ぽちゃん、と水の音がする。
その度に、煉獄は小さく身体を震わせた。
水浴びをしていいかと女が尋ねたのは、鬼の返り血をべったりと身体に浴びてしまっていたからなのだが、いきなりそんなことを尋ねられると思ってはいなかった煉獄の反応が遅れた。
どこかへと歩き始めた女に声をかけると、「ついてくるならついてきていいわよ」と歩みをとめることはなく、さすがにこの女の正体がわからないまま去るわけにはいかないとついていった。
小さな滝と湖になっている場所にたどりつくと、徐に女が服を脱ぎだして慌てて背を向ける。
「脱ぐときは脱ぐといってくれ!」
「水浴びするっていったでしょ」
まあ、確かに服を着たまま水浴びはしないか。
「それはすまなかった!」
「別にいいけれど」
シュルシュルと衣擦れの音がして、ぽちゃんと水の音がした。ちらりと目をやると、女は水の中に入っている。とりあえず安心してひとつ息を吐くと、女が声をかけてきた。
「そんな遠いところに居たんじゃ会話ができないから、もっとこっちへ来て頂戴」
そんなことを言われても、山の上の水は透き通っている。下手に近づけば、たとえ水の中に入っているといえど、直視ではないといえど、女性の身体を見ることになってしまう。そう伝えると、しばらくの沈黙の後、「すけべ」と一言女が発した。
「なにっ!?」
「後ろを向いていればいいでしょう、私もそうする」
「…………わかった」
立ち上がり、水辺の際まで寄ると石の上に腰を下ろした。
ぽちゃぽちゃと水の音が寄ってきて、煉獄の背の側でとまる。
「冷たくはないのか」
「冷たいけど、これしかないもの」
「村には下りないのか」
「下りない」
「彼等は君に感謝をしていたぞ、なのになかなか会えないという。む!そうだ!君に会えたら渡して欲しいと預かっていたのだった!」
ひとりで会話を進めていく男だなあと女が思っていると、煉獄がごそごそと荷を漁る。小さな鞄から出てきたのは笹の葉で包まれた饅頭だった。
「村の者達からだ」
後ろを振り返らないように、ただ女の視線に入るようにと、自分の座る隣へ置く。
暫く何も発さなかった女が、辛うじて聞こえるほどの声量で「別にそんなことしなくていいのに。自分達も裕福なわけじゃないんだから」と言ったのを、煉獄は聞き逃さなかった。同時に少し頬が緩んだ。
ああ、この人は人間の敵ではない。恐らく、十中八九人間ではないが、人間を襲うものではない。
「良かったら、君の名前を教えてもらえないだろうか」
「聞いてどうするの」
「呼ぶ時に困るだろう」
「呼ぶ時なんてあるの?」
「今呼びたいし知りたいと思っているぞ!」
「ふーん、変な人ね。慧よ」
「名か?姓か?」
「苗字はないわ」
「では慧!俺は煉獄杏寿郎という!」
「声が大きい」
一際大きな声での自己紹介に、慧は耳を塞いだ。それはすまない!と謝る声もまた大きい。
「率直に聞く。君は何者だ?鬼、ではないと思うんだが」
「その鬼っていうのが、さっきのアレみたいなことを言うのなら違うわ、一応」
「一応?」
「鬼は鬼でも違う鬼」
何でもないことのようにさらりと発せられた言葉に、無意識に刀の柄に手が伸びる。
恐らく女もそのことに気付いていて、ざぱっと立ち上がる音がした。
ぴりっとした空気が流れる。
「君は、人間の敵だろうか」
「何を以て敵とするかによるわね」
「そういう煙に巻くような返しは求めていない。返答次第で俺は君を斬らねばならない」
「──私と、この村の者に害を与えるものは敵とみなす」
キンッと空気が張り詰める。
煉獄の言葉に、慧が苛立っているのは声音でわかった。
煉獄はかなり肝の据わった男だが、それでも背中にビジビシと刺さる殺気に近い敵意に、たらりと冷や汗が伝う。
「では言葉を変えよう!君は罪なき人間を襲うことはあるのだろうか」
「ない」
質問に対してふっと空気が緩み、慧の声と同時にボチャンとまた水に浸かり直す音がした。
どうやら、質問の仕方も良くなかった。そういう意図の質問か、と許された空気感に、少しだけ安堵した。
「もう少し質問してもいいだろうか」
「どうぞ」
「鬼は鬼でも違う鬼というのは?」
「吸血鬼よ。人の血を飲むわ。でも別に無理に襲って飲もうとは思わない、これは個体差があるから私に限っては、だけれど」
「だが、無理に襲わないとしても食事は必要だろう。飢餓状態になることはないのか」
「飢えで理性を失って襲うと?しないわよ、そこらの雑魚じゃないもの」
「……俺は鬼を斬る、先程のような奴らだ。鬼はいっぱい見てきたが、吸血鬼と名乗るものは見たことも聞いたことも無い。その辺りにいるものなのか」
「私の言い方が悪かったわ、恐らくこの世界にはいないから心配しないで」
妙な言い回しをする女だなと思った。
この辺り、というのなら分かるがこの世界?
違和感を感じるもののどう尋ねたらいいのか分からない。口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していると、視界の端で何かが揺れた。
そちらに目をやり見開く。
濡れた髪を頬と身体に貼り付けながら、全裸でストンと煉獄の横に腰掛けて、先程の饅頭を手にしていた。これにはさすがの煉獄も驚きの上限を超えた。
「っな……!君は!何を考えている!嫁入り前の婦女子が会ったばかりの男の前で肌を晒すなど……!」
「服今乾かしてるの」
そう言い、服の干してある方を指さしながら饅頭にぱくりと噛みつく。途端、ぱあっと顔が輝くものだから、煉獄は既に見開いていた目を更に開いた。
「饅頭が好きなのか?」
「これ?まあ、初めて食べたけど好きよ」
あっという間にひとつ完食し、ぺろりと指を舐める。薄い桃色の唇からちろりと出てきた真っ赤な舌に、何故か少しどきりとした。
「あげる」
そう言って慧は煉獄に残りの饅頭のひとつを渡す。これは君へと村の人がくれたものだ、と断ろうとするが、「大丈夫よ、何も入ってないし美味しいから」と半ば強引に渡された。
別に、あの村人たちが俺であろうとこの桜の精に向けてであろうと、敵意を持って食べ物に何か入れるということは無いだろう。恐らく彼女もそう思ってはいる、何の躊躇もなく食べていたし。ただ、少しの警戒心ともしかしたら煉獄に渡す前の毒味をと思っていたのだろうかと思うと、言葉にならない気持ちになる。
「かたじけない、有難く頂く」
そう言って、彼女へと笑顔を向けるが、そうだ、忘れていた。彼女は今全裸だ。
長い髪の毛で隠れているところもあるといえど、しっとりと濡れた肌と、ふたつの膨らみが目を焼く。
少し躊躇するが、致し方ない。
「これを羽織ってもらえないだろうか!」
言葉は尋ねているが、返事を聞かずに炎柱の証ともいえる羽織を彼女に被せた。
少しでも肌の露出を避けるためにはこれしか思い付かなかった。
「濡れちゃうわよ」
「何、すぐ乾く。心配には及ばない」
「……そう。じゃあ、有難く借りるわね」
そう言って羽織をぎゅっと握り包まる。
「慧はどこに住んでいるんだ」
「定住はしない派だけど、そもそも家がないわ。気付いたらここにいたから」
「拐われてきた、ということか?」
「いや……多分違うわね」
「む?」
「別にいいのよ、戻りたいとも思わない」
生きれる場所で生きるだけだから、と彼女は言った。
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