「潜伏先が判明した」

刑事が告げたのはある指名手配犯のこと。
敵連合の名の下に集まったテロリストが一掃され落ち着きを取り戻した日本社会はこれを機に未解決事件の捜査に本腰を入れるようになり、トップヒーローが一人ずつ難事件を担当する運びとなった。そして自分もまた、十数年前にぷつりと犯行が止まった連続殺人犯を捕まえるこの捜査に協力しているというわけだ。
二十年近い年月を隠れおおせた犯人を追うのは骨が折れるどころの労力ではなかった。当時の資料は不明瞭な物も多く、長い時間をかけてようやく突き止めたほどなのだから。

「少なからずホークスへの脅迫で引っ張れる。各自先に手を出さないように」

どこから俺が関わっていると知ったのか警察や事務所宛に何度も手紙が届いていた。『捜査から手を引け、さもなくば後悔することになる』と。
こういった脅迫は何もこれが初めてではない。むしろ利用できないかと消印を確認したが東京や福岡といった都市部かと思いきや、静岡のような都会とも田舎とも言い難い地域からも届いていて、そこから潜伏先を辿ることは叶わなかったものの遂に警察やヒーローの捜査が報われる時がきた。

「突入は?」
「今日の午後二時。場所はここだ、今から飛んでもらえるか?我々も移動を始める」
「了解」

群馬県の山奥。よくもまあこんな所に長年住んでいるものだと舌を巻くほどに現代社会とは程遠い様相を呈している。木材を駆使して建てられた山小屋はセキュリティという概念が存在していない割に様子を窺えるような隙間もない。
警察が開けた小さな穴から羽根を一枚侵入させた。しかし、山小屋の中に人間の気配は感じない。たとえ中にいるのが一人だとて動けば衣擦れの音がするし、人間ならば呼吸音も聞こえるはずなのに。確かな情報筋から今日この時間は山小屋にいると連絡があったのではなかったか。違和感を覚えながらも状況を伝えると警察は宣言の後にドアを蹴破った。

「……スマイルマーク……」

先に入った刑事に続いて山小屋へ入ると赤い血で描かれた大きなスマイルが──十数年前までの殺人事件において遺体が近くにある合図とされていた──目に飛び込んできた。マークがあることでやはり山小屋の主は殺人事件に関与しているのだと確信は持てたけれど、どこにも遺体が見当たらないというのが引っ掛かる。このマークは殺人が起きたことを連想させて遺体発見までの恐怖を増幅させることが目的だろうに、近くに遺体がなければ何の意味もない。
山小屋全体に羽根を行き渡らせてみたが犯人が隠れている様子もなく。一体どうなっているのだ。捜索は警察に任せて周辺を見てみようかと山小屋を出た時、一人の刑事に呼び止められた。

「ホークス、これを」
「何ですか?手紙?」
「君宛だ。スマイルマークのすぐ下に置いてあって、確認したが携帯の番号のような数字が書いてある。心当たりはあるか?」

二つ折りにされた白い紙は確かに俺宛だった。『ホークスへ』俺がここに来ることをわかっていて準備をしていたというわけか。

「──……」

紙を開いた瞬間に目に入ったゼロから始まる十一桁の番号を見て、無意識のうちに紙を握りしめていた。何かの間違いだ。間違いであってほしかった。

「ホークス?どうした?」

心臓から一際大きな音が聞こえる。まさか、そんなはずはない。彼女のことは誰にも知られぬよう、気取られぬように細心の注意を払っていたのだ。ヒーローという仕事を続ける上で彼女に迷惑が降りかかってはいけないと、常に自らの行動を律してきた。

「俺は手がかりを追います。警察はこの辺りの捜索を」
「あっ、おい!」

刑事の制止する声が届くよりも早く上空へ飛び立った。ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出して紙に書かれていた番号と同じものを打ち込んで通話ボタンを押すと、電話帳に登録されている彼女の名が表示された。久保まどか、と。

「……っ」

自分の思い違いであればと願った。十一桁の数字は何度となく彼女に電話をかけた際に覚えたものと一致していたけれど、もしかしたら一文字くらい違っているかもしれないと。自分の記憶違いで、彼女がこの件に関わるようなことは起きないと一縷の望みを抱いていた。
しかしこれは彼女の携帯電話の番号で、それを俺宛に書き残しているということは間違いなく犯人は俺と彼女の関係を知っていて、スマイルマークのすぐ近くに手紙を置いていたということは──携帯を握りしめる指が震えそうになって力を入れ直した。

「まどかさん?」

通話開始の合図と共に努めて平静を装って呼びかけた。いつものように『どうしたの』『何があったの』と仕事の用を尋ねるように返事をしてくれと願いながら。
もし最悪の事態になっているならばあのマークと共に彼女がそこにいたはずだ。電話番号を残しただけならばまだ彼女は生きている可能性が高い。そうあってほしいと望む気持ちが無理にその結論を導き出したのかもしれないけれど、それには気づかないふりをした。

『速すぎる男と言われてるんだったな。それにしては遅かった気もするが』

電話口から返ってきたのは海の底のように低い男の声だった。勿論これは彼女ではなく、また、彼女の知り合いであればこんな返事はしないだろうからその線も消えた。この声の主は一人しかいない。

「……彼女を出せ」
『怒ったのか?冗談だよ、思っていたよりも速くて驚いたくらいだ』

本題にすぐ入ろうとしないその姿勢に、笑みを含んだ声に怒りが湧き上がる。彼女は今どこにいて、この殺人犯に何をされたのだ。無事なのかそうでないかすらわからない。焦燥感に駆られるがままに怒鳴りつけ、彼女に触れれば殺すとでも脅迫してしまいたかった。
そうしなかったのは幼少期から叩き込まれた交渉術のお陰だ。敵が確実に人質を取っているならば敵を拒絶するのではなく共感しているように見せ、暴力的な行動を取らないよう誘導する必要があると何度も聞かされてきたではないか。
落ち着け。冷静になれ。俺がここで取り乱せば彼女は死ぬ。俺に電話をさせたということは何か目的があるはずで、彼女が既に死んでいたならば交渉材料にはならないと何年も警察から逃げていた犯罪者がわからぬわけもない。だから今は心を乱すな。弱味を見せるな。

『画面を見てみろ』

どういう指示だと思いながら従うと電話はテレビ通話に変わっていた。ディスプレイ越しに見えた彼女は椅子に縛り付けられた状態で腹部から出血し、床に血溜まりができている。一瞬にして彼女の状況を理解し、総毛立つ思いを覚えた。
こんなもの見たくない。現実だとも思いたくない。しかし目を逸らすことなく瞬きすらもせずに画面を見つめた。何がヒントになるかもわからないのだ、彼女を助ける手立てが整うまでは聞き手に徹するしかない。そう言い聞かせて喉の奥に出かかった罵倒の言葉を飲み込んだ。

『彼女は今電話に出られなさそうなんだ。すまないな』
「……それで、俺に何をさせたい?逃亡の手伝いか?どこに行けばいい?」
『やけに話が早いな』
「回りくどいのは嫌いなんでね」
『じゃあそこにいる警察を全員殺せ、なんてことは言わない。俺の目的は──ああ、待て。彼女が起きたぞ』

画面が暗転した。彼女の様子を見せるのはここまでということか。少なからず彼女が生きていることは確認できた。安心できる状況ではないものの、ここからうまく立ち回ればまだ間に合うはずだ。
電話を繋いだまま地図を開き、方角を確認した。彼女の下に敷かれていたラグには見覚えがある。ほんの僅かに見えていただけだったが、あれは彼女の部屋に敷かれているものと同じだった。ここから静岡までは最高速度で飛ばせば三十分そこらでつけるだろう。そして同時に静岡県警やヒーロー達に協力を求めれば、とメール機能を開いたところで指を止めた。電話口から声が聞こえたからだ。

『ホークス、ごめん』
「まどかさん?無理に喋らなくていい。すぐに行くから」

咳き込む音が聞こえる。映像がないからはっきりとはわからないが血でも吐いているのだろうか。床にできていた血溜まりは画面越しということを差し引いても黒ずんでおり、刺されてから時間が経っていることは間違いない。やはり一刻の猶予もない、彼女を早く病院に連れていかなければ。
あれこれと世間からは称賛の言葉を与えられてきたが、こんなにも自身の動きが遅いと感じたのは生まれて初めてのことだった。どれだけ翼を動かしても前に進んでいる気がしない。

『私油断して、撃たれて、個性使えなくて……ごめん』
「いいから。まどかさんは傷が開かないようにじっとして。大丈夫、すぐ着くよ」

彼女が謝ることなど何もない。俺が巻き込んだ。怒りと不甲斐なさと申し訳なさとで目の奥が熱を持つ。
俺が捜査に関わっていることが知られた上に彼女のことまで突き止められてしまった。極秘捜査だったから彼女にも知らせていなかったし、まさか危険が及ぶなんてことは想定もしておらず警護だってつけていなかった。いくら彼女がプロヒーローとはいっても二十四時間警戒心を解かないわけではない。付け狙っていれば隙などいくらでもあっただろう。
全部俺のせいだ。俺がこの状況を招いた。

『なんで君が謝る必要がある。悪いのは全部ホークスなのに』
『……ホークスが悪いわけない』
「……」
『何度も手紙を出しただろう、手を引かなければ後悔すると』
『手紙……何の話?』
『ホークスは君に何も伝えてなかったのか?わざわざ君達二人が会っていた場所から手紙を送ってやっていたのに……交通費と労力の無駄だったな』

脅迫状の消印は東京に大阪や福岡、そして静岡。捜査を撹乱するために全国から送ってきているのだろうと思っていたがそうではなかった。れっきとした警告だったのだ。あれは捜査妨害ではなく、逮捕寸前の悪あがきでもなんでもなく、彼女に危害を加えるという予告。

「……まさか」

全身に電気信号が走る。『後悔することになる』脅迫状にはそう書かれていた。勿論彼女に被害が及んだ時点で既に後悔の念は抱いているが、連続殺人犯が言う『後悔すること』というのは、つまり。

『俺の目的が知りたいんだったな?実は病気で余命幾ばくもない命でね、大人しく余生を過ごしたかったんだよ。でもお前のせいで台無しだ、ホークス』
「それなら逃亡しろ。今ならまだ警察にもそこにいることは伝わってない」
『わかってないな。俺が犯人だってバレた手前死ぬまで追われ続ける、だからそうなる前に捜査を終わらせたかった……なのにお前は俺が犯人だと突き止めてしまった』

コツ、コツと何かで机を叩くような音がする。指の背で叩いているよりも振動が軽い音。
何故こんな時に事件のファイルの内容が頭を過るのだ。現代では八割以上もの人間が個性を有するものの、時代を遡れば遡るほど個性所有者は少なくなっていく。つまり、昔の事件になればなるほど昔ながらの武器が凶器になる。例えば今回のファイルに載っていたような──銃とか。

「……やめろ」

直感で理解した。こいつはこれを聞かせるために電話させたのだ。

『俺の目的はもう叶わない』
「やめろ!」

俺にさせたいことなど端からなかった。逃亡する気もなく、邪魔をした俺への報復がしたかっただけ。群馬に誘き寄せ、彼女が住む静岡まで十分な距離を保ち移動速度の速い俺でさえも間に合わない時間を見計らって、そして──

『ホークス、お前のせいで彼女は死ぬんだ』

三度の銃声が聞こえ、電話が切れた。
感情も感覚も言葉も全てが消え失せた。一秒だってスピードを緩めず目的地へと飛んでいるはずなのに先ほどまで聞こえていたはずの風を切る音も、すれ違ったヘリコプターや飛行機のエンジン音も何も聞こえない。ただでさえ輪郭の不明瞭な雲の形は焦点が合わないせいで白い靄のような物体になった。

「……」

静岡にある彼女の家は女性の一人暮らしとは思えぬほどに大きいつくりで、そういえば親戚から借りていると言っていたなと昔の話を思い出した。
彼女とは色んな話をした。出会ってから暫くは仕事やヒーローについてのことばかりだったけれど、次第に個人的なこともたくさん話した。個性事故に巻き込まれて変な部屋に閉じ込められた時に好きな映画の話をしたり、不思議な夢の話をしたり。仕事抜きで博多へ遊びに来てもらったりもした。
いつの間にか膨れ上がっていた想いに気づいた後も過去や立場を言い訳にして一線を引いていた。ずっとそうすべきだったのに、遺伝子を呪いたいほどに俺は強欲な人間で、いつしか彼女の隣にいたいという願望を抱いてしまった。それが間違いだったと今ならわかる。

「……まどかさん」

リビングからは何かを引きずったような血の跡が彼女の部屋まで続いていた。この部屋に入るのは何度目のことだったか。キイ、という場違いな程に軽い音を立ててドアが開く。念のためにと翼の一部を剣に変えていたけれどその必要はなかった。
部屋には死体が二つ。一つは自殺した犯人だった。捜査資料で見た顔と一致している。動かすなと警察には非難されるだろうがそんなことはどうでもよかった。剣にしていた羽根で犯人の死体を部屋から出した。彼女の部屋に存在さえさせたくなかった。

「まどかさん、ごめん」

壊れた機械のようにその言葉しか出てこなかった。頭と胸それぞれに一発ずつ銃弾を受けた彼女は動くわけもなく、身体を縛り付ける紐さえなければ床に倒れていたことだろう。

「……」

羽根を使って紐を切った。重力に従ってぐらついた彼女を抱き止め、血溜まりの上に座り込んだ。彼女の長い髪は血で濡れていた。普段ふわりと香っていた心地の良い優しい香りは暴力的なまでの鉄の匂いでかき消されている。まるで彼女にはこれがお似合いだとでも言わんばかりに染み付いた匂いに吐き気がする。

「……俺が……」

まだ身体はほんのりと暖かくて、数分前までは彼女は息をしていたのだと実感する。そしてきっと数時間もすればこの暖かさも失われていくのだ、俺のせいで。俺とさえ関わらなければ彼女は死なずに済んだのに。何故死ぬのかもわからないまま、個性も取り上げられ絶望のままに死ぬことはなかったのに。
何故俺が捜査に関わっていると、彼女を殺せば俺に報復できると知られたかはわからない。それでも責任は俺に帰着する。犯罪者の親から生まれ、公安所属のヒーローとして世間に顔向けできない仕事を多々引き受けていながら人並みの幸せを望んだせいでツケが回ってきたのだ。

「……俺のせいで」

彼女の頭を支える腕に、彼女の背中に回した腕に力を込める。
今までに一度だってこんな風に抱きしめたことはない。彼女が俺に気があるかもしれないと何となくわかっていながら、過去を知られたら離れていってしまうのではないかという自己保身から最後の一歩を踏み出せないままの関係を続けていた。
今更後悔したところで遅いのに、次から次へと贖罪の念が浮かび上がってくる。あの時ああすれば、こうしていたら。そんなことを考えたところで彼女が目を覚ますことはないのに。

「ごめん、まどかさん」

同じような社会を夢見た彼女はもう夢を見ることはない。何を感じることも、思うこともない。噛み締めている唇から出た血とは別の液体が彼女の肩に落ちた。




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