#4-2

 まなじりの辺りが、ちょっとだけ釣り目がちなのがまずミミには猫を連想させた。それが、『彼』への第一印象だ。それから黒目の部分が丸くて大きいのも、そう思わせる要因なのかもしれない。
 そんな彼は仕事中は妙に独り言が多く、しかもボリュームがでかい。作業の手を動かしながらも「ああでもない」「こうでもない」「ちっがうんだよね〜」と呟くので、一瞬自分に話しかけているのかと返事に戸惑う。

「はぁ〜。しっかし疲れたなー、今日は!」

 普通、そんな事口に出して言う? しかし、この人は何の恥ずかしげもなく声にして言うから凄いのだ。けれども不快な感じがないのは、言葉遣いが綺麗なのもあるのかもしれない。普通なら「うるせえな」と思われても仕方のないようなその癖さえも、彼の持つ独特の雰囲気に似合っているのだと思うと何だか可笑しくてついつい目で追ってしまうようになった。
 あくびまじりに椅子の上で伸びをする動作も、身体を伸ばす猫の曲線に似ていてドキッとした。

「本日より内科主任としてこちらの店舗に配属になりました、時尾ケイイチです」

 ときお。初めて目にした時と耳にした時は、四月も半ばで春の気配が近づく気候の中で鳥肌が立ってしまった。下の名前なんかはもはや聞いていなかった。愛猫のトキオに似ている彼に、言いようのない衝動を覚えた。

 その日から、時尾先輩を目で追う日々が始まった。
 今年で三十六歳、趣味はテニスとフットサル。これまでに結婚歴は無し。前の支店にいた時は、同じ部署にいた医療事務さんとお付き合いしていたらしい。――色々探ってみると、彼女との関係はもう終わっているとの事。
 スポーツを趣味にしているだけあって、浅黒く焼けた肌もトキオを連想させた。触るとガシガシしそうな黒と茶の胡麻色した髪色も、トキオの毛を撫でている時の感触をミミの手に思い出させてしょうがない。顔は……どうなんだろう? 萌絵ちゃんが見たら何と言うだろう、あたしのタイプじゃないな〜とか。いや、わかんないなー。あまり特徴のない……端的に表現すれば、今風とはかけ離れた冴えない顔――なのかもしれない。顔立ちに歪みやアンバランスさはないが、めちゃくちゃイケメンかと言われたら首を傾げる。大勢の中に混ざれば、きっと目立たなくなる。そんなところ、だろうか。あと、丸顔なせいなのか、年齢の割にはかなり童顔な部類に入る。

「えぇっと……あー、手術チームのー……なるか……み、みみみちゃん?」
「へっ?」
「――と、時尾。区切るところが違う、なるかみ、みみ、さんね」
「あ、そっか……ご、ごめん! 鳴神さんね、平仮名しか走り書きされてなくて!」

 副院長に横からツッコミを入れられても、あんまり慌てずにのんびりとした口調と笑顔で切り返す彼にミミは思わず吹き出していた。時尾の持っている雰囲気がそうさせるのかもしれないが、周囲にいたスタッフ達もそれを聞いてくすくすと笑いだしたが、決して嫌な空気ではなかった。

 それ以来、時尾を筆頭にして職場では『みみみちゃん』が通称になってしまってた。それまではあだ名で呼ぶのなんか禁止の、お堅い、時には息の詰まりそうな働き場だったのに。彼が来てからというもの、ここの雰囲気はどこか柔和なものになった。
 時尾はマイペースな男で、それ故に周囲を驚かせる事も多かったけれど、不愉快にさせたりするような悪口や嫌味を吐くような男でもなかった。強い主張をするわけでもないのに、気付くと自分のスペースをちゃっかり確保していて。でも何か許せちゃう、というのか。

 そういうところも何かウチの猫みたいだな、とミミは思った。

「みみみちゃん、今日の昼はまたコンビニでお弁当?」
「え? あ、あ、はい……そのつもり……ですけど……」

 質問そのものより「また」という言葉が引っかかった。何でいつも私がコンビニ弁当なの、知ってるんだろ。ちゃっかり見られてた? ひょっとして、おととい誰も見てないしいいやと思って牛丼とあんまんと、紙パックのコーヒー牛乳買ってるのもチェック済み? やばっ、もっと可愛い食べ物にしとけばよかった。

「良かったら一緒に昼、行かない? すぐ前のそば屋だけど、結構美味しいらしいよ」
「……へっ」
「他スタッフも昼食持ってない組だからさ、そいつらも連れて」

 あ、何だ。二人きりじゃないのか。
 落胆している自分に気付いて、ひょっとしたらこれが恋なのかもしれない。そう思った時には、もうこの気持ちは始まっていたのだろうと確信を持った。

「へー、みみみちゃんって三十代なんだね。二十二、三歳くらいかと思った」
「それ、俺も最初本気でビビったんすよ。まさか俺より五つも上とは思わなかったんす」
「……内面の幼稚さが顔に出ちゃってる? って、最近は感じますよ。年齢相応に見られないってゆーか、単なる年齢不詳の痛いヤツなんだなあって……」

 いつものクセでつい卑屈になるミミにも、時尾は温和そうに笑って、蕎麦湯を一口啜る。そうやって年齢の事で卑屈になるのやめな、は萌絵の口癖だった。

「そんな事はないよ。きっとこのままみみみちゃんが四十歳になったら、それでもまだ三十歳くらいに見えるんだろうね。単純に喜ばしい事だと思うよ、俺はすげえ羨ましいけどなあ〜」

 そんな風に極々当たり前の言葉を吐いたのだけど、彼は心底そう感じているといった口調で言うのだからミミも嬉しくないわけがなかった。コンプレックスを褒めてもらえて、嬉しくないわけがない。そしてそれが気になっている相手からなのだから、尚の事だった。

(何か今日、結構話しかけてもらえた? 勘違い?……ま、楽しかったからいいか)

 誰にでも優しい人だし、もしかして今現在彼女がいないと決められたわけでもないのだから。舞い上がるのはやめておこう。ミミはこの思いが暴走などしないよう、変ににやける顔を伏せつつやっぱり口元が綻ぶのを抑えきれなかった。

「アンタ、好きな男でも出来たでしょ」

 カラン、とブルーハワイに浮かんだ氷が溶けて一つばかり音を立てた。萌絵との駄弁り会は、今日は居酒屋ではなく最近オープンしたてのハワイアンカフェにて行われた。それでもアルコールが手放せない辺り、やっぱりなあとは思うのだが。

「何で?」
「アンタって露骨なんだものー。そのまつエク、今までなら『そんなの目に何かあったら怖いし、二週間で駄目になっちゃうのにお金と時間の無駄!』とか、頑なに言ってた癖して」
「これはクーポンで半額になったからだし」
「へ〜」

 おかしそうに笑う萌絵の、メイクバッチリの目元はやはり見透かすようにこちらを見つめていた。

「で、見せて」

 彼女に嘘や隠し事は通用しない。観念したよう、ミミはスマホを取り出した。というか別に隠すつもりなんかなかったんだけど、話そうと、相談しようと、まあそう思って萌絵と会ったんだが。目的はそれだったんだけど、順序とかね。

「うわー、これ絶対ちょー遊んでそー! いくつだって? 三十六!? 見た目わっかいね」
「でも、今彼女いないんだよ」

 これ、実際に本人に確かめたわけではなくて。しかも明確なソースがハッキリとあるわけじゃないのだが、絶対にそうだよ間違いないよ、という風に言いきって突きつけてみた。

「ほんと? それ、ちゃんと確認してる?」
「したした。異動前の部署ではいたみたいだけど、転勤決まった瞬間向こうが別れるって切り出したんだって」

 これはホント。本当に本当。どうも、その当時の彼女とやらが結構いい年齢だったようである。結婚を考えている年齢の女からすれば、遠く離れてしまう男なぞそりゃ時間の無駄だと思ってしまうだろうなあ。しかし、そこでプロポーズをしなかった辺りに、時尾先輩の当時の心境も何だったんだよ、と気になってくるわけだけど。

「ならさぁ、ちゃっちゃと進めた方がいいわよね。その容姿にして医者、独身だと知ったら女がほっとかないわけないわ」
「……せ、正確には獣医なんですけどね。あ、萌絵ちゃんから見てこの人ってイケメンだと思うの?」
「まあ、爽やかな方でしょ。この年代にしちゃあね。腹も出てないし」
「あと加齢臭も口臭も全くといっていいほどしないからね、アラフォーだけど! これ、結構ポイントでかいでしょ」
「で、何が決め手で好きになったのよ。結局は見た目か〜?」

 ホントの事を言ったら、萌絵ちゃんはどんな反応をするのだろう。彼女の事だから、手を叩いて「うける〜」って、大爆笑されるのかな? そんな事を考えつつ、ミミは話そうか話すまいか幾分か迷って、しかし、おずおずと切り出した。

「笑わないで聞いてくれる?」
「分かんない。先に言っとくけど、吹いたらごめんね」

 笑うつもり満々じゃん、この人。笑う準備は出来たと言わんばかりに一呼吸置いて、萌絵は飲みかけのブルーハワイを全て飲み干した。ふ、とミミは少しため息をはいて、肩を竦めた。ミミは手持ちのピニャコラーダを一口啜り、それから続けた。

「……。うちで飼ってる猫に、何となく似てたからよ」

 笑われる覚悟は出来ていたのだけれど、意外と萌絵は真剣な面持ちのままだった。お、と思ったのだけれど、(あ、もしかして呆れてるか引いてるだけか?)と考え直した。が、彼女は意外にも生真面目な眼差しをこちらに向けて、ふーん、とだけ呟いた。

「引いた? こいつ馬鹿、って思った?」
「全然。むしろ面白いじゃん」

 酒もいい感じに回り、上機嫌に微笑む瞳には薄いブラウンのカラーコンタクト。萌絵は日によって黒目のでかく見えるコンタクトだったり、赤みがかった茶色だったり、もしくは何もしていなかったり。目の色がコロコロ変わるから見ていて飽きない。
 その瞳に吸い寄せられるように、ミミは萌絵に突然ガバリと抱き着いた。

「ありがと、やっぱ萌絵ちゃん大好き!!」
「ちょっ……危ないでしょ! 急に何よ、酔ってるわねアンタ。――で、名前は? 何ていうのさ、その獣医」
「時尾先輩。時間の時に、尾っぽの尾。苗字ね」
「へー、時尾ちゃんね」

 もう一回名前を反芻し、よっしゃ、覚えた。と、納得しながら、萌絵はもう一度ミミのスマホを見つめた。何か探るようにまじまじと眺めてから、ミミにそれを返した。

「ま、悩むくらいなら行動起こしてみなよ。何でも早め早めよー、ババアんなってから後悔したってどうしようもないし」
「……もう結構ババアだけどね」
「やだー、聞きたくなぁーいーー」

 別に、彼との距離が近づいたわけでもないのに。何か進展があったわけでもないのに。今の自分の心は何故か妙に清々しい。羽が生えたように、心地が良かった。