「まだここに住んでるんですね」

そう言って彼女は部屋のあちこちに視線を向けながら過去を懐かしむように緩く微笑んだ。付き合っていたとはいえその期間はほんの僅かで、お互い休みも中々合わなくてこの家に招いたのも二、三回くらいしかない。それでもこの部屋を懐かしめるような何かを感じてくれたのかと思うと少し心が暖かくなる。

「住み心地がいいと引っ越す理由もない。心地よさを体感したのは最近になってからだが」
「普段は忙し過ぎなんですよ。怪我の功名でしたね、不謹慎でしたら撤回しますけど」

彼女は笑いながらも段ボールの中身を仕分けを続けてくれていた。食事の途中で復帰前の新作グッズ監修業務が山積みだと零したら手伝いを申し出てくれたからだ。
付き合っていた当時はどこか壁のようなものがあったというのに、別れてから数年経った今の方が二人でいてもまだ気まずさを感じないのは何とも皮肉なものである。

「適度に休憩してくれ。今日中に終わらせなければいけないわけでもない」
「いつが締め切りなんですか?」
「来週末だ。復帰に向けて忙しいだろうと締め切りを長めにしてくれている」
「もうすぐですもんね。ベストジーニストに戻るのは」

彼女はソファの周りの床を埋め尽くしている段ボールの一つから『ベストジーニスト』のぬいぐるみを手に取り、こちらに向けながら比較するように見ていた。

「ほつれでも?」
「いえ、よくできてるなあと思って」
「その業者の縫製でミスがあったことはないからな」
「そういう意味じゃなくて、ベストジーニストにそっくりだなと思ったんです。可愛いですしたくさん売れるんでしょうね」

自分を模したぬいぐるみに可愛いと言われるのはなんともむず痒い気持ちになる。無論、この表現に大した意味がないことはわかっている。女性という生き物はよくわからないタイミングでその言葉を使うものだ。
ただ、一度は男女の仲となり、今でも何がしかの気持ちが残っている身としては少しくらい気になってしまうのは仕方ないだろう。

「あ、確認終わった段ボールはどうします?部屋の真ん中に置きっぱなしっていうのもどうかなって」
「ああ──シューズクローゼットに置いておいてくれるか」

きっとこの作業が終わればもう彼女をこの家に呼ぶことはなくなってしまう。仕事ならいざ知らず、プライベートで食事に誘うのも今後はすべきでないとわかっている。彼女は自分に対して仕事相手だと割り切っているのだから。
段ボールを一つ、また一つと運んでくれている彼女はもう自分の事を名前で呼ぶことはなく、多くの人達と同じようにベストジーニストが呼び名となった。言葉からも態度からも、明確な線引きは伝わってきている。

「……まったく、いい歳して……」

彼女が段ボールを置きに行った隙にため息を吐く。
今でも好きか、と言われるとわからない。付き合っていた時に戻りたいか、と言われるとそれにも明確な答えを出すことができない。肯定も否定も自分の気持ちを正確に表すには不適格な気がして。
ともすると、認めたくないだけなのかもしれない。彼女はもう前に進んでいるのにいつまでも自分だけがあの頃に執着しているのを。自分はもう彼女にとって特別な人間ではないということを認識したくないだけなのかもしれない。

「?」
『あ、よかった。ジーニストさん、今少しいいですか?』

突如として鳴ったインターフォンに映し出されたのは珍しい人物だった。

「突然だな」
『すみません、アポなしで』
「何か用なんだろう、上がってこい」

手元にある解錠のボタンを押すとオートロックの開く音が聞こえ、赤い羽根がそのドアを過ぎていくのが映ったところで画面を消した。
どうしてホークスが家にまできたのか、理由は分からずとも遥々博多から来た多忙なヒーローを追い返すほど心は狭くない。
確か彼女とホークスは夏に仕事をしていたから顔見知りでもあるはず。博多のことを心配していた彼女のことだ、ホークスから直接話を聞けば一息つけるのではないか。

「……」

時計を見ると作業を始めてから一時間半ほど経っていた。まだまだすべき事はあるものの、ホークスも来ることだし休憩にしてもいい頃具合だろう。

「悪いが今から人が来る。玄関の鍵を開けておいてくれ」
「わかりました」

電気ケトルのスイッチをいれ、ティーカップを三つ並べながら玄関の方へと声を向けると了承の返事が届いた。
ホークスの用が何とわかったわけではないが皆同じプロヒーローで信頼関係も構築されている。そこまで特殊な任務でなければ同席されたとて構いはしないだろうと三人分の紅茶を用意していると、玄関の方でチャイムが鳴り、間髪入れずにドアを開ける音がした。

「どうぞ──」
「……え?」
「ホークス……」

すぐに行こうと思えば行けた。二人がいる場に続くドアは開け放ったままだったし、更に言うならば、流石に来客を出迎えねばとドアの近くまで行っていたから二人が顔を合わせたその瞬間に廊下の先で立ち尽くしていた彼女の横顔は見えていたのだ。

「あー……まどかさん久しぶり。この前はありがと、助かったよ。ジーニストさん中にいる?」
「──……うん」

いや、だからこそ、ホークスを出迎えようとした足は止まらざるを得なかった。彼の名を口に出した彼女の横顔も、その名を口にした際の声色も驚き以外の複雑な感情が混じり合っているように見えて。
そんな表情は見たことがなかった。あんな声を聞いたこともなかった。ホークスという男はそこまでの感情を抱かせるような存在なのだと、突きつけられた現実を受け入れるには少し時間がかかった。

「お邪魔します」
「ホークス、時間はあるのか?少しゆっくりしていくといい」
「すみませんジーニストさん。まどかさんといるって知ってたら来なかったんですけど」

ようやく玄関を越えて家へと足を踏み入れた彼の顔を見ることができた。毎年二回ほど顔を合わせているビルボードチャートの時のような、取材や何かで一緒になった時のようなへらりとした笑顔。これがホークスというヒーローだと自分も含め皆がそう認識しているだろう。
しかし、もしかすると玄関を越えてくるまでの彼の顔はホークスのそれではなかったのかもしれない。そんな事を考えさせるくらいには二人の空気は仕事仲間が醸し出すものではなく、何がしかの関係性を予想させるには十分すぎるほどだった。そう、多少のことでは乱れぬと自負している自分自身の感情が波打つくらいには。

「どこぞの雑誌記者みたいな事を言うな。想像しているような事はない」
「そうですか」

むしろ君達二人の方が──なんて事を口に出せるわけもない。藪蛇をつつきたくはないのだ。世の中には知らぬままでいた方が幸せな事も多い。
玄関の方から戻ってきた彼女に「休憩にしよう」と声をかけてソファへ座るよう促した。

「彼女には仕事で東京に来たついでに検品作業なんかを手伝ってもらっている」
「ベストジーニスト復活記念グッズ、ですっけ?売れ行きすごそうですね」

横を歩くホークスの目が床に置いてある段ボール達、表彰された際に貰った盾や記念に置いてある物達が飾られている棚へと移動していく。ホークスも似たような物を飾りきれないほど貰っているだろうに、瞬きを挟みながらも数秒の間棚を見て口をつぐんでいた。

「紅茶でいいか?」
「ありがとうございます」

どことなく居心地が悪そうに座る彼女の前に置かれたティーカップへと紅茶を注ぐ。十年来の付き合い、というわけではないがミルクも砂糖も不要だという飲み方の好みを覚えるくらいには一緒にいた仲だ。会釈をする彼女にソーサーを押し出した。

「ホークスは?砂糖を使うなら」

紅茶を注いでいると流石に視線は棚から離れていた。角砂糖の入った瓶を近くに置くと「助かります」と言って茶色い砂糖の塊をつまみ、溶けてなくなるまで口を開く事はなかった。

「博多は落ち着いたのか?」
「おかげさまで。エンデヴァーさんには大怪我させちゃいましたけど……一般市民への被害は少なく済んでよかったです」
「だそうだ。よかったな」

少し前に博多のことを考えて上の空になっていた彼女のことだから現地のヒーローからそう聞けてホッとしただろうと思い話を向けてみたが、タイミング悪く紅茶を飲んでいたらしい彼女が数回頷いて長い髪がさらりと揺れた。

「本当よかったです。復興の途中で出てきちゃったから……また何かあったら呼んでもらえれば」
「じゃあまた遠慮せず連絡させてもらうんで」

ティーカップで口元を隠しつつホークスが彼女に笑顔を向けた。彼女もまた口の端を緩く持ち上げてはいるが、二人の表情と感情とが一致しているように見えないのは穿ち過ぎなのだろうか。
そんな事を考えても仕方ないか。今の自分は彼女が誰にどんな感情を抱いていようが口出しをするような関係性ではないし、邪魔しようと思うほどの気持ちを彼女に持っているとも断言できない。

「私そろそろおいとましますね。ホークスもジーニストさんに何か用があるんだろうし」

他愛のない会話を十分だか十五分だか続けた頃、ティーカップの中身を飲み干した彼女が徐に立ち上がった。

「ごめんまどかさん、追い出す形になって」
「ううん。それじゃあ二人とも、また」

そう言って最後まで表情を崩すことなく彼女は去っていき、それを見送ったホークスもまた、いつもと何ら変わりない笑顔を浮かべていた。




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