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「ちゃおっス」

そんな可愛らしい声をして、会いたくなかったその子は現れた。いや、現れたというよりも、雲雀さんに呼ばれて応接室へ行くとそこに居たという方が正しい。咄嗟のことに目を丸くしてしまったが、雲雀さんを気に入ってる赤ん坊のことだからここにいても何ら不思議はない。私は単に雲雀さんに呼ばれた女子生徒で、たまたま居合わせただけなのだからと心を落ち着かせて、こんにちはと返した。ソファーで優雅にコーヒーを飲む赤ん坊の前を通り過ぎて、雲雀さんへと近寄る。

「お仕事ですか?」
「いや、僕は今から校内の見回りだよ」
「じゃあ私は……?」
「オレが呼んだんだぞ」

首を傾げていると、ソファーからそんな声がする。どくりと心臓が鳴ったのがわかった。落ち着け、落ち着け。僅かに息を吐いて、ゆっくりと笑みを浮かべて振り向く。先ほどと変わらずソファーに腰掛けた彼に、「私に何かご用ですか?」と首を傾げた。赤ん坊が答えない僅かの間に、雲雀さんが「暫くしたら戻ってくるから、待ってて」といって出ていく。待って、一人にしないで。

「良かったらお茶にしねーか?」

そう、空のカップをどこからか取り出した彼に気づかれないように息をついて、雲雀さんを待つ間ですね、とその隣に腰を下ろした。
丁寧に、器用に、小さな手で入れてくれたコーヒーを有難く頂く。美味しい、と思わず呟けば「ブラックで行けるなんて大人だな」とその口角を上げていた。無言で彼の横顔を見つめる。まったく、分からない。何の用なんだろう。ぼんやりとしながらコーヒーカップに口をつける。と、唐突にぱっとこちらを向いた彼の真っ黒い瞳に私の驚いた顔が映った。

「お前、名前なんてーんだ」
「……人に名前を尋ねる時は、まず名乗るべきだと思います」
「そうだな。オレはリボーンだ。ダメツナ、沢田綱吉の家庭教師をしてる」
「……そんなに若くて家庭教師ってすごいですね」
「見た目と中身は伴わないからな」

何の気なしに言われたその言葉が、私にも当てはまって、ふふっと笑って相槌を打ち、私も名乗った。少しだけ不思議そうな顔をしたリボーンが暫くして「お前は雲雀に気に入られてんのか?」と聞いてきた。私は慌てて首を振る。

「いや、気に入るとかではなくて……うまく言えないですけど、放っとけ無い、のかもしれないです」
「?どういうことだ」
「雲雀さんは、優しいですから」

何度も触れてきた優しさ。何度も助けられた優しさ。不安定な私を、放っておけないのだろうと思う。気に入るとかそんな有難いもんではない。私は迷惑をかけてしまっている。
私の返答にあまり納得のいってなさそうなリボーンの謎の間が空いて、「いい、本題だ」と口を開いた。本題?と首を傾げる私の耳に、驚きの一言が飛び込む。

「お前、ツナのことが好きなのか?」

思わずカップを落としそうになったのを堪えたけれど、その代わり私の顔はきっと情けない顔をしていたと思う。どうして、と漏れた声は震えていて、その情けなさに自嘲した。

「どうやらマジらしいな」
「本当だったところで、どうするんですか?」

我ながら冷たい声が響いた。リボーンの顔が少しだけ厳しくなったのが目に映る。

「あなたには関係のないことでは?」
「──今のあいつには足りねえもんがある。それを、」
「自覚させる?」
「……」
「無理です、私には。適任がいらっしゃるでしょう」
「京子は良い奴だ。だが、良い奴だからこそ足りねえところもある。その点お前は賢そうだ」
「──その発言は、京子ちゃんを侮辱しているんですか?それとも、私を侮辱しているんですか?」

馬鹿にしないで。
先程の動揺が嘘だったかのように、まっすぐと彼の目を見つめて、まっすぐに声が伸びた。一瞬、彼が息を飲んだような音がする。

「私が彼を好きなことを、あなたに利用させたりなんかしない」
「っちげ、」
「私のこの想いはっ、私だけのものなんだから!」

そう声を荒らげて、応接室を飛び出した。
触らないで。触れないで。これは私のものなんだから。
私のこの想いは、私だけのものなんだから。
誰にも触らせない。利用なんてさせない。
汚い私の唯一綺麗なこの想いを、私は守らなければいけないんだから。
溢れ出る涙が怒りなのか、悲しみなのか、分からない。途中で雲雀さんとすれ違うけれど、私は顔を上げることは出来なかった。










「何やってんだ、オレは……」

そう呟いて、ボルサリーノを深く被り直した。去り際に見えた彼女の涙が心を揺らす。
蕪木嫩。存在を知ったのすらつい最近。雲雀が気に入っている女がいると漏らしていたのを覚えていて、その名前を京子からもちらほらと聞くようになったのがきっかけ。それでも、ただの一般人。そう思ってオレから特別動くことは無かったけれど。

「沢田くんが好きだよ」

通りかかった廊下で聞こえた凛とした声。

「私の好きな人が、私の好きな友達と幸せになってくれるなら、それが私の幸せ。それが苦しくて、辛くて、泣くことがあっても、彼が生きていてくれるなら、それだけで私は生きていける」

壁に隠れちらりと声のするほうを見ると、胸元で合わされた手が切なげに祈るようにされている。
──いい女だと思った。
あのバカツナを好きと言うには勿体ない、あのバカツナの傍に置くには勿体ない。だがそれはもしかするとあいつの潜在能力を引き出す手になるかもしれないと思った。それが、仇。

「私のこの想いはっ、私だけのものなんだから!」

「あんな顔させるつもりじゃなかったんだがな」

あまりにも悲痛な表情が瞼に焼き付いて離れない。

「ねえ赤ん坊。あの子に何したの?」

いつの間にやら戻ってきていた雲雀が険しい顔でオレに聞く。ほら見ろ、やっぱりお前は気に入られてんじゃねーか。

「ちょっとな」

俺の前で終始警戒した様子だった彼女が何者なのか。この胸のもやつきは何なのか。カップに残った少しのコーヒーをぐいと飲み干した。