いのか。それなりに家で勉強はしていたつもりだったのだけど。

「あと三週間でいなくなっちゃうんだよ?勉強やる気失せるなあ」
「いや私達今だって先生の話聞いてるだけで勉強はしてなくない?」
「もし先生がここに戻ってくるなら留年したいじゃん」

実習生との追加授業は終わったらしいクラスメイト達が楽しそうに笑いながら教室に入ってきた。あの先生は顔がいいだの、クラスの男子と違ってスマートだのなんだのと言葉の限りを尽くして褒め称えている。

「まどかも勉強してるの?ヒーロー志望なのに偉いね」
「皆もしてたんでしょ?」
「まあね。先生の英語の発音完璧でめちゃくちゃかっこよかった!数学もわかりやすかったしさ、まどかも躓いてるなら聞いてくれば?」
「どうしてもわかんなかったらね。とりあえず自分でやってみる」

スクールバッグを手に持ちクラスメイトは教室から出て行った。あの子達は確か地元の大学に進学すると言っていたな。勉強していないと公言していて大丈夫なのだろうか。

「……」

この学校でヒーローを目指す人はそう多くない。地方の小さな私立だからというのもあるのだろうがこの町では大した事件も起きないし、普通にヒーロー活動をしているだけではまかり間違ってもビルボードチャートにランクインできるようなヒーローにはなれない。だから成り手も少ないし、他所からくるヒーローも少なくて私のようなインターンは毎日のように駆り出される。

「……はーあ、疲れた」

まだ終わらないプリントの山から目を背け、腕を思い切り天井に上げて伸びをした。ポキ、と肩から鳴る音が心地良い。
この課題プリントとは違ってインターンは私が好きでやっていることだ。ヒーローになりたいと願い、自ら望んで授業と引き換えにパトロールや窃盗犯など軽犯罪の対処をしている。昔見たあの人のように町の人を、町を大事にするヒーローになりたいと思ったから。
しかし思い出せない。私は誰を見てそうなりたいと思ったのか──首の力を抜いて頭を後ろに倒すとドアの所に立っていたらしい教育実習生と目があった。

「あ……」
「ごめん、盗み見るつもりはなかったんだけど」
「いや、えっと……大丈夫です」

サボっていると思われただろうか。何となく気まずくてすぐに腕を机の上に置きシャープペンシルを手に取った。あとやらなきゃいけない課題はヒーロー関連のプリントだけだ、これなら流石に実務で経験している事も多いしそこまで時間はかからないだろう。ちらりと時計を確認すると既に六時を回っていた。完全下校時刻は確か七時。あと少しで終わらせなければ。

「ヒーロー志望なんだっけ?」
「え?……はい」

いつの間に前の席に座ったのだろう。椅子の背に腕を置きながら教育実習生は振り返るようにして私の机に置かれているプリントを覗き込んでいた。こんなに近くで見るのは初めてで、皆が熱を上げるのにも納得してしまう。
しかし呑気に話している場合ではない。あと一時間もない内に全て終わらせて職員室まで出しにいかなければならないのだから。どうせすぐにいなくなるだろうと顔も上げずに返事をして小論文を書き進めた。

「インターンの補習か、通りで中々学校で見ないと思ったよ」
「……」
「インターン先どこ?東京とか大阪?」
「地元です」
「都会行こうとは思わなかった?」
「色々声はかけてもらいましたけど……そういう所はたくさんヒーローいますし、それなら私は地元で困ってる人の役に立てたらなって」
「そっか」

教育実習生は進路相談まで受け持っていないと思っていたが何故こんなにもあれこれと聞いてくるのだ。あと三週間でこの人は大学に戻り、教育免許を取ってどこかの学校の教鞭を取るのだろうに。
教え方が上手いと皆褒めていたし有名な私立にでも行くのではと勝手に予想しながら『昨今のヒーロー社会における個性使用範囲に関する法律について』の論述を頭の中で組み立てていった。

「……ここ間違ってるよ。英語のこれ、単語の綴りが違う」
「えっ……あ、本当だ。ありがとうございます先生」

指で示された英語のプリントは確かに綴りに誤りがあった。辞書で確認せず手癖で済ませてしまったのがいけなかったのだろう。プリントから顔を上げ、彼の目を見てお礼を言うと彼は嬉しそうに笑った。

「……楽しそう……ですね?やっぱり教えるのが好きなんですか?」
「いや、まあ嫌いじゃないけどさ、初めてちゃんと目合ったなって思って」

先程からいくら話しかけられても顔を上げなかった。教育実習生とはいえ先生相手に確かに失礼だったな。

「……すみません、これ今日中の提出だから焦ってて」
「でももう他の先生達皆帰ってるよ」
「えっ?」
「俺が今日の鍵閉め担当。職員室はもぬけのから。生徒も誰も残ってない」

私がいるのも彼がいるのもこの広い校舎の一角である教室だ。何故こうも言い切れるのかが不思議だった。たとえ見回りをしてきたからといって完全に確認するなんて不可能なのに。

「何でわかるんですか?」
「俺の個性でね、人がいないかここからでも確認できるんだ」
「へえ……すごい」

確か剛翼、羽根一つ一つを操る個性だと二ヶ月前に聞いた気がする。羽根を使って空を飛ぶ翼にすることもできるし、物を持ち上げたりもできる個性だと。中々万能だな、くらいの感想しかなかったがそれは改めるべきかもしれない。千里眼でもないのに人の有無が確認できるなんて、災害救助にはうってつけの個性だ。

「だからそれ、明日提出でもいいよ?明日インターンなら次来た時でも。先生には俺から言っておくし」
「でも……あと少しだし、今日中に出しちゃいます。担任と今日出すって約束しちゃったので。……あっでも先生私がいたら残業ですか?それならもう帰ります」
「俺はどっちみち完全下校時刻までいるから気にしなくていいよ。じゃあ後三十分頑張ろうか」

先生はヒーローについての会話を交えながらではあるが、完全下校時刻まで私の課題作成に力を貸してくれてより良い小論文に仕上げることができた。本当に教えるのが上手なのだと実感してお礼を告げると「俺もいい勉強になったから」とよくわからない返事をもらった。教育実習の参考になったということなのだろうか。
そして何故かあれから週に一回登校して出席点代わりとなる課題のプリントをやっていると、毎回あの先生がやってくるようになった。

「また先生が鍵閉めなんですか?」
「個性で人の有無わかるんですっていったら頼られちゃってね」

提出しなければならないプリントを進めている間、先生はイエスかノーで答えられる簡単な質問を投げかけてきた。一方で先生が課題を確認している間は私が自由に答えられる質問をしてくる。本当に聞いてるのかなと疑ったものの、次会った時にはそれを踏まえて質問してくるあたりどうやら聞き逃してはいないらしい。
皆と違う高校生活ではあるが先生のお陰で登校した日に色々話すこともできたし、寂しい気持ちも疲れも感じなかった。一週間に一、二回の登校できる日が不思議と楽しいと感じてさえいた。

「先生今日で最後とか本当しんどい……連絡先とか先生のこと何にも教えてもらえなかったし」
「そりゃ高校生には教えてくれないでしょ。教えてほしかったけど」
「先生追っかけて同じ大学行っても来年には先生が卒業しちゃってるもんね、ついてないなこの年の差」

六月のある日、またもやクラスが──それどころか学校中が──教育実習生の話題で持ちきりだった。そうか、今日が実習最終日ということか。にしてもえらい人気だなと職員室前の人だかりを見て思う。高校生活三年間で一番人気のある先生だったんじゃないだろうか。

「まどか、先生がこれやっとけって」
「あー……ありがと」
「大変だねヒーロー志望。頑張って」

人だかりを形作っていた内の一人である友人からプリントを受け取った。進路希望票とお馴染みの課題。枚数の多さにため息を吐いて教室に戻ると相変わらず誰も残っておらず閑散としている。普通なら職員室ではなく教室に生徒がいるものだろうに。
しかし静かであればその方が集中できる。物理の公式を調べ、数学の定義を引っ張ってきて証明を書き上げ、古語辞典からそれらしい現代語訳を引用して穴埋め。今日は先週より進みが早いなと時計を見て気がついた。完全下校時刻まであと一時間を残し、進路希望票以外は書き終わっている。事務所での待機中に問題集をやっていたおかげかもしれない。

「いると思った」
「……先生」

明るい茶髪という教師らしからぬ髪色で教育実習生だとすぐにわかった。そういえばこの人はどこかで見たことがある。どこで見かけたかもいつ見たのかもまるで思い出せないけれど、既視感がある。

「あ、なんだもう終わってたか」
「進路希望書いたら終わりです」

先生に答えながらインターン先の事務所の名を第一希望の枠に書き入れた。第二希望と第三希望は空白のままシャープペンシルを置くとまたもや先生は前の席に座っている。最終日だというのにこんな所にいていいのだろうか。

「先生今日最後なんですよね?帰らないんですか?」
「ああ、この後先生方が送別会やってくれるらしくてさ。それまでは時間あるから久保さんの課題見ようかと」
「……ありがとうございます。じゃあ一応確認してもらっていいですか?」
「勿論」

最後までミスを完全に無くすことはできなかった。「これはよくある引っ掛けだから──」というよりも、もしかしたら先生が来てくれることを期待して、先生に教えてもらえることを期待していたのからこんな簡単な問題を間違えたのかもしれない。いつから私はこんなに打算的な人間になったのだろう。

「先生の説明分かりやすいし、私ももっと授業受けれたら良かったな。来年からもきっと人気の先生になりそう」
「……俺、教師にはならないよ」

こともなげにさらりと呟いた。明日の天気は晴れだとか、そんな程度の日常会話のように。

「え?」
「高校の時ヒーロー免許も取ってたからさ、春からヒーローになる。事務所は──」

確か『先生のことは何も教えてくれない』とクラスメイトは唇を尖らせていた。だというのにその先生と呼ばれている彼は次から次へと話し始めて止まる様子もない。この一ヶ月での会話は主に私や授業のことが中心で、先生個人のことなんて一度だって話題にはしなかったというのに。

「あの、なんで私に話すんですか?皆何聞いても教えてくれないって拗ねてましたけど」

課題のプリントも進路希望票も先生は確認し終えたようで裏向きに伏せられた。特に見るものもなくなってしまって先生を見つめると彼もまた、頬杖をつきながら私の様子を窺うように見ている。

「……教えて欲しか?」

私は今、五歳年上の教育実習生に遊ばれているのだろうか。
全力疾走直後のように心拍数は上昇しているし、まだ初夏だというのに手のひらはじんわりと汗ばんできている。たった一ヶ月しか──それどころか回数にするならばほんの四、五回でしかない──会っていないというのに、最後の最後で他の皆と扱いに差をつけられたら恋に落ちぬ女子などいるわけもなく、私とて例外ではなかった。
今までの関わりが全て一ヶ月もかけた盛大な準備だとすればこれは大成功以外の何物でもない。

「──……っていう夢を見たの」

目の前には夢の中で教育実習生だったホークスがいて、私との間には美味しそうな食事が並べられている。子供の個性事故に巻き込まれた後に彼が案内してくれたお店は有名なプロヒーローの来訪にも慣れているようで、すぐに個室を用意してくれたからゆっくりとこんなくだらない夢の話もできたわけだ。勿論教育実習生を好きになったくだりは省略したが。

「そっか。夢ん中でもこうやって二人で会いたかったのかな、俺」

夢の中だけでは飽き足らず現実世界でも彼の軽口は変わらないらしく、そして私もまた、どちらにしても一々ときめきに近い何かを感じてしまうようで、すぐに返事もできずにグラスのお茶をあおった。
しかし私も私だ。いつまでたっても成長がない。こんな揶揄いの一つや二つ、顔色変えることなく簡単に受け流せるようになりたいのにそんな冷静な私はどこにもいない。だから夢の中でも弄ばれていたんだろうか。弄ぶと言うと語弊があるし、別にホークスが悪いわけではないのだけど。

「恋愛映画の見過ぎ」
「まあデスゲームよりは普通見るよ」
「ああ言えばこう言う……」

切り替えが早いおかげで話題がすぐ変わってくれるのはありがたい。でなければ私はホークスを睨むこともできず、胸の高鳴りを誤魔化すことだってうまくできなかっただろうから。




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