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「蓮巳くん、昨日のあれは一体どういうことですか」
「怒った?」
「怒っ……てはない」
「そっか、そりゃよかった」

そう言ってぽんぽんと頭を撫でられた。
昨日のあの、彼とふたりきりになってしまったあとそこそこ会話は弾み、暫くすると蓮巳くんたちが戻ってきて解散となった。昨日は言えなかった言葉をぶつけて見たけれど、怒ってるわけでは確かにない。なんてことを!と思ったけれど、動揺しただけで怒るなんてとんでもない。絶対的に蓮巳くんの気遣いで、そのおかげで、私はひとつ救われた。言うなら感謝の言葉な筈なのだけれど、でも、私の中では救われてよかっためでたしめでたしで終わる話でもない。私はとても、面倒くさいやつだ。
そういう葛藤を全て見透かしたかのように頭を撫でられてしまうと、もう、何も言えない。悔しい。悔しくて、嬉しい。なんだか複雑な気持ち。
何も言葉にできずにじーっと蓮巳くんを下から見ていると、その視線に気付いた蓮巳くんがふっと優しく目を細めてた。







「蕪木さん、俺ちょっと用事があるから先に帰るから」
「え、うん、わかった」

あれから三日経った水曜日の放課後。風紀委員のお手伝いがない日は、特に約束をしているわけでもなく、なんとなくタイミング蓮巳くんと一緒に帰ることが多かったのだけれど、唐突に、なんだかすごく生き生きとした雰囲気を醸して蓮巳くんはそう言い残して去っていった。表情が特に大きく変わる訳では無いけど、なんだろうな、蓮巳くんはオーラで感情がなんとなく分かる子だ。
今日は手伝いはいらない、と雲雀さんには応接室から追い出されたし、さて、どうしようか。
外を見れば雨が降っているけれど、それは朝から続いているものではない。つい先日梅雨明けが報道されて、朝から空は晴れていて、今日の天気予報を見なかった私は完璧に油断していた。昼前に降り出した頃は通り雨だろうと思っていたけれど、分厚い雲は未だに途切れそうもない。
徐々に減っていく教室の中で、急いで帰ることも無いし、傘もないし、濡れて帰るなら人が減ってからにしよう、なんて考えながら、ぼんやりと窓際に椅子を持って行って借りていた本を読む。時折、帰っていく子が「バイバイ」と声をかけてくれて、それに応えて、そして本を読む。人が減っていくと、話し声も減り、代わりに雨の音が鮮明に心地よく鼓膜を刺激してくる。暫く本を読み進めていると、気付いたら周りには誰もいなくなっていて、雨音に眠気を誘われた私は人目がないことをいいことにゆっくりと床に寝転がった。





「蕪木さん!」

いきなり私を呼ぶ大きな声が耳に届いて、ぱちりと目を覚ました。

「えっなんで蕪木さん倒れてるの!?どうしよう、シャマル呼ぶ!?でもシャマルはなあ……ええええどうしよううう!」

何事かと思い周りを見渡すと、こちらに背を向けて頭を抱えるあの子の姿があった。なんで?というのと同時に、これは勘違いさせてしまってるなと瞬時に分かってのそのそと起き上がり、「さわだくん」と声をかけた。

「えっ、あれ、蕪木さん大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。ちょっと、寝てただけ」
「なんで床で寝てんのー!?」

あはは。なんか、漫画で見てたとおりの反応だ。風邪ひいちゃうよ、と言ってくれる彼はやっぱり優しい。
寝起きで目を擦り、ふあ、と小さく欠伸をしながら、はたと我に返る。あれ?なんで沢田くんがここにいるのかな?クラスが遠いってわけではないけど、わざわざ電気の消えた薄暗いよその教室に入ってくる理由はないはずだ。

「あの、沢田くんどうしてここにいるの?」

首を傾げながらそう聞くと、何かを思い出したように沢田くんは「あ!」といった。

「あのね、傘持ってきたんだ!」
「えっ」
「今日、蕪木さん傘持ってきてないんでしょ?」
「なんでそれを……」

聞くところによるとこうだ。
沢田くんは早速私の貸した壊れてしまった傘の代わりに、新しく購入してきてくれたらしい。昼休みに私のクラスまで持ってくるつもりだったのだけれど、先に寄った売店で蓮巳くんと会い、「蕪木さんなら昼休み委員会でいないから放課後持って行ってやってよ、今日傘忘れたって言ってたし」と言われたそうだ。ちなみに、私は今日昼休みは委員会ではなくて、確かに少しだけ応接室に寄りはしたけれど普通に教室でごはんを食べてたから、またも蓮巳くんがちょっと気をきかせてくれたんだろうな……。
とりあえずまあそれを聞いて、放課後に教室にいくつもりだったけれど、先生に呼び出され少し遅れてしまって、もう帰っているのかなと私の下駄箱を覗いたらまだ靴がある。教室にいるか、もしくはまだ鞄があるか見に行こうと思って入ってきたら、床に私が転がっていたということだ。びっくりさせてしまってちょっと申し訳ない。

「こんなに早く、わざわざありがとう」
「ううん、寧ろ遅くなったくらいだよ。傘、本当にありがとう、壊しちゃってごめん」

そう言って差し出された傘は、私が好きだと言ったオレンジ色。本当にとても綺麗な、鮮やかなオレンジ。

「綺麗な色」
「オレ、こういうの本当に分からなくて母さんに少し聞いたりもしたんだけど、これでよかった……?」
「もちろんだよ、すごく、すっごく嬉しい。わざわざありがとう、大切にするね」

早く使いたいけれど、使うのも勿体ない。もらったばかりで今日使うの、やっぱりちょっと勿体ない。でも、やっぱり早く使いたい。まだ開いてもいない傘だけれど、宝物決定だ。

「蕪木さんまだ残るの?」
「ううん、もう帰るよ」
「じゃあ、下まで一緒に行こう!」

鞄とってくるから待ってて!と、こちらの返事も聞かずに飛び出して行った沢田くんの背中を見送る。

「ま、マジ……?」