08

「まだ……動けます!」

そう右手で拳を作る緑谷を、八木は校舎の影から見ていた。
種目が進む中、ヒーローらしい成績を残せずにいた緑谷が、ソフトボール投げで個性の使用を相澤に制限された後、第2投目。個性の不制御故の行動不能にならないために、緑谷は利き腕、利き手の使用を抑え、利き手の人差し指にのみ個性を使った。その反動で人差し指は赤黒く変色しているが、遠投距離はヒーローらしい高記録。
入学初日といえど、ヒーロー科にそぐわないような一般的な記録しか出してこなかった緑谷に、内心心配を覚えていたクラスメイトの面々が、おお、と感心するのも束の間。腫れ上がった指はあまりにも痛々しく、素直に扱えるものでは無いだろうことは自然と察した。
だからこそ、八木は歓喜した。
個性を渡したばかり、扱えないのは百も承知。そういった、非合理的なことに相澤が厳しいことも知っていた。
だからこそ、頭を使い、ソフトボール投げの後の種目も考え、いや、これが戦場だった時動けなくなるわけにはいかないと考えて、人差し指のみの負傷に抑え、それを調整してみせた緑谷に八木は震えていた。

「なかなか面白そうね、彼」
「……エッ?」

ひとりで校舎の影から見守っていたはずの自分に声がかかり、少し反応が遅れて振り向くと、楽しそうに目を細めたユズリが立っていた。

「ほんと……気配ないね、君は……」
「そう?あんまり意識してないからわからないわ」
「なんか、猫みたいだよ、足音もしないし」

そう言いながら僅かに跳ねた心臓を押さえる。
殺気がないから気付かないとかそういう範囲ではなく、すぐそばまで着ていても気付かないのは、そこに存在していないかのような気配の薄さで、八木は少しだけ不安を覚える。
もう1年以上の付き合いになるけれども、それでも掴み用のない吸血鬼の女。喜怒哀楽はしっかりと持っているようだが、心からの笑顔を見たことはないと思う。少しニヒルで、それは彼女の性格もあってかもしれないけれど、それでも、少し警戒されているのだろうなというのは八木に関わらず、関わった者達は持っていた。
ただそれは、正直お互い様のところはある。
言ったことは守るし、とくに問題行動もない。反社会的思想なんてまったく垣間見えない。だがそれが、信用に変換してしまっていいのかを決めかねているのは、やはり吸血鬼という自分達とはちがう生き物というところだ。
その辺、根津校長は自身も人間ではないため、複雑な心境らしかった。
それでも、八木は信頼したいと思い、信用している。八木の体調を憂いて顔を顰めてくれたことは、彼女の優しさを感じるのには小さくない出来事だった。

「あの子、八木が力をあげた子でしょう」
「エッ!?なんでわかったの!?」
「去年くらいから八木についてた汗の匂いが同じなのと、八木から抜けた何かを感じるもの」
「……驚いた、嗅覚もいいのかい?」
「嗅覚、そうね。血の匂いの方が嗅ぎ分けは得意だから、万能ではないけれど」
「……」
「いい子そうじゃない」
「いい子だよ、本当に。根っからのヒーローだ」

だから、力を、ワン・フォー・オールを渡した。
後悔はない。期待と希望ばかり。
ただそこに、心配はある。
本人が望み、自分も望み、渡した。だが、これから彼が相対することになるだろう相手を考えると、少しだけ、心が落ち込むのだ。

「大丈夫でしょう」

言葉にしなかったけれど、少し俯いてしまった八木がその言葉に顔を上げた。

「あなたが見込んだんでしょう。ここまで育ててきて、これから育てていくんでしょう」
「あ、ああ」
「じゃあ、大丈夫よ」

笑うことなくまっすぐと目を見てそう言ったユズリは、固まったままの八木の横を通りグラウンドへと戻っていく。
静かにもどっていった彼女はその気配のなさに、またクラスメイトに少し驚かれているようだった。
ユズリの淡い色素の薄い目は透き通るようで、見透かされているようで、色んなものを見透かしているようで、儚さと強さを感じる。
きっとそれは彼女のこれまでの長い長い人生と経験によるものなのだろうが、だから、彼女に大丈夫だと言われればそうなのだろうと感じるのだ。
背中を軽く押されるようなラフさと力強さと優しさに、八木は少し表情を緩めた。




***




「これ、ありがとう」

個性把握テストが終わったあともなんやかやとバタバタしていた初日。
ようやく下校時間となってから、ユズリは借りていた髪ゴムを手にテストの時に声をかけてくれた黒髪の女子の席を訪れた。

「返すのがおそくなってしまったけれど、とても助かったわ」
「それはよかったですわ。でも、よければそのままお使いください」
「あ、そうね、買い直して返すわ」
「あっいえいえ、そういうことではなく!私の個性は創造ですの。髪ゴムでしたらまたすぐに作れますし、また使って頂ければ嬉しいですわ」

ふんわりと笑った女子にユズリは少し面食らう。
テストの際のキリッとした様子から見るに、そこそこ見る目の厳しい子だろうと思っていた。
髪ゴムを貸してくれたあたり、優しいのは間違いないだろうが、こんな風に笑い、これからクラスメイトといえどライバルとなる自分に対してこんなに優しく笑うのかと、驚いた。

「じゃあ、有難く頂いておくわね」
「ええ」

学友となる子に初めてもらったものに、少し心を踊らせながら鞄のチャック付きポケットにしまい込む。と、「あの、」と声が掛かった。

「なあに?」
「よ、よければ、仲良くしていただければと思って!」
「は、」
「ユズリさんとお呼びしたいのですが!」
「え、ええ、それは別に構わないけれど」

そう言うと、彼女は大変うれしそうに満足そうに笑った。
どうやらかなり気に入られているらしいが、まったく心当たりがない。どころか、彼女とは記憶をさかのぼってみても初対面に違いない。
どうしてそんなに嬉しそうなのかと尋ねると、「あら」と不思議そうに言った。

「これから3年間同じ学校に通うご学友ですもの。仲良くなりたいと思うのは当然ですわ」
「そういうもの?それだけ?」
「ふふ、まああと一つありますわね」
「?」

聞けば、八百万はお金持ちらしく、専属の《じいや》がいるらしい。
いつぞやに、そのじいやが八百万の頼みで出掛けているときに公道でチンピラに絡まれているところを助けてくれた人がいたらしく、名も告げず去ったその人物の特徴にユズリが当てはまるらしかった。
それを聞くと、確かに何となくそんなことがあったような気がする。

「でも、それだけで?私という確信はないじゃない」
「とても美しい人、と聞いていましたので、ほぼほぼ確信はありました。でも、たとえその方でなくても別に構いませんの」
「……よく分からないわ」
「お友達になりたいと思ったのですわ」

その気持ちはとてもうれしいが、理解が難しいところである。
でも、よくよく考えると、そう思うこと自体に不思議に思うことが自分的にはあっても、向こうがそう思うことを憚らない理由はない。
自分がこの世界の人間ではなく、それどころか人間ではないということを話しているわけではないのだから。
どうにも嘘をついているようで、目の前のきらきらとした目の彼女を見ると少し心苦しくも感じるあたり、この世界に来て随分と平和ボケしたものだと思った。
自分が人間のふりをして、吸血鬼であることを隠すなんて、前のところでは当たり前で処世術のひとつのようなものだったのだ。
ここにきて、敵意と殺意を向けられることが少なくて、いや、ほぼほぼ無いに近くて、それはもしかしたら自分の弱さになりはしないかと一抹の不安を覚えた。
ただここで、正体を明かすわけにも、下手に不信感を与える理由もないので、変な詮索も説明も無粋だろう。

「じゃあ、よろしくね、もも
「えっ」
「ん、名前、違ったかしら。八百万百じゃなかった?」
「え、ええ、正解ですわ」
「ああ、八百万さんの方がいいかしら」
「いえ!百で!百でいいというか、うれしいですわ!ぜひ!」
「ふふ、じゃあ百ね」

かぶせるような勢いに思わず笑ってしまうと、八百万もまた嬉しそうに笑った。