青い炎だった。
不気味な青白い炎がまるで意思を持っているかのようにうねり、蠢き、人も物もその存在を許さないとでも言いたげに全てを飲み込んでいく。ほんの微かにでも触れようものなら瞬きする間もなく灰になっていた。自分の知っている炎とは全く違う種類のそれは止まることも知らずに何もかもを塵芥へと変えていく。
どうにかそれから逃げようと氷壁を作ったり炎で対抗してみたりするものの稼げるのはたった数秒程度。刻一刻と青が迫ってきている。どうする。どうしたらいい。隣にいる沙耶の息も既に上がっていて、その力を借りても尚、青の動きを止めることはできていない。

「──」

まるでこうなることが最初から決まっていたかのように揺らめく青が音もなく沙耶の周りを取り囲んだ。「……え?」沙耶の周囲に広がる青は徐々に中心に向けてその面積を収縮させていく──そう、沙耶を終点とするように。
右足が踏みしめた地面から氷壁を出現させ逃げる隙間を作ろうとした。左手で放った炎で青の勢いを止めようとした。けれどそのどちらも青を押し留めることはかなわなくて、一瞬できた青の切れ目から見えた沙耶の手を取ろうと必死に右手を伸ばして。たとえ自分に青が触れようとも構わないから沙耶だけでも。

「沙耶!」

自分が発した大きな声で目が覚める。激しい動悸と視界に入った自室の風景であれは夢だったのだと理解した。理解しても尚、正常値に戻りそうもない心拍数を落ち着けるために寝巻きの胸元を握りしめて大きく息を吐いた。全て夢だった。青い炎に触れた彼女が灰になって消えてしまうなんてことは、悪夢ではあるが現実には起きていないのだ。

「呼んだ?どうしたの?」
「あ……いや、悪い。何でもねえ」

パタパタと足音がして沙耶がドアから顔を出した。計量カップを持っているところからしてきっと朝食を作っている最中だったのだろう。寝言で呼んでしまうなど子供みたいなことは言えなくて、掌にかいていた汗を寝巻きで拭いながら謝ると「もうすぐご飯できるからね」沙耶は笑ってキッチンへと戻っていった。
作ってもらった味噌汁を飲む頃にはすっかり心は落ち着いていた。過去の嫌な夢を見ることはあってもあんな悪夢を見るのは初めてだった。なす術もなく無力感に苛まれながら沙耶の命が消えゆく様を見ているしかない夢なんて。

『焦凍くん』

目の前に座る沙耶がお茶碗から白米を口に入れた時、呼ばれた気がした。どう見ても声を出せるわけはないしこんな近距離から聞こえた声というわけでもなかったが、彼女の声で名前を呼ばれた気がしたのだ。

「……?」

何だか不思議な感覚を覚えて部屋を見回してみたがダイニングテーブルから見える景色は普段と何も変わっていない。置いてある家具も食器も漂う香りもいつも通りだ。それなのに何故違和感を覚えたのだろう。

「どうかしたの?」

そう聞く沙耶だって何の変化もない。肩より少し下まで伸びた彼女の髪が首を傾げる動作と共に揺れる。おかしいのは夢の内容を引きずっている自分の方だなと考え直し、食事を続けた。
お互い違う事務所に入ったとはいえ同じヒーローという職業柄、中々一日を共に過ごすことは難しい。だからこそ顔を合わせる時間は大事にしたくて、昨日起きた何でもない日常の一端を話すその表情を見つめ、今日の仕事も頑張らなくてはと気持ちを新たにした。

「珍しいよね、一緒にお仕事なんて」

俺が知る限り沙耶が所属している事務所とのチームアップは初めてのことだった。ある廃墟に入った人達が戻ってこないという通報が続き、ついにプロヒーローからも行方不明者が出たということで回ってきた依頼。いざその廃墟とやらに到着すると既に事務所の面々は到着していて、敷地の前で再度打ち合わせを行ってから皆で廃墟に入った。

「特に誰もいないな。そっちは?」
「こっちにもいねえ」
「ここに監禁されてるってわけでもないのかな……」

廃墟に存在する部屋全てを歩き回っても人の気配はまるでしなかった。昔出会った敵のように人間を小さな球体に変質させられる個性ならともかく、大の大人を隠せるような場所もない。とはいえ人が消えているのは事実。ヒーロー同士顔を突き合わせて話し合っていると索敵に長けた個性を持つヒーローとそれを助けていたらしい沙耶が戻ってきて告げた。「地下室がある」と。

「なんだ……ここ……」

地下室というにはこの場所は広すぎた。廃墟の敷地面積よりもよっぽど広大ではあったがただ打ちっぱなしのコンクリートが続くだけで、誰かがいそうな気配もない。靴底が当たるカツン、という足音が響き渡るだけだった。

「敵だ!」

静寂だったこの空間はどちらかの事務所に所属しているヒーローの声で一変した。その声の方向を見てもヒーロー以外の人影はなく、瞬時に移動したのかと視線を走らせてもそれらしき人物は影も形もなかった──けれど、異変は確かに起きていた。無機質だったコンクリートの壁や天井が瞬く間に青い炎に覆われていく。ヒーローが個性を駆使して炎を消そうとするものの何もかもを飲み込んで炎は質量を増していった。

「青い炎……?」

一人、また一人と青い炎に触れては灰塵と化していく。普通の炎ならば燃え広がるまでに数十秒を要するはずなのに、強力な個性を持つヒーロー達が悲鳴を上げる暇もなく灰になっていくなんて普通の個性ではあり得ない。

「焦凍くん、一旦退こう!」
「……ああ。沙耶は先行け」

瞳に映る青色には覚えがあった。今朝の夢で見た青白く立ち登る炎は間違いなくこれと同じ色をしていた。生まれ持った個性は氷と炎の二つだけで予知夢なんてものはないはずなのに、これから夢が現実になるのだと直感で理解してしまう。
ほんの僅かに前を走る沙耶は夢の中で炎に囲まれて、最後は──。いや、もしあれが予知夢だというのならばそれを利用して覆せばいいのだ。

「くそっ……どうなってんだ」

握りしめた左手を青い炎に向けて赤で掻き消そうとしたがうまくいかない。個性がおかしくなったわけではない。むしろ沙耶の力を借りていつもより巨大な炎も密度の高い氷壁だって出せているのに青い炎を食い止めるどころかその勢いは徐々に増している。このままでは夢の通りになってしまう。噛み締めた奥歯から鈍い音がした。
横目で彼女の姿を確認すると地下室の出入り口までは残りほんの十メートルくらいだった。あと少しでここから無事に出ることができる。そうしたら高校に通っていた時の担任や他に個性や炎を無力化できそうな知り合いに連絡を取り、抑えてもらいながら地下室の確認を進めていけば──そう思って再度背後に氷壁を出現させた時だった。

「……え?」

俺の背中を追っていたはずの青い炎はどんな原理で動いているのか、俺に一切触れることなく沙耶の前に回り込んでいた。次に起こることはわかっている。わかっているのに身体が動かない。

「焦凍くん──」

久しぶりに聞いた涙ぐんだ沙耶の声。やめてくれ、そんな最期の別れみたいな表情で見ないでくれ。踏みしめた地面から三度氷壁を出すけれど青い炎にほんの小さな隙間を生むことしかできなくて、咄嗟に手を伸ばして彼女が伸ばした手を取ろうとした。
自分がどうなろうと構わない。この場に残った二人の内どちらかが灰にならねばならぬというのなら、喜んでその役割を引き受けよう。何色の炎で焼かれようともどれほどの苦痛でも、それを与えられるのが自分であるならば泣き言一つ口にせず受け入れてみせる。だから、だから彼女だけは連れていかないでくれ。

「沙耶!」
「えっ、な、何?どうしたの?」

気がつくと道路に立っていた。ほんの少し前には驚いた様子の沙耶が振り返ってこちらを見ている。
今のは何だったのだ。白昼夢と呼ばれる何かだとでもいうのか。「大丈夫?」こうして俺を心配そうに見る彼女が灰になって消えていくのを二度も夢で見たけれど、あれがただの夢だとは思えなかった。現に今、俺は間違いなくあの廃墟への道を進んでいる。それに気がついた瞬間、血の気が引き、悪寒が走った。

「悪い……ちょっと……ぼーっとしてた」
「顔色すっごく悪いよ。焦凍くん今日は休んだら?私のところの先輩もたくさん来てくれるし」
「いや、いい。それより沙耶──」

このまま進めば廃墟へ着き、地下室を見つけ、青い炎が出現して俺以外の全てを飲み込んでしまう。あれが何かの比喩だとでもいうのなら何と気の利いた皮肉だろう。炎という個性さえなければ幼少期に火傷を負うことも、虐待に近い訓練を受けることも、母や兄を失うことなどなかったのだから。

「もし本当に具合が悪かったら言ってね?」
「ああ」

沙耶に家に帰れと告げたかった。何がしかの理由をこじつけてでもいい、安全なところで今日一日を終えてほしかった。それなのに口が思うように動かない。たった一言を口にすればいいだけなのに、声帯が脳の命令通りに機能することはなかった。
おかしい。二度も予知夢を見たことも、こうして言いたいことが伝えられない現状も、そもそも何もかもをも飲み込み瞬間的に灰にしてしまう個性すらも、全てがおかしい。もしかしてこれすらも夢なのか?今沙耶と歩いて廃墟へ向かっていることも含めて、この後起きる全てが夢だというのか。また沙耶が死ぬその瞬間に一切合切が巻き戻って、最後には彼女はその身体の全てが灰になって消えていくとでも。
混乱する頭を支えようと額に手をやった。そんな訳はない。ないと、信じたかった。

「……ふざけんなよ……っ」

廃墟に着いてからも地下室を見つけた後も、まるで台本を読み上げているかのように一言一句違わぬ会話の末に青い炎は現れ、無機物も有機物も区別なく糧として肥大していく。
今度こそは。そう思っていた。たとえこれがどんなカラクリで動いているものだとしても、力を駆使すれば活路はあると。炎を消すまでとはいかなくともせめてこの地下室からは脱出できるのだと。

「焦凍くん、もういいよ、ありがとう」

地下室に存在していた全ての炎が沙耶の周りに集まって、眉を下げた彼女の笑顔が炎のカーテンで揺れている。何でこうなるんだ。どうしてこんな終わり方になるんだ。何のために俺は物心つく前から個性の訓練をしてきた。全てはこういう時に誰かを守れるヒーローになりたいからじゃないか。

「俺が、よくねえ!」

炎の半径はどんどん狭まっている。沙耶を飲み込むまであと十秒ないくらいだ。今出せる全力の炎を彼女に当たらぬギリギリの場所目掛けて一点に集中して放出すると、今までよりも大きな亀裂が生まれた。今度こそだ。今度こそ沙耶を助け出して二人でここを出る。
彼女が伸ばした手を取って勢いよく引っ張った。そのせいか慣性の法則に従って地面に転けてしまったが、これでもう大丈夫だ、青い炎への対抗策はわかった。そう思って握りしめた手を見た時だった。

「……沙耶?」

さらりと砂が指から溢れる感覚。灰色の細かい砂のような何かは一粒残らず俺の手から消え去ってコンクリートの上へまばらに散らばっていた。
手を取った感覚はあった。引き寄せた時だってまだ炎は近づいていなかった。なのに何故。二回も予知夢を見ておきながらどうして俺は彼女を助けることができない。
幼い頃から家のことで迷惑をかけていたから俺の気持ちがどうであれ隣にいたいなんて願わないと決めておきながら、彼女の優しさに甘えて離れなかった罰がこれだとでもいうのか。俺の前から彼女を永遠に消し去るこれが。
もしそうなら、もう二度と彼女に関わらないと誓うから。彼女が雄英を受験すると決めるその日に戻してくれれば何としてでも止めさせて、彼女はどこかで誰かと幸せになるように願うから。そこに俺が関わりたいなんて身に過ぎた果報は望まないから。だから。

「もう……やめてくれ……」

両目から涙が溢れてコンクリートを濃く染める。
耐えられない。耐えられるわけがない。大切な人間の死を目の前でなす術なく見続けるこれを地獄と呼ばずして何と称すればいいのかもわからないほどだ。
氷も炎も通用しない。俺の力では彼女を助けることができない。彼女の力を発現させ、雄英に入るというヒーローになるきっかけを作ったのも間違いなく俺で、そのせいで彼女はこうして骨の一片すら残さず灰になってしまっているのに、俺にはそれをどうすることもできない。

『焦凍くん』

灰になったはずの彼女の声が聞こえた気がした。この地下室には俺以外にもう誰もいない。一緒に来たヒーロー達も、沙耶も、あの青い炎でさえも、姿も形も残っていないのに。声がしたことは不思議だと思ったが、その出所を探そうとは思わなかった。もうそんな気力などどこにも残っていなくて、コンクリートに点々と広がる染みを見続ける他にできることはなかったから。
そして次の瞬間、俺は沙耶と廃墟の入り口に立っていた。




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