01

財布も持った。飛行機のチケットもビザも持った。通帳の中の僅かなお金はユーロに換金して、通帳は解約。日本にいる間だけと思って使っていた携帯も解約。女にしては身軽すぎるスーツケース1個とバッグ1個。それを抱えて、日本を出る。














久々に来たイタリアは、といってもそこまで変わりなかった。
日本にいた3年半は長いようで短くて、短いようで長くて。戻ってきたイタリアの、日本では見られないのどかで活気のある風景は、私の胸をわくわくさせる。戻ってきた、という感じがする。肺の中の空気が恋焦がれたイタリアの地の空気でいっぱいになっていく。ずっと、この日のために頑張ってきた。少しだけ、目が熱くなる。
よし、と意気込んでスーツケースを掴もうと伸ばした手が、空を切った。

「……え」

ない。スーツケースが、ない。
スーツケースの上に置いていたバッグ諸共、ない。
愕然としながらきょろきょろと辺りを見回すと、既に遠くの方に、私のスーツケースを持った男が走っているのが見えた。
置き引きだ、と分かった瞬間走り出す。

「待って!」

油断していたのは私だけど、まさかそんな自分がそんな目に遭うなんて思ってもなかった。みんなそう思って被害に遭うんだろうけども。
ヒールじゃないのが救いで、声を上げながらばたばたと男を追う。かつて住んでいた街と言えど、久しぶりの感じとうろ覚えな部分とで、石畳に躓いたりしてなかなか男に追いつけない。どころか、離されてる。男が曲がった曲がり角に追い付いたところで、完璧に見失ってしまった。

「嘘、でしょ……」

確かに、確かにそんな大したものは入ってない。金銀財宝も入ってない。ただの庶民の荷物だけれど、とられると困るんだよ。だって、これでは一文無しだ。
上がった息を落ち着けながら、そして起こった出来事をなんとか飲み込もうとしながら、とりあえず分かる場所へ戻ろうと踵を返し、僅かに息を飲んだ。男を追い掛けるのに必死で目に入ってなかったけれど、なかなかに暗い路地裏だ。治安が良くないと昔から噂を聞いていた区画に私は入ってしまっていた。ガサ、と背後で音がして振り向くと、いつの間にか柄の悪そうな男が2人立っている。

「お姉さん、なんか持ってない?」
「何も、持ってまーー……せんっ」

先程の息も整わぬまま、走り出した。「待てゴラァ」とか「逃げんなよ」とかいう言葉と下卑た笑いが聞こえる。捕まっていい事がないのは猿でもわかる。
必死に足を動かすけれど、住んでいた頃でさえ来なかった地域のせいで、なかなかうまく逃げきれない。寧ろ、徐々に男達の声が近付いて来てる気がしてならない。
いやだいやだ。せっかくここまで来たのに。こんなところで、彼に会えなくなるかもなんていやだ。
少しの護身術は日本にいる間やったけれど、それでも護身術は護身術だ。対抗できたとして1人に対してで、大の男を2人なんて相手にできるわけがない。何とか逃げ切るしか道はない。そんなことは、分かっているのに。

「っあ!」

映画やドラマで、逃げなければ行けない時に限って転ぶ展開を、私は「なんで!? なんでこんな時に!? タイミング考えて!」などと文句をいう人間だったけれど、焦っていると仕方のないことなんだ。足はもつれるし、走り慣れない道だし、やっぱり躓いてしまって、勢いのままごろごろと転がり壁に背中をうちつけて止まった。痛い。息ができない。被っていた黒のウィッグはずり落ちていて、自分の真っ赤な髪が目に入る。そして、男達の「やっと止まったか」という声が耳に入る。なんとか起き上がろうとするものの力は入らなくて、視界が霞む。もうだめだ、と意識を手放す最期、「ひいっ」という声が聞こえた。