06

「お前の担任だけは嫌だな」

口先だけでなく本気で嫌そうな表情を浮かべて、そう言っていた人物が確りと担任として現れて、ユズリはその人物にしかわからないように笑った。



***




相澤消太は雄英高校の教師である。
この春から1年A組、つまりユズリの所属するクラスの担任に着任した。
もう一年以上ここで過ごしている彼女だが、面識のある人物は限られており、相澤はその数少ない内の一人だ。
八木が拾ってきた彼女だが、オールマイトは日々忙しく、その穴を埋めるように彼女の監視をしていた──いや、世話を焼いていた。
初めは、吸血鬼だと聞かされて意味もわからず、理解も出来ず、ただ校長と先輩であるオールマイトから世話を頼まれれば断るわけにはいかなかった。そんな理由だった。
ただまあ、1年にもなる間よく会っていれば少しだけ情が湧いた。
八木か相澤、どちらかが一緒でないとどこに行く事もできず、ひたすら与えられた部屋でテレビを見て過ごしている。どこかに行くと言っても、迂闊に外出はできない。ほぼほぼ軟禁のような状態にも関わらず、彼女は何も言わず、ただ黙々とこの世界の情報を集めていた。
相澤は教師だ。正直自分に向いた職かと言われれば直ぐに首を縦に振ることは無い。だがそれでも、何かを得ようとしている者を見るのは嫌いではない。
彼女がこちらにきて数ヶ月経った夏頃、根津校長が彼女の入学の相談を持ち掛けてきた。
今年、本来であれば受け持っていたはずのクラスの全員を除籍処分にしたので身が空いてはいるが、来年からはまたクラスを受け持つことになる。オールマイトもいよいよ本格的に雄英で教鞭をとることも決まっている。
そうなるといよいよ彼女の世話、を兼ねた保護監視を任せる者が難しくなってくる。そして、根津としてはそれ以上に彼女を少し買っているようだった。
ただ勿論特別入学はさせない。それは雄英という看板に傷をつけることになる。一般受験者達と同日同所というわけにはいかないが、内容はしっかりと同じようなものを受けさせると根津は言った。

「高校……」
「そうだ。俺は正直、賛成もしないが反対も今のところしていない。校長としては通わせたいみたいだがな。行きたくないなら直談判しろ」
「行きたくないわけじゃ、ないけれど」
「何だ」
「私今まで勉強したことない」
「は?」
「生きていく上での知恵とか、常識というか、そう、知識ね。その辺はあるけれど、私机上の勉強はしたことないわ。必要なかったのもあるけれど、そもそもそんな所に通えるわけもなかったもの」

ここでは高校に入るには受験というものがあるのでしょう?
そう尋ねた知識も、彼女が自分でここで得たものだった。

「文字は読めるのか」
「そうね、どうしてだか言葉も通じるもの。まあ吸血鬼の、いえ、人外の特性みたいなものかもしれないけれど。もとの世界では、人間達の識字率自体低かったし」
「すごく興味がある訳では無いが、前居たのはどんなところなんだ」
「興味あるじゃない。そうねえ、私は色んなところを点々としていたけれど時代背景としては……」

そう言葉をとめて、ふと目線を持っていた本へ落とした。何でもいいから本が読みたい、と頼まれ、時折差し入れしていた雄英の図書室から借りた本の1冊だ。

「これ、ちかいわね。19世紀末のイギリス。コンクリートやプラスチックなんかはなくて、建物や道の舗装はレンガが多くて。車はまあ、辛うじてあったけど、主流ではなかったわね」

そう述べる彼女は、少しの懐かしさも何も感じていないように淡々としていた。なんでもない、ただの事実として淡々と告げる、まるで資料でも見たのかと思う程で少し驚いた。

「……戻りたいと思うことは無いのか」

気付いたらぽろりと口から出ていて、思わず口を閉じた。その言葉に少しだけ驚いたかのようにこちらを見ていた蘇芳が、その丸々としていた瞳を少し細めてから、フンと鼻を鳴らしながら目を閉じた。

「ないわね」
「言い切るな」
「そりゃあそうよ。あちらで良いことなんてなかったもの。定住は無理、家もない。日々野宿か、良いときに限って宿暮らしよ?追われてばかり、狙われてぐっすり寝ることもなかなかない。生きていても、死んでいるようなものよ」
「……それでなんで人間を助けようと思ったんだ」
「──気まぐれよ」

理由なんてあるわけないじゃない、そう呟くような小さな声は相澤が聞いた初めて寂しそうな声色だった。



***



「相澤センセ」

新入生にとって、初めての登校日。入学式やガイダンスなんか不必要だと、1年生たちに体操服を渡しグラウンドに出るように伝え教室を出ると、いつの間にかついてきていた彼女が声を掛けてきた。

「担任だったわね、びっくりした?」
「俺はお前よりも2ヶ月は前から知っていたよ」
「そうなの」
「ああ」
「まあ、相澤は私のお目付け役だものね」

なんとなく予想はしてたわ。
そうくすくすと笑う蘇芳に、少しだけ眉根を寄せた。

「いい生徒になるかは分からないけれど、そこそこぼちぼちに無難に過ごすようにするわね」
「アホ、やるならしっかりやれ。お前が、やれば卒無くこなせる奴だってのは覚えてるからな」
「え?ああ、まあ、古典はちょっと難しいけれどね」

入試に向けて、勉強などしたことがないという蘇芳に急ぎ勉強を教えたのは相澤だった。
まるで小学生低学年ではというほど生活に必要な最低限の、それこそ足し算や引き算、掛け算割り算といったものしか身に付いていない彼女を目にして、最初はこめかみを引き攣らせたものだったが、教え始めたらそれはなくなっていった。
まるで渇いたスポンジが水を吸収するように、枯れかけていた花が喜んで養分を得るように、教えたものはどんどんと吸い取っていった。
そしてそれをさほど苦にもせず、クールぶっていながらも何なら少し楽しそうにも見えて、教える側にも熱が篭って行った。

「──俺は」

そう口を開くと、古典がどうの、と頭を捻っていた蘇芳がこちらに視線を寄越した。

「俺は、お前がどんな道を望んで、進んでいくのか、見てみたいよ」

時が、少しだけ止まる。

「善処するわ」

少しだけ、嬉しそうに。
少しだけ、苦しそうに。
少しだけ、楽しそうに。
少しだけ、悲しそうに。
彼女はそう言った。