鉄の匂いがした。ヒーローになってからは何度となく経験したのだ。これは人の血の匂いで間違いない。

「ごめんホークス、あとで掛け直す」

電話に、聴覚に集中していたから気づけたのだろう。五感のどれかを失うと他の感覚が失うとよく言うが、何も完全に失わずとも目を瞑ったり息を止めてみたりすれば他の感覚は鋭くなる。だから聴覚や嗅覚に鋭い個性を持っていなくとも彼を発見することができた。

「ヒーロー……?」

目の前にいる男性はヒーローにしか許されていないコスチュームを着用しているけれど、明らかに異常な点は壁を背にして座り込む彼の周りには夥しい血溜まりができているということ。暗くてよくわからないが少なくとも腹部と頭部からは出血が確認できる。

「意識はありますか?名前言えますか?」

仕事終わりだからコスチュームは派遣先の事務所に置いてきてしまった。ヒーローの意識確認を行いながら緊急ダイアルを呼び出す。「全身に刺し傷多数、出血多量で脈も弱いです、救急車を至急──いえ地名がわからないので場所はGPSを追ってください」スピーカーモードにした携帯を地面に置き、バッグの中をぶち撒けて使えるものはないかと探してみたがここまでの怪我に処置を施せるものなど何も出てこない。
しかし救急車なんてこのご時世であれば五分と経たず来るはずだ。五分程度ならエアバッグ状に空気の塊を当てて圧迫止血ができる。個性を使うべく目を閉じて呼吸を整えようとした瞬間、路地の奥から砂利を踏む音がした。

「そいつはダメだ」

重く、冷たく、暗い海の底のような圧──殺意がこの身に降りかかる。芽生えたばかりのそれではない、研ぎ澄まされた鋭さは今までの犯罪件数を物語っていた。

「何がですか?」

男の発した「そいつ」が重症を負っているヒーローを指していることは何となくわかった。全身から迸るその殺意は間違いなく私の後ろにいるヒーローに向けられていたから。
あと五分。五分しのげば救急車が来てこのヒーローを託し、応援も呼ぶことができるはず。私がそれまでしなければいけないのは目の前にいる男を躱しながら応急処置を済ませるか、安全な場所まで運ぶこと。

「そいつは殺す。正しき世には必要のない贋物だ」
「……ヒーロー殺しですね?」
「お前は何だ?ヒーローを名乗る奴以外に用はない。失せろ」

ヒーロー殺しは何度もテレビや雑誌、新聞で取り上げられていたからその主義主張は知っている。名声や金銭ありきで活動しているヒーローが許せないのだと、要するに見返りを求めず自己犠牲の精神で活動する者のみが真のヒーローだと。
言いたいことがわからないわけじゃない。有名になりたいからという理由だけでヒーローを目指す人だっているし、私だってそういう人は好きになれない。

「……私もです」

だからって目の前で息絶えそうな人がいて、そいつを殺すから退けと言われて、何もせずにいられるわけがない。男との距離は十メートルない程度。ゆっくりと息を吸い込み続け、距離が五メートルになった辺りで個性を発動した。

「私もヒーローです」

言うが早いか切先が飛んでくる。この総人類個性保持社会において長物を相手にするのはあまり経験がないのだが、それにしても速い。右の薙ぎ払いが終わる前に左手に持っているサバイバルナイフが下から顔を抉りにかかってくる。
ヒーロー殺しの周りの酸素濃度は低くしているはずなのに動きが鈍る様子もない。あまり下げ過ぎては死に直結するから抑えているとはいえ、ここまで動きが変わらないとなるとヒーロー殺しは増強型の個性なのか。

「言葉には責任が伴うぞ」

そう思ったのが間違いだった。時間稼ぎをしたい私と救急車が来るまでにとどめを刺しておきたいヒーロー殺しでは戦い方に差が出るのは仕方ないとしても、相手の個性が予想できなかったのが敗因だろうか。
ナイフが掠っただけなのに次の瞬間には体の自由がなくなり、日本刀のような長物が深々と腹部に、サバイバルナイフが下腹部に突き刺さっていた。鈍い痛みは瞬時に激痛へと変わり、衝撃で息が漏れてしまい個性の発動が止まる。
体に刺さった刀が引き抜かれて身体が地面に崩れ落ちる。私の意思では指一本動かすこともできず、じわりじわりと流れ出る血を感じることしかできず。
いくら刺されたからと言ってもこうも動けぬわけがない。つまりヒーロー殺しは身体の自由を奪う個性ということか。今更理解しても遅いのだけど。

「……っ」

何秒、何分経ったのかはわからないが胃かどこかの臓器から逆流したのであろう血が口から流れ出た頃、遠くでサイレンの音が聞こえ、ふとした拍子に私の身体も動かすことができた。やっと個性の効き目が切れたとはいえこの怪我では動くに動けない。倒れているヒーローを救けるどころか傷の状態や出血量を考えると私自身命の危険がある。
増援を懸念したらしいヒーロー殺しが止めをさそうとした所を個性で防ぐと流石に諦めたのか走り去る音が聞こえた。やっと脅威は去ったのだ。腹部を抑えながら路地の壁を背になんとか身体を起こしたが立ち上がれるほどの体力は残っていない。もうダメかな、と目を閉じると強い鉄の匂いに混じって微かに甘い香りがした。

「……」

『保健室でもらったクッキーなんだけど、これね、治癒効果があるお菓子なんだ』沙耶の声が記憶の中で再生される。そういえばバッグに入れっぱなしにしていたはずだから、先程中身を確認した時に出たのかもしれない。
個性を使って傷口を圧迫し血を吐き出しそうになる口を抑えながらやっとのことで立ち上がり、クッキーの入った袋が落ちているところまで辿り着いた。圧迫など無意味のようで心臓が脈打つ度に血液が流れ出ていくのがわかる。

「……もらっといてよかった」

このクッキーにどれ程の治癒効果があるのかは聞いていない。ここまでの致命傷では焼け石に水程度かも。だけど可能性がゼロでないのなら、諦めないのがプロヒーローのはずだ。震える指で袋を開けて、血だらけの口の中にクッキーを押し込み飲み込んだ。
近くで倒れているヒーローにも渡さなくては、そう思っていたのにまるでまたヒーロー殺しの個性が使われたかのように身体が動かなくなっていく。倒れ込んだ私の目に映ったのは壊れた私の携帯だった。

「掛け直さなきゃ……」

寝たらダメだ。意識を手放してはいけない。頭では理解しているのに瞼を持ち上げることはできず、サイレンが徐々に近づいているな、と感じたところで感覚が消えた。

「──……」

朝起きる時のように光を感じて目を開けた。視界いっぱいに広がる天井も、私を取り囲むように下されているカーテンも、どことなく聞こえてくる足音や話し声も私の家ではないと物語っている。数回瞬きをして覚醒するまでに一分はかかっただろう。

「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」

スムーズに声が出なくて何度も咳き込みながらナースコールを押して人を呼んだ。「目が覚めたんですね!」看護師の驚いたような大きな声からして、喉の状態からして、私は余程の時間眠っていたのだろう。怪我がひどければそうなると沙耶が忠告してくれていたように。
医師による健康確認とこれまでの簡易的な説明を受けた。私は救急車到着時には既に絶望的な状態だったが何とか持ち堪え、回復したはいいものの一ヶ月少々目が覚めなかったと。そこまで長期だったとは思いもよらず、先程の看護師の驚き具合にも納得した。

「リハビリはご自宅に近い施設で受けた方がいいでしょうね。いくつか静岡で受け入れ可能な所をリストアップしておきます。明日は経過観察をして問題なければ明後日にも退院できますよ」
「わかりました、ありがとうございます」

内臓の傷を最優先で治癒したため体力確保の都合で骨折は昔ながらの外科治療だったらしくリハビリが必要と告げられた。それがなくとも一ヶ月以上身体を動かしていないのだから、腕も脚も筋肉が削げ落ちこれでは仕事など到底できやしない。身体を動かしていなかった期間と同じ長さでリハビリをしなければいけない。

「あ、久保さんの持ち物ですけど引き出しに入れてあるので確認してくださいね」
「わかりました、ありがとうございます」

病室に一人残されて改めて自分を見つめ直した。栄養剤の点滴のおかげで痩せ細っているわけではないがプロヒーローとして鍛えてきた筋肉は見事に消え失せ、子供にすら負けてしまいそうなほどだ。
この一ヶ月に入れていた仕事も全て無断で休んでしまって今更信用もないだろう。仕事中だったら報道でもされて全国的に連絡ができていたのかもしれないが、私は勤務時間外だったためにコスチュームも着ていなかったし、免許だって事務所に置いていた。私がプロヒーローだとわかるものは何もなかった。
筋肉は付け直せばいいけれど、その後はどうすべきなのか。ヒーロー殺しは見返りを求めずヒーローとして行動すべきと訴えていたが、この時代は無銭で働けるほど豊かではないのだ。考えれば考えるほど思考が袋小路に入りそうで天井に向かって息を吐き、引き出しに手を掛けた。

「わあ……血塗れ……」

血溜まりにバッグの中身を広げたのだから当然といえば当然なのだが、どれもこれも黒ずんでいて更に気分が落ちる。ビニール袋にそれぞれ入れられた私物を確認していると壊れた携帯電話が目に止まった。

「……あっ」

『あとで掛け直すね』彼にそう言って電話を切ったことは覚えている。流石に携帯の番号は覚えていないし、事務所の番号も調べればわかるのだろうが私の手元には壊れた電子機器しか残っていない。退院して家に帰ったら連絡を取らなくては──そう思って携帯をベッドの上に置いた時、ドアのノックが聞こえた。

「はい、どうぞ」

答えながら引き出しを閉まった。退院の手続きの話をするのだろうか。それとも今から検査をするのか。思い当たる節などそのくらいしかなかったのだが、どちらも外れた。

「まどかさん……」
「……ホークス?」

医者にしてはやけに忙しないドアの開け方だと思ったがそれもそのはずだ、彼は医者ではないのだから。医者ではないのに何故ここにいるのか、これこそ皆目検討もつかなかった。




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