03

なかなか無い大規模な吸血鬼狩りに遭い、疲労困憊の末気を失って、その場に倒れ込んだユズリが次に目を覚ました時、そこは見知った世界ではなかった。

「どこよ、ここは」

疲労も怪我も痛みもなくなった体だが、あちこちにこびりつき酸化して黒ずんだ返り血は、さっきの戦いが夢ではないことを表している。
ただ、ユズリが倒れたのは、あたりには何も無い林の中のひらけた場所だった。そこに、ユズリも含め50名程の人間が転がっていた、のだが。
目を覚ましたそこは、建物と建物の間の狭く薄暗い道だった。視線を先の方にやると、間を抜けた先が明るいのが伺える。
ゆらりと立ち上がりそちらへ向かうと、ジリジリとした眩しいほどの日差しが地面を照らしていた。手で日差しを避けながら、ゆっくりとあたりを見渡すが、見たことのない建物ばかりが並んでいる。地面だって、綺麗に舗装され、綺麗なタイルで彩られて、ガラス張りの建物やカラフルな建物ばかりだ。そして何より驚くのが、そこを歩く人間達だった。
普通の見た目のよく知る人間もいれば、肌が青かったり、動物の耳が生えていたり、動物の顔をしていたりする者もいる。誰もそれに驚かないことと、人間の匂いしかしないことからそれは人であることは確からしい。
眉を顰めてあたりを見渡すユズリに対し、人通りは多くはないが、突如路地裏から現れた血塗れの女に気付いた者達もまた眉を顰めてそそくさと通り過ぎていく。
それに気づき元の暗がりに戻ろうと振り向くと、見るからに理性の飛んでそうな男が立っていた。焦点の合わない目と、だらだらと口からよだれを垂らした気持ちの悪さに、先ほどよりもきつく眉を顰める。

「オレと遊ぼうぜ、姉ちゃん」
「嫌よ、なんで私が」
「気が強いのもそそられるなあ」
「お断りよ、よそを当たって頂戴」
「オレはさあ、綺麗な女の中身が好きなんだ」

路地裏に戻るのは諦め、そのまま太陽の下を宛もなく進んでいくが、男もまたニヤニヤと笑みを浮かべ聞いてもいない物騒なことを言いながらついてくる。ぶっ飛んでいそうだなと思ってはいたけれど、予想以上にヤバめの人間らしい。
関わらずにいようとすたすたと足を進めるが、男もしっかりとついてくる。その間もぺちゃくちゃと聞いてもいないことを話してくる。
いい加減うざい、と振り返り言ってやろうとしたところに、子供の泣き声が響いてきた。その声は道の向かいにある公園からで、歩いている内にどうやら近くまで来たようだ。そこにベビーカーを押す女性がおり、焦ったようにベビーカーの中を覗き込んでいたので、おそらくそれに乗った赤ん坊からなのだろう。泣き止むどころか寧ろ激しくなっているようにも聞こえる泣き声に、母親は大変だなあとユズリは視線だけ送っていると、隣の男が「うるせえなあ」と一言こぼした。

「オレ、ガキ嫌いなんだよなあ」
「……」
「ぎゃあぎゃあ泣きやがって。泣くしか能がないくせに、なんであんなに大事にされてんだ?」
「──」
「オレの方が」

男の、焦点のあっていないはずの目が、ぎょろりとベビーカーを映す。

「オレの方が社会の為になるのになあ!」

そう声を荒らげた瞬間、懐に隠していたのか小さなナイフを手に男がベビーカーに向かって一直線に駆け出した。

本来であれば、吸血鬼に人間を助ける理由などない。
人間が人間同士で殺し合おうと、正直にいってユズリの関するところではない。人間の世界だって結局弱肉強食なのだ。弱ければ死ぬ。それは吸血鬼の、人間ならざるものの責任ではない。
ただ、自分たちに向かって走ってくる男に気付いた母親の顔が、恐怖を感じながらも子供を守ろうとする母親の顔が、目に映った。
いつかの、ユズリに向けられたものと重なる。
そう感じた瞬間、反射的に地を蹴っていた。
トン、と軽やかに地から離れて、そのまま宙を舞い、親子にもう少しで届いてしまう男の頭に勢いよく着地する。彼女の重みと勢いも加わり、勢いよく男が顔から地面に突っ伏し、見事に気を失い伸びた。

「なあに、勢いの割に弱いわねえ」

男の頭からおりて、ツンツンと男の身体をつついてみるが動く気配はない。

「あ、あの……」

見事に気を失った男に呆れていると、母親が恐る恐る声をかけてきた。

「なあに?」
「あ、ありがとうございました! 私、びっくりして、動けなくて……! この子が怪我でもしたらと思うとぞっとします!助けていただいて、ありがとうございました!」

そう何度も頭を下げる母親の目元は赤みを帯び、目尻には涙が滲んでいる。そんな母親の心配などよそに、先ほどまでぐずっていたのが嘘のようにベビーカーの中で赤ん坊がきゃっきゃと笑っていた。小さなもみじのような手を必死にユズリの方へ伸ばしていて、思わず手を伸ばしそうになったのを引っ込める。

「別に、助けたわけではないわ」
「え?」
「何でもない。こいつは私が何とかしておくから、あなたはさっさと赤ん坊を連れていきなさい」
「あっ、はい! 本当にありがとうございました!」

ぺこぺこと頭を何度も下げて去っていく母親を見送り、足元で伸びている男を見遣る。
とりあえず目を覚ました時に逃げたりまた刃物を持って飛び出そうとしたりしたら、母親に何とかするといった手前さすがに宜しくない。
ふう、とひとつ面倒くさそうに息を吐いて、ガリッと人差し指を鋭い犬歯で噛んだ。見事に切れた穴から血がたらりと流れる。その血が、にゅるにゅるとひも状になり、男の体を縛りあげた。
縛り上げられた反動で、うっと声を漏らすものの、男はまだ目覚める様子はない。
どうしたものか。正直にいって、正直に言わなくても面倒くさい。

「どこか海とかあれば放り出すのが一番楽なんだけど」
「それはよくないねえ!?」

近くを人が通っていることは知っていたがまさか話しかけられるとは思っておらずに、少しびっくりしてしまったユズリがサッと飛び退いて声の主と距離をとった。さらにそれにびっくりした様子の声の主が、「アッ!びっくりさせてごめんね!」と手を合わせている。なかなかこの世界には不釣り合いな、とても劇画ちっくな濃い見た目の金髪の男がそこに立っていた。

「誰?」
「ご、ごめん、ちょっと通りかかって、見かけたもので……怪しい者じゃないんだ!」
「私の経験上、怪しい者ほどそう言うわよ」
「エッ!そ、それもそう……?ていうか私の事知らない?」
「会ったことはないわね」

再度「誰?」と冷たい声を出すと、男は「私の知名度もまだまだだなあ!」なんて笑うものだから、眉間の皺が濃くなる。
それを見て男が重ねて謝罪した。

「とりあえず、その人を引渡したいし警察を呼ぼうか」

そう言って男はポケットから小さな機械を取り出し、何か触ったかと思うとそれを耳に当て始めた。ユズリにはそれが何か分からず、ひたすら首を傾げるのだが、何に首を傾げているのか分からない男の頭上には?が浮かんでいる。
少しして今いる場所のことと、先ほどの男のことを機械に向かって話した男が、また画面をひとつ触ってポケットへと戻した。

「何、今の」
「え、何って?」
「今、誰と話してたの?」
「今のは警察だよ。彼を引き取って欲しいから呼んだんだ」
「警察って何?っていうか、じゃあそれ、電話なの!?」

ユズリの目がきらりと光る。

「エッ!?け、警察は警察だよ。悪い人を取り締まる」
「ああ、自警団や騎士団みたいなものね」
「騎士団……?これは、携帯電話。今はスマートフォンって言い方の方がするけど」
「へえ!こんなに小型化しているの!そして画面がある!えっきれい!素晴らしいわね!」

再度機械、スマホを取り出してみせた男の手からするりとそれを取ったユズリが、くるくるとスマホをひっくり返しながら感嘆の声を上げる。それを見ていた男が、状況の理解ができずひたすらに「エッエッ」と声をこぼしていると、先程呼んだ警察がパトカーに乗って来た。
最初サイレンが聞こえ始め、その方向を見たユズリが白黒の、車体の上に赤いライトがついた車を見つけて物珍しそうにじろじろと視線を送る。
その様子を不思議そうに見ながらも、男は車から降りてきた警官に、今は気を失っている暴漢のあらましを伝え警察に引渡した。

「今のが警察?」

暴漢を乗せた車が発進し、それを見送った後、興味深そうに尋ねる。考えるように少し間を空けてから、男は「そうだよ」と答えた。
その間の何とも言えない雰囲気に、ユズリはつまらなそうにひとつ息を吐いてからくるりと踵を返した。

「エッ、ど、どこ行くんだい」
「何よ、あなたに関係ないでしょう」
「関係は、ないけど……怪我しているのかい?」
「してないわよ。これは返り血」
「返り血!?」
「言っとくけど殺してないし、何なら正当防衛よ。いつも先に殺そうとしてくるのは向こうだもの」

ユズリにとって命を狙われることは当たり前のことで、よくあることだ。
本来であれば、吸血鬼こそが人間を狙いそうなものだが、彼女は人間の捕食を好まない。吸血鬼とは言うものの、捕食は血を吸うことだけではない。その言葉の通り、食べる≠アともある。肉も内蔵も、骨も残さず。
だが、それを好まない。しない。血を吸うことはあっても、失血死させるまでは飲もうと思わない。だが、そうではない吸血鬼の行いは人間達を脅かし、憎まれ、そしてその吸血鬼の血肉を永遠の命を求めて狩るようになったのだ。
ユズリは、吸血鬼の原種に限りなく近い生来の吸血鬼。人間から吸血鬼になった者や吸血鬼の血が薄い者ほど治癒能力や身体能力、戦闘能力は劣っていく。人間から大怪我を負わされても完治しきれずに死んだ者も多かった。そしてその肉を求めても、不老不死になどなれるわけもなかった。吸血鬼の血が薄いのだから。
だから人間は執拗にユズリを狙い続けた。彼女が、人間相手にトドメを刺すことを好まないのを逆手にとって。
だから、慣れている。命を狙われることも、ひとりでいることも、慣れている。
その慣れが現れた言葉に、一瞬息を飲んだ男が背中を向けているユズリの肩をがっと掴んだ。

「な、なに」
「君は、命を狙われているのか」
「え?まあ、そうね、よく狙われるわね」
「どうして?」

そう聞く声は、心配だけではない切羽詰まったような色を含んでいる。
男はユズリが狙われるというのが、ただ意味もなく彼女が何も悪いことをしていなくて狙われるのか、それとも、悪いことをしているから狙われるのか、ということを聞きたいのだ。
それを察さないほど馬鹿ではない。ゆっくりと振り返って、ゆるりと妖艶な、そして自虐的な笑みを浮かべる。

「不老不死になりたくて、人間は私を求めるの」
「……」

「吸血鬼という生き物を、あなたは知っているかしら」