「えっ?」
「だからね、ちょっとの間使えなくなったのよ」
「寮が?ですか?」
「そう言ってるじゃない」

片頬に手を当ててふう、と困ったように息を吐くミッドナイトを目の前に何回もまばたきをしてしまう。

「二日くらいで直るそうだし、お風呂は教師寮の方も使えるわ。部屋の場所はさっき伝えた通りよ」

渡された部屋割りの紙には三年B組寮四階の角部屋の部分に赤丸がついている。つまり私の二日間の宿泊地がここだというわけだ。よりにもよって、通形ミリオの隣室を割り当てられるなんて。

「……」

ついこの前、彼には教師らしからぬ弱音を聞かせてしまったばかりだというのに。個性も恩師も失って、弱音を吐きたいのはどう考えたって彼のはずなのに私は秋彦とのことを素直に話してしまった。私と彼とは教師と生徒であり、それ以上でもそれ以下でもない関係なのだと幾度となく言い聞かせた言葉は秋彦との遭遇で揺らいだ心には何の意味もなかったらしい。
生徒としてではなく、一人の男性として彼に好意を寄せている私が事もあろうに隣の部屋になってしまうとは。しかも彼は今休学中。無闇に部屋を出れば顔を合わせる回数は多くなってしまうのではないだろうか。
校舎内では中々会うことのできない通形に会いたい気持ちは無論あるのだが、会えば会うほど彼への気持ちが膨らみそうで。一個人としての私の気持ちと教師という立場との比重が徐々に変わってきている今、これ以上近づくのは良くないと理性が告げている。

「サマーちゃんって以外とウブなのね、かわいい」
「えっ?ウブ?」
「いいじゃない男子寮。恋愛相談でも受け付けてあげたら?」
「ミッドナイトみたいに相談乗れるほど経験豊富じゃないんですよ」

豊富か否かはともかく私の恋愛経験など今の高校生に役立つとは思えない。好きな相手以外とは付き合うな、依存関係になるなとアドバイスするくらいなら、できるかもしれないけれど。
本心を言えばせめて女子寮が良かったし、希望を出せるなら三年B組以外の寮にしてほしかった。とはいえ普段の業務に加えて突発的に部屋の用意をしてもらっているのだから、正式な教員でもない私があれこれと言うわけにはいかない。正当な理由でもないのだから。

「恋愛相談?今日はアオハルサマーか?」
「違います」

ろくに話を聞いてもなかったくせに奥のデスクから茶々を入れてくる元指導教員の言葉を跳ね除けると「アングリーサマーか!」と一人で楽しそうに笑い始めたのでミッドナイトに目を向けた。

「そもそもなんで寮が使えなくなったんですか?全員の部屋がそうってわけでもないみたいですけど……」
「それは……んー……そうねえ……一言にまとめるとイレイザーヘッドのせいよ」
「なんで俺なんですか」
「あら、間違ってはないでしょ」
「……」
「まあそういうわけだから、イレイザーに免じて二日間我慢してちょうだい」

ぽん、と優しくミッドナイトの手が私の肩を叩く。二日間といっても授業があるから常時寮にいるというわけでもない。夜と朝、寝る時間だけ三年B組の男子寮にいるだけ。ただそれだけのことだ。たとえ彼に鉢合わせたとしても適当に取り繕えばいい。それこそ高校生じゃあるまいし、隣の部屋に片想いの相手がいるからと浮き足立つようなことはしない。

「あっサマー先生……この度は申し訳ありません……」
「……?」

教員寮で仕事を片付け本日の宿に移動しようとソファーで一伸びしていると、ちょうど寮に戻ってきたらしい司書のひなたが元気を丸ごと図書室に置いてきたような小さな声で謝罪を述べた。いつも高校生顔負けの活気を振りまいているひなたにしては珍しい。

「あっもしかして寮の?」
「はい……こんなつもりじゃなかったんです……」
「ひなた先生がわざとこんなことするなんて思ってないですよ、お泊まり楽しんできますね!」

ミッドナイトはイレイザーヘッドのせいだと言っていたけれど何がどうなったのやら。ひなたが彼を好いているのは周知の事実なわけだが──そんなことを考えながら三年B組の寮へと足を踏み入れた。

「あれっ!」

共用スペースでクラスメイトと雑談してたらしい通形が勢いよく立ち上がり、隣にいた天喰がテーブルの上でぐらついたコップを間一髪で支えている。なるべく会わないよう消灯時間ギリギリに来たのに結局鉢合わせするとは私も運がいいのか悪いのか。
通形の顔を見た瞬間、その声を聞いた瞬間、どうしようもなく跳ねてしまった心拍を隠すように口元を上げて二人に軽く手を振った。

「おじゃましまーす」
「夏海先生?!」
「え、私が来るって話通ってなかった?」
「先生が男子寮に泊まりにくるとは聞いてました。渡瀬先生とは……言われてないです」

相変わらず私と視線を合わせようとはしない天喰が立ち上がったままの通形を見上げながら呟いた。

「そうなんだ。驚かせちゃったけど二日間部屋借りるね?」
「でも部屋って……男子寮に夏海先生が?」
「他に部屋空いてないらしくて。まあ二日だけだから」

そう、二日だけ。二日やり過ごせば教師寮はいつも通り使えるようになり、通形と寮で会ってしまうかもしれないなんて緊張と期待がない混ぜになった混乱にも似た感情を抱くことはなくなるだろう。

「もうすぐ消灯だよね?あんまり夜更かししちゃダメだよ」

二人にはそう言ってエレベーターに乗り込み、四階のボタンを押して動き出したのを確認してから壁に頭を寄せて大きなため息を吐いた。
純粋な恋愛感情から言えば、せっかく三年B組の寮に割り振られたのなら通形には会いたかった。彼が生徒ということを考えなければ私の片想い相手であり、休学している今では中々会える機会もない。秋彦に遭遇してしまった日以来顔も見ていなかったのだから。
しかし通形が生徒である事実は変わらない。彼への気持ちを捨てられないのなら隠さねばならないのだ。会ってしまえば、隣の部屋にいると意識してしまえば、自分の感情と立場とで悩まされることくらい寮に来るよりもずっと前からわかっていた。

「……ねむ……」

結局、一日目の夜はろくに眠ることもできなかった。部屋に入ってからしばらくして聞こえた隣の部屋のドアが閉まる音のせいかもしれないし、横向きに寝て思わず隣の部屋を意識してしまったからかもしれない。安物のアパートじゃあるまいし、隣の部屋の物音なんて何一つ聞こえてきやしないのにすぐそこに彼がいるのだと考えてしまった瞬間、私の脳は睡眠という業務を放棄してしまったらしい。今日もいつもと変わらず授業があると言うのに。デスクに積まれた教材を見て、意識を切り替えなければと思っていたのに欠伸が出てきて思わず口を両手で覆った。

「渡瀬」
「はい?」
「その……部屋の件だが」

てっきりイレイザーヘッドから欠伸を注意でもされるのかと背筋を正したのだが、どうやらそういった空気でもなさそうで肩の力を抜く。

「すまなかった。俺の管理不足だ。南にも言い聞かせておく」
「ひなた先生にも謝られましたよ、すっごく落ち込んでて……何があったのかわかりませんけどあんまり怒らないであげてください」

部屋が使えない事自体は確かに不便でしかないのだが、そのおかげで通形の顔を見ることもできたのだし一日程度の睡眠不足ならお釣りが来るというものだ。朝の挨拶を交わした時だって通形の前で教師の仮面を被っていられたのだから、あと一日くらい私がしっかり立場を自覚していたらなんてことはない。

「……」

なんてことはない──と思っていた午前中の私は自分のことを過大評価していたらしい。まさか寮に戻ってドアを閉め、一人きりになった瞬間また隣の部屋を意識して目が冴えるなんて予想もしていなかった。昨夜とてほとんど寝ていないのに。高校生に囲まれて日々過ごしているからと言って、こんなところまで十代に戻らなくても。
消灯時間は過ぎているけれど、教師なのだし少しくらい許されるだろう。部屋着にカーディガンを羽織って部屋を出た。キッチンでホットミルクでも作ろう。心を落ち着けて、テスト作りに手伝わされた数学のよくわからない公式でも思い出せばそう時間もかからず寝られるはずだ。

「……?」

鍋に入れた牛乳が少しずつ泡を作り出した頃、エレベーターのドアが開く音がした。

「あ!夏海先生がいる!」
「いるよー、夜なのにテンション高いね」

音を立てたのは私の心臓だろうか。それとも煮立った牛乳の泡の弾けたそれか。火を切ってマグカップにホットミルクになった牛乳をゆっくり注いでみるがどうも量が多い。二杯分はありそうだ。何故最初からマグカップで測ってから温めなかったのだろう。

「いい匂いですね?ホットミルク?」
「うん、最近寝つき悪いからこれ飲んで寝ようと思って。通形くんはどうしたの?」
「あー……俺もちょっと寝れなくて。散歩でもしよっかなって。夏海先生に見つかっちゃったからできないけどね」

へへ、とカウンターの向こうに立つ通形が笑う。この数ヶ月で彼を取り巻く環境は百八十度変わってしまった。私なんかよりもよっぽど眠れぬ夜を過ごしていることだろう。渡瀬夏海としても教師としても、その笑顔に胸が締め付けられてしまう。

「通形くん牛乳好き?」
「?はい」
「じゃあこれ一緒に飲んでくれない?作り過ぎちゃって。で、飲み終わったら部屋に戻ること。消灯時間過ぎてるから皆には内緒ね」
「……はい!」

マグカップだけ渡して部屋に行かせてもよかった。というか、そうすべきだった。消灯時間も過ぎてるというのに共用スペースに生徒と二人など望ましくないことくらい少し考えればわかることだ。それなのに私は今、マグカップをテーブルに置き「これ先生に見てほしかったんだよね!」楽しそうにエリの動画を見せる通形の隣に座っている。
秋彦と付き合う前だって隣に座ったくらいでこんなに緊張はしなかった。もう季節は冬と断言できるほどの気温であり、消灯時間が過ぎているせいで暖房も入っておらず、牛乳を煮立てている時は寒くて身震いをしたくらいなのに今ではその寒ささえ私の火照った頬を冷ますには足りないほどだ。

「この日のエリちゃんすっごく楽しそうで……あ」

イレイザーヘッドにあげるらしい猫の絵を練習して微かに笑顔とも呼べる表情を浮かべていたエリの映像が消えた。ディスプレイに触らず動画を流していたからだろう、急に画面が暗くなって鏡と化したそれに私と通形の顔が映る。いつの間にこんな近付いていたのか。座った時はある程度距離を保っていたのに、あれこれとエリの動画を見ながら会話が弾むうちに物理的な距離も縮んでいたらしい。
真っ暗な画面に映る通形と目が合った瞬間、心臓が今までに聞いたことのない音を立てた。閉じた口の奥で脈打つ音が聞こえる。何か言わなくては。動画の続き見せてだとか、エリが可愛いだとか、話を戻さなくては。腕が触れるほどの距離にいたからと緊張していることに気づかれる前に、早く。

「……先生」
「なに?」

通形の声からいつもの明るさはまるで感じられなかった。動画を一緒に見るために持ち上げられていた腕は下ろされ画面を通して合っていた視線も途切れたけれど、何か話そうとしているのならと彼の表情を窺うように顔を向けた。

「……」
「……え、どうしたの?」

二ヶ月前に見舞いに行った時だってこんな表情はしていなかった。あの時はルミリオンとして笑顔を絶やさず私や周りの人に気を遣っていたから、今の彼こそが等身大の通形ミリオなのだ。
下唇を噛み締め、何かを決心する瞬間のように勇気を振り絞ろうとしているこれこそが彼の本来の表情である事は疑いようもない。こんな演技ができるような器用な人じゃないことくらい、一年半の付き合いでわかっている。だから彼が私に何かを伝えようとしていることもすぐに理解できたし、それを私は聞いてはいけないと考えるまでもなく判断した。

「夏海先生──」
「ね、通形くん」

とうの昔に飲み終えていたホットミルクのマグカップ二つを手に取って立ち上がった。通形が私を呼んだことも、私に何かを言おうとしていることも、その何かが何なのかもわかっていながら。

「寝る前にスマホ見てたら良くないって知ってた?そろそろ部屋に戻らないと」
「……そうですね」
「マグカップは洗っておくから先に戻ってて。おやすみなさい」
「おやすみなさい夏海先生」

通形は最後まで私から目を逸らさなかった。私がその真っ直ぐな視線に耐えることができずに逃げるように背を向けたのだ。




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