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『第五話』
 
杉本一家を襲った悲劇。それはお茶の間のテレビで無感情に伝えられる様な日常の一環であった。ただし、関係のない人間に限るが。
杉本ナマエは何処にでもいるごくごく普通の小学生だった。友達がいて、勉強もそこそこで、素行もよく、学年で飼っているニワトリの世話も欠かさずこなすような普通の女の子だった。
その日はうだる様な暑さで下校している班員は皆溶けると口々に文句を垂れていた。かくいうナマエもその一人で幼ながら天上で輝き、熱射を送る太陽を恨んだりもした。早く家に帰って涼みながら氷菓子を食べて宿題をしよう。今日の夕飯はカレーだと言っていたからお菓子は我慢する。

「おにいちゃん、夏カゼ治ったかな」

そういえばと思い出す。兄は中学生だが情けないことに夏風邪にかかり、今日は学校を休んでいる筈だ。父も母も珍しく休みが重なり(共働きで休みは不定期)家に帰っても一人ではない事が嬉しくてナマエはついついいつもより一本早い道で班員と別れた。

「ただいま!!おかーさーん!アイスはー??」

玄関を開ければカレーの具材を煮込むいい匂いが鼻腔を刺激した。しかしナマエは早く暑さを取り除きたいので氷菓子を母に催促するが返事がない。
おかしいなと思いつつおかーさーん?と再び呼んでみてもうんともすんとも言わない。誰かしら反応したっていいじゃないかとナマエはむくれる。しかし、ふと思った。兄が一日休んで良くならなかったら薬を買いに行くと言っていたし病院に行ったのかもしれない。

「まーいっかー。アイスたべ、よ、う?」

リビングの続く扉を開いたナマエはその光景を呆然と見つめた。
ムワリと全身を包む熱気とともに先ほどよりも強く香るカレーになる前の煮物の匂いに混じる鉄臭い臭いは、怪我をした時に流れる血と同じ臭いがする。夏だからとフローリングに敷いた茣蓙が赤くなっていて、あれ模様替えしたかなと呑気に思った。

「み、んな?」

窓から入り込んだ太陽光、夕日に近い色がフローリングに撒き散らされた水を赤く彩りキラキラと水面を光らせる。カナカナカナカナとヒグラシが求愛のために鳴いている。
撒き散らされた水面には三人が横たわる。みんな目を見開いているがその瞳に光は無い。

「ーーーーーー」

声が出ない。鍋が噴きこぼれる。止めなきゃ。でもみんな動かない。どうしよう。
カナカナカナカナ、ブクブクじゅうじゅう、カナカナ、ぶくぶく、カナカナ、じゅうじゅう、カナカナカナカナぶくぶくぶくぶく、じゅわじゅわ。
ああ、酷くうるさい。



「起きろ」

その一言と頭を小突かれる感覚で目が覚めた。何かとてつもなく不快な夢を見た気がするのだが、気のせいだろうとナマエは自己完結して目の前に立つ軍人を見つめる。身長は恐らくナマエとそんなに変わらないだろうという位で歳は三十路くらいだろうか。元の時代で有名な某殺し屋の様な線と低い鼻が特徴的な男はどこか高圧的な雰囲気をまとっている。否、この男だけではなく軍人という生き物はみんなどこか高圧的になってしまうのだろう。張り詰めた様な空気が居心地悪い。

「貴様、不死身の杉元と一緒にいたな?刺青人皮を何処へ隠した。隠し立てすればタダでは済まんぞ」

そう言って手にした銃を見せつける様に抱え直した軍人にナマエは未だ霧が晴れない様な頭で何故こうなったか考えた。
そう、あれは刺青を持つ人間を捜して街を散策していた時だ。どこかの娼館に勤める大男に変わった刺青のある男を懲らしめてほしいとお願いされた。そして被害にあった女郎が勤めるという蕎麦屋で杉元とナマエは老婆に刺青の男をみたという女郎を連れてくるからニシン蕎麦でも食べて待つ様に言われたので、濃いツユの効いた蕎麦を食べながら待っていた。

「あのババアの言う通り絶品だな。これはヒンナだぜ」
「うん。濃いツユが美味しいね。故郷の味に近いかも」
「そういえばナマエは新潟出身だったな。新潟には、」

会話は暖簾から現れた軍人によって打ち切られる。双子なのか全く同じ顔をした男が刺青のある男を探しているのは誰だと問えば、先ほどの老婆が軍帽を被った兄ちゃんと髪を結った女の子だと暴露したのだ。別に口止めなんてしていないし、あっちは杉元たちをかばう理由などないが、それでも売られたとナマエは舌を打って剣の柄を握った。

「ナマエはそこにいろ」

杉元はそう言うと双子の軍人に向かって文字通り飛び込んでいく。それから数人に囲まれた杉元は地面に倒され投降を余儀なくされた。勿論ナマエも一騎当千出来るほど強くは無いので大人しくするしかない。そうは頭では分かっているもののナマエは止まれなかった。幼い頃の心傷がそうさせたのだ。

「その人から離れろ!!」

双子の内の片われの銃を抜刀とともに柄で弾き飛ばす。もう片方を鞘で急所である鳩尾を突けば男は仰向けに倒れた。

「殺させはしない!!誰にも!!」
「ナマエ!出てくるな!!」

威嚇射撃か、それとも牽制か、何れにしてもナマエに向かって発砲された銃弾を彼女は極限の集中力でその弾を切り捨てた。チュインと鉄同士が擦れる音が鼓膜を震わせる。
流石の軍人もこれにはたじろぎ、一歩後退した。

「このクソアマぁ!」
「殺せ、殺せ!!」

激昂した双子の軍人がナマエに照準を合わせる、引き金に指をかけようとした瞬間、銃声が鳴り響いた。

「そこまで。まだ殺すな」

そうして第七師団の兵舎へ連れていかれた二人は別々に拘束されて今に至る。

「刺青人皮とは?自分たちは変な刺青の男を懲らしめて欲しいと言われただけだ。貴方達の探し物なんか知らない」

吐き捨てる様に乱暴にそう言い捨てると、軍人は眉ひとつ動かすことなくナマエの頬を平手で打った。鍛え抜かれた軍人の力は相当強く叩かれた後もじんじん痛み、頭にも響いた。

「俺も出来れば女に手を上げたくは無い。刺青人皮は何処だ。言うんだ」
「何度でも言うけど知らない。知っていたとしても教えない。貴方達はあの人を殺そうとした。絶対に許せない」

軍人、名を月島というが、彼はナマエの目を見て厄介な女だと内心ため息をついた。遠目から見ていたが、不死身の杉元には劣るものの女の身にしては驚くべき立ち回りだった。
今もこうして連れに仇をなした相手に牙を剥く程に根性がある。まさに手負いの獣だ。

「刺青人皮のことは一先ず置いておく。貴様は杉元とどの様な関係だ」

何故共に行動している?
月島の問いにナマエは答えない。聞こえないはずがない、これは答えるきがないのだ。彼は再び彼女の頬を打ち答えろと高圧的に問う。

「下郎に教えることなんて何もない」

月島は眉ひとつ動かさないまま再びナマエの頬を打った。



「浩平浩平、この女どうする」
「洋平洋平、殺して杉元に見せつけてやろう」

拘束部屋に入ってきた双子にナマエは冷や汗を流した。月島にはナマエを殺す理由は無かった。命令されていないからだ。しかしこの双子には殺す理由があるし、間違いなくこれは単独行動だ。

「っ、」

胸ぐらを掴まれて床に引き倒され、馬乗りになられては女のナマエに抵抗の術はない。

「ほらな、剣が無けりゃ何もできねえ。男の力に女が叶うわけないんだから」
「あの時のお礼きっちり返させてもらうぜ」

ナマエには見分けが付かないが、恐らく鳩尾を鞘で殴った方の男が拳をナマエの鳩尾に勢いよくめり込ませた。

「う、ぇ!」

痛みと吐き気に耐えきれず、ナマエは横を向いて胃の中のものを吐き出した。えずきが止まらず呻いていると、次は首を強く締められる。

「あ、あ、あっ」

はくはくと空気を求めて開閉される口、苦しげに歪んだ顔が次第に赤らんで行く。

「間抜けだな洋平」
「間抜けだな浩平」

ナマエの顔を覗き込んで二人は笑いをこらえきれずに不気味な声を薄い口から漏らしている。朦朧とする意識でどこかで似たような光景を見たような気がした。歪んだ口、もつれ合う体、罵り合い、全てが霞んだ世界。相手の顔に影が差している。お前は誰だ。

「おまえ、はだ、れだ」
「あ?」
「浩平、誰か来る。月島軍曹かもしれない」

コツコツという微かな音と共に床に振動が伝わる。双子の軍人は二人して同時に舌を打つとナマエの長い髪の毛を引っ掴んで結ってある根元から銃剣で切り落とした。

「これだけでも杉元の情けねえ顔が見られるだろ」
「命拾いしたなクソアマ」

激しく咳き込むナマエを尻目に二人は部屋を慌ただしく出て行くと、入れ違いの様に月島が部屋のドアを乱暴に開いた。

「何があった!!?おい、しっかりしろ!」

駆け寄る月島にナマエは縋る様に掴みかかると咳き込みながらも掠れた声で言う。

「あの、ふたご、とめろ!!」
「なに?二階堂のことか?」
「さいち、さん。ころされっ!!」

再び激しく咳き込んだナマエを月島はやんわり引き離すと踵を返して部屋を出て行った。床の振動からして急いではくれているのだろう。ナマエはそのままぐったりと床に倒れこんだ。酷く体力を使った気がする。

「おい、あんた!起きろ!」
「だれ?」
「俺だよ!一度会ってるだろ!白石だ」
「しらいし」
「そうだよ!杉元からあんたを連れて逃げる様言われてる!たてるかい?」

そう言って白石はナマエの体を支えて立ち上がらせると月明かりに照らされたその姿に固唾を呑む。
身長があるとは言え、まだ幼さの抜け切らない顔は頬が赤く腫れ、首には締められたのだろう手形がくっきりと残っているし、最初に会った時は長かった綺麗な黒髪は乱雑に短くなっている。

「あんた、乱暴されたのかい」
「別に。これくらいどってことない。佐一さんが無事なら、それでいい」
「まあ、あんたがいいならそれでいいけど。それはさておき、出来れば急いでこれに着替えてほしい」
「軍服?」
「木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中ってね」

なるほどと納得したナマエは白石が後ろを向いてくれているうちに痛む体を叱咤してできるだけ素早く着替えた。ナマエが着替え終わったと白石に伝えると、彼は仕上げにとフード付きの外套を被せると腕を引いて部屋を出た。

「これから鶴見中尉の持つ刺青人皮を探す。あんたも手伝ってくれ」
「いいけど、そのあんたってのやめよう。自分は杉本ナマエ」
「そうかい、俺は白石由竹。ナマエちゃんは杉元の妹さんなのかい?」
「いや、血縁じゃない。遭難しているところを助けてもらったんだ。恩返しに探し物を手伝ってる」

ナマエの健気な理由に白石は感動した様な面持ちをしたがふと、その表情を陰らせる。

「今回みたいな危険な目にあっても、まだ手伝いたいっていえんの?ナマエちゃん普通の女の子でしょ?なんで?」
「なにも、ないから」
「え?」
「何もないの。故郷も、家も、家族も、友達も、先生も、知人もなにも。佐一さんとアシリパだけなの。私には」

だから、居場所はあの人の所だけ。そう言ったナマエを白石は何も言えずに見下ろした。普通そうに見えたこの少女はそんなに重たいものを背負っていたのかと。

「じゃあ、俺のことも加えといてよ」
「なにに?」
「友人、知人!!ほら!ナマエちゃんはもう何もなくないよ!だって俺と言う親友ができたからさ!」

白石はそう言って得意げに胸をそらすとお得意のポーズなのか両手の人差し指をナマエに向けて下手くそに片目を瞑ってみせた。

「うん、ありがとう白石さん。でも親友はちょっと、ごめんね」
「ちょ、ナマエちゃんそこは嘘でもいいかな頷くところだから!」

白石のおかげで心の余裕が出来たナマエは少しだけ微笑んだ。しかしすぐに顔を引き締めて急ごうと声をかける。

「ここは敵地。いくら紛れようと自分たちはここに馴染んでないから、長引けば感づかれる」
「だな。よし急ごうぜナマエちゃん!」
「だからそう言ってる」

二人は鶴見中尉の部屋まで怪しまれない様に出来るだけ平常を装って向かった。



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