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こんな日が来るだなんて、誰が予想できただろうか。誰が夢見ただろうか。
「おまたせ!」と声がしてそちらを振り向くと、ほわほわ笑いながら走ってきた沢田くんが、盛大に、こけた。

「さっ、沢田くん! 大丈夫……!?」
「だ、だいじょうぶ!」

びっくりして駆け寄ると、顔を赤くしながら慌てたように立ち上がる。やはり彼のドジっ子は本物なんだなあ、とすごく他人事のように思ったり。まあ、実際他人事なんだけれど。
歩き出した沢田くんの少し後ろを歩きながら、この状況をいまだ脳がうまく処理できずにぼんやりと彼の背中を眺める。正直、頼りない背中だ。でも、まだまだこれからだからね。誰よりも強く、優しく、大きくなっていくであろう背中。その背中に、手を伸ばせば届く距離を私は今歩いているんだ。
ふとそう考えて、いきなり実感がわいてきて、顔に火がついたように熱くなってしまって、視線を下に落とした。
すごい、唐突に恥ずかしくなってきた。いや、恥ずかしく、というのも違うかもしれない。大好きな、恋焦がれた彼が、本来であれば世界がひっくり返っても会うことはできなかったであろう彼が、今私の前を歩いている。私を認識して、私の歩みに合わせて歩いている。夢かもしれない。
夢だったら、覚めなくていいな。覚めないでほしいな。
申し訳ないことに、意識した瞬間話せなくなってしまい、無言のまま下駄箱についてしまった。上靴を脱ぎ、靴を履き替えて出入口までいくも、雨はまだ音をたてて降り続けている。

「梅雨、あけたのにね」

苦笑しながら沢田くんが言い、本当にね、と言いながら、頂いたばかりの傘を開いた。

「かわいい……!」
「本当!?」

オレンジ色の傘は、開くと傘の端を縁取るように白枠の花柄が続いている。加えて、暗い教室では気付かなかったけれど、実は傘の中心に向かって黄色になっていくというグラデーションになっていた。とてもかわいいけれど、幼すぎない。とても私好みなものだ。

「なんだか使っちゃうの勿体ない。濡れて帰ろうかな」
「待って! せっかくの傘なんだからちゃんと使って!」
「あはは、冗談だよ」

半分冗談、半分本気で言った言葉に、沢田君が慌てたように焦ったようにツッコミを入れてくるものだから、自然と笑ってしまった。くすくすと笑う私に、彼がびっくりしたように目を丸々とさせている。どうしたの、と首を傾げると、彼がほにゃりと嬉しそうに笑った。

「蕪木さん、やっと笑った」
「──」
「オレの勘違いだったら申し訳ないけど、なんだかオレと話す蕪木さんいつも、なんというか遠慮気味だったから……」
「そんなこと、ないよ」
「そう? なんか、無理してるのかなって思ってたんだ。嫌われてるのかなとも思ったんだけど、」
「ちがっ」

ちがうちがうと首を振る私に、沢田くんが「大丈夫だよ」と言う。

「嫌われてないなってのは、ちょっと話したら分かったから」

そうよ、嫌ってなんかない。大好きだもの。困ってしまうくらい、悲しくなってしまうくらい、やめたく、なってしまうくらい、大好きだもの。
優しい彼が、首を振りうつむく私に「大丈夫だよ」を繰り返す。避けたのは私の方なのに。

こわかった。
私は、こわかった。怖がった。
この想いが報われることはないと知りながら、大好きな彼に、認知されてしまうことが。
大好きな彼が、幸せでいてくれればいいと思いながら、その幸せが自分ではない他の女性と成されていくのを見るのが。
幸せをみた私が、彼が選ぶであろう私の大事な友達に対して、醜い感情を持ってしまうことが。
私は、彼と出会うことで、彼に、私に、期待してしまうことが、こわかった。
彼は残酷だ。優しくて、暖かくて、やわらかくて、心地よくて、残酷だ。
でも、それは私が勝手に感じていることであって、彼にとっては当たり前のこと。誰かに優しくするのは、至極当たり前のことなのだ。
その優しさを、受け取らないのはきっと私のためになる。
でも、受け取らなければ、それは彼を傷つけるのだろう。何も悪くないのに、自分のせいかなと、少しだけ、私の与える影響なんてほんの雀の涙ほどかもしれないけれど、ほんの少しだけ、心を陰らせてしまうのだろう。

──じゃあ、いいよね?

心の中の私が頷く。
これは大義名分。
大好きな彼を傷つけないための。
口から出まかせでも、嘘でも、ただの見せかけでも、私にとってはそういうことにするのだ。
ほんの少しだけ、夢を見よう。短くて永い、夢を見よう。

「……沢田くん」
「なに? 蕪木さん」
「私、少し戸惑っていたの」
「え?」
「知り合い方がほら、唐突だったというか、人を通じてだったから」

傘を貸したのは蓮巳くんを通じて。話したのは、京子ちゃん達と一緒にいるところに偶然居合わせて、なんとなくの流れで。そもそも私は、自分の名前すら自分で名乗っていない。

「改めて。私は蕪木嫩です。よかったら、私と……」
「?」
「とっ……友達になってもらえると嬉しい、な」

すごく恥ずかしくて、どもってしまった私に、沢田くんがとてもやさしくキラキラと笑う。

「もちろん!!」

私の、きっと人生をかけた縁を、この日結んだ。