#4-3

 その日は色々とあって、中々退社できず定時の五時半を過ぎても仕事が終わらなかった。電話が次々と入ったのもあり、色々と片付いたのは結局夜の七時半過ぎであった。トキオ、お腹空かしてるだろうな。早く帰らなければ、とミミは思った。

「あ、みみみちゃん」
「はい?」

 振り返ると、時尾がいつものにこやかな笑みでカルテを片付けながらこちらを見つめていた。

「今日、この後は予定ある?」
「え……?」

 馬鹿正直に『猫に餌をあげます』というのは流石に言い出せず、言葉に詰まってぽかーんとしてしまう。と、時尾は申し訳なさそうに眉を下げながら軽く片手を持ち上げた。

「ごめんごめん。いや、遅くなっちゃったしさ。夕飯でもこの後どうかなって。近くにつけ麺屋でも行かない? いろは麺って、あそこ結構美味いんだよ」
「あ、ハイ……友達から聞きました。私は何か、一人ラーメンって勇気なくて入った事ないんですけど」

 確かに、ここまでクタクタになってからの自炊って結構面倒くさいものがある。食べた後はその食器を片付けて、洗濯物だって畳まなきゃだし、風呂にも入らなきゃだし。それにラーメン屋なら、長居はしないだろうし。

「そんな雰囲気の店でもないよ、結構家族連れとか女の子一人で来てる子いるし」
「詳しいんですね。そこまで通ってるんですか? ひょっとして常連とか?」
「帰りが遅くなると、自炊が面倒でどうしてもねえ」
「あはは。分かります、それ」

 って事は、独り暮らしなんだ。さりげなくリサーチ出来た事に内心喜びつつ、ミミは帰社の準備を進めた。会社を出て、徒歩で三分程。他愛もない会話をしながら店内へと足を運ぶ。
 少し無愛想な店長が有名なこの店に、近寄りがたいといって怖気づく客も多いとか。が、手の込んだ魚介ベースのダシは、ネット上のレビューなんかでもしょっちゅう通の舌を唸らせているとの事で、口コミによる根強い人気を誇っているそうだ。お陰で、いつも常連客で賑わって活気づいている。

 新米らしい、まだ学生くらいの女の子の店員が注文を聞き取りに来た。どこかおぼつかない様子で、メニューも覚えきれていないのだろう。何度かこちらの注文を聞き直す様子が初々しい。

「みみみちゃんも、あんな時があったんだねえ」
「今も結構あんな風に慌てちゃいますよ」
「そうかな、手術の時とか凄い落ち着いてるように見えるけどね」
「本当ですか?……あまりワタワタしてると、ワンちゃんやネコちゃんも不安そうにするんですよ。だから、なるべくなら出来るだけ冷静にしなきゃなあって思うんです」
「動物はある意味、人間よりずっとそういう感性が鋭いからね」

 それを聞いて、ああ、やっぱりこの人の喋り方もそうだし物の見方もそうだし――まあ、好きなんだろうなあ私。と、ミミは思った。勿論、贔屓目ってのもあるのだろうが、この人と一緒にいる事で、新しい自分の姿をいくつも見つける事ができた。彼と話していると、ミミが自分自身に抱いていたイメージが、いかに違っていたかに驚かされる。不思議だった。

 どこか斬新な観点を、この時尾先輩は持っているのかもしれないけど。

「へー、猫を飼ってるんだ。ペットオッケーのマンションなの?」
「はい。お隣の人も、チワワを飼ってますよ」
「俺も実家に、雑種の犬が一匹いたよ。三年ほど前に病気で死んじゃったけど、十五年は生きてたから。犬にしては大往生した方かなあって」
「そうですね。でもやっぱり、悲しいですよね」

 麺なだけあって、あまりのんびりだらだらと食事しているとすぐに伸びてしまうのが問題だ。もっと話していたいけど、家にいるトキオの方も気になるし、ちょうどいい選択だったのだろう。――それにしてもこういう店って、やっぱローテーションっていうか周りが早いんだよね。デートには向かないよなあー……。

 萌絵が昔、気の乗らない義理のデートにはつけ麺を選ぶと言っていた。長居しなくてすむから、だそうだ。――まあ、今は会社帰りだしデートに来たわけじゃないから別に……と何故か萌絵のその言葉と今の自分を重ねてひょっとして遠回しに「お前は脈無しだ」って意味なんじゃ、と一人で勝手に想像して青ざめた。

「あ、じゃあここは俺が払っておくから」
「え!? い、いいですよぉ。このくらい流石に……」
「誘ったのは俺なんだしさ、気にしないで。その代わり、仕事で頑張って返すように」

 卒なく笑いながら言って、時尾は伝票を会計に持っていくと本当に無駄のない仕草で暖簾を潜り抜ける。――いいなあ、何か。知らず知らずミミはバッグを持ったままそんな彼に見とれ、取り立ててイケメンというわけではない……いや、どうなんだろう。あの萌絵が『爽やかな』と評したくらいだから、もしかすると、かっこいいのかもしれない。って失礼な話だ。

 それぞれ地下鉄に乗り、「お疲れ様」の挨拶を済ませ、丁度ホームにやってきた車内へ。ラッシュを越えたガラガラの空間は、妙に居心地が良かった。座席にぼすっ、と座ると思わず顔がにやけた。

(いかんいかん、これじゃあ変質者じゃないの)

 忘れちゃならない、とバッグからスマホを抜き出してラインを立ち上げた。社内連絡用という事で、互いにラインの連絡先は一応既に把握している。すぐさま時尾との会話を立ち上げ(まあものの見事に業務的な会話しか残されちゃいないんだけど……)お礼の連絡を。

(ど、どうしよう……もしかして何かこれって駆け引きとかあるわけ!? 普通に業務的にありがとうございました、でいいのかな……最後に可愛いピンクのハートマークとかつけるべき? 無理! それは私が明日から会社行きにくい!)

 あああっ、と叫び出したくなるのを抑えてもだもだしていると正面のサラリーマンに露骨に変な目を向けられた。気恥ずかしくなり、すんません、と心の片隅で謝っておくと座席に赤い顔で座り直した。こほん、と咳払いしてスマホを再び見つめていると、こちらが送るより先に時尾の方からメッセージが入ったようだ。

『みみみちゃん、今日は付き合ってくれてありがと! 猫ちゃんにもヨロシク(^▽^)/~』

 画面と睨めっこしていたせいで、即・既読がついてしまったに違いない。

(さ、先超されちゃった。とりあえず無難に『こちらこそありがとうございました、ごちそうさまです』……みたいなのが一番だよね!?)

 ああ、何だか疲れるけど、妙に楽しい。この人だからこそ楽しいんだろう。この人だからこそ――こんなにもドキドキしている自分がいるのだろう。
 
 帰宅するなり、トキオにキャットフードをやり、それからトキオを抱きしめてゴロゴロとベッドの上で多幸感に満たされつつ転がり回る。風呂にも入らず、化粧も落とさず、そうやって十分程、幸せの余韻に浸り続けていた。
 
 あんなに美味しい麺を食べたのは、生まれて初めてかもしれないって。何だかミュージカルでも始まりそうな勢いだ、今の私は。猫を抱きかかえたままくるくる回って踊って歌い出したい……南無。


 たかがラーメン。
 たかが上司。
 たかが男。
 されど、これが恋。


「みみみちゃん。はい、これ」
「え?」

 目の前に差し出されたのは、この付近じゃあ結構美味しいとされている洋菓子屋『フルール』の包み紙だ。丁寧に包装されていて、トリコロール柄のリボン、ちいちゃなクラウン型のオブジェが添えられている。

 明らかに、誰がどう見てもプレゼント用であるのは違いないけど。

 更には、極めつけのようなミニブーケが一つ。花束、というとちょっと気合い入りすぎているけれど、そこまではいかない手頃なサイズの薔薇が七本。白をベースにした薔薇には鮮やかな青色とピンク色が混ざったレインボーカラーで、しかも生花のようである。

「明日って誕生日じゃなかった? おめでとう、ここのマカロン有名だったからね。いやー、早起きして並んだよ昨日!」
「え、な、何で……っ!?」

 何で知ってるんですか、と言いたいのを表情で彼は察したのだろう。すぐに微笑んで、「だってラインのアカウント名に日付入ってたから。それが誕生日なのかなって」といやらしさも感じさせずに返すだけであった。
 その様子ときたら、まるで上司としてするべき事をしたというだけの、下心のようなものは微塵も感じさせない只それだけのものなのだけれども。

(な、何事もなく三十一歳を迎えると思っていたのになあ……これは結構嬉しいかも)

 結構? いや、かなり。相当。めちゃくちゃ。……他に何があるだろう、この最上級の喜びを表すべき言葉は。早速、萌絵に報告のラインを送り、それからその日はずっと変な方向に意識が飛ばないように必死だった。



『それ、完全に気があるんじゃね?』

     『マジか……早とちりじゃないよね!?』

『いや、分かんないけど。でも、わざわざ有名店にまで並ぶとかちょっと凄すぎじゃん。しかも早起きして並んだんでしょ? 普通しないわwwww』

     『それなwwwwwww』

『しかも花束って! 気合い入りすぎだしね』

     『ちょっとビビった』


 お決まりのスタンプを飛ばしつつ、昼休みが終わろうとしていた。



『メッセージカードとかは入ってた?』

    『開いてないけど、外から確認する限りはない……のかなぁ』

『帰宅したら要チェックだね〜。そういうの、わざと見えづらいどこに入ってたりで試されてる時あるから、見逃さないようにね!』

    『おっすおっす、先輩!!』


 心の中でスチャ、っと萌絵先輩に敬礼しておき、ミミは最後のサンドイッチ一口を齧り終える。ただ、引っかかるというか、気になったのは当日じゃなくて前日にプレゼントっていう事くらいだろうか。極めて業務的な匂いしかしない、仮に、仮にもし、だ。相思相愛だったとして、向こうにも、自分に好意を持ってくれているのだとしたら。

(普通は当日にサプライズ、とかだよねえ。本気で好きなら……だけど。いや、でも時尾先輩ってちょっと変わってるからなあ。そんなの、人それぞれだから正解なんかないし)

 まあ、飽くまで自分の主観に基づいた話だし。それに、もっと都合のいい妄想を浮かべるならこれはジャブみたいなもので、こちらの反応を伺っていたのかもしれない。いけるかどうか、探りを入れられているとか。そんな事はないかな? なんて、ちょっと思い上がりもいいろころか。

 結局、お菓子の中にメッセージだとかサプライズ的なものもなく、マカロンは美味しく普通に頂きましたとさ。ちゃんちゃん。……ちゃんちゃん。

「花、か〜……凄い綺麗なカラーリングだけど生花なんだよねえ。どうやったら長持ちするんだろ」

 後でネットで調べなきゃ、ととりあえず百均で買った花瓶に差しておく事にする。それにしてもこんな色合いの薔薇は初めて見た、オプションであろうかすみ草とラメがいい具合に輝きを増している。

「何だっけ、有名な歌。吐息を白いバラに変えてっていうアレ思い出すなー……あっ、あれって確か不倫の曲だったっけ。……やだー!」

 頬を抑えて部屋で一人リアクションを取る自分の姿が、偶然クローゼットに反射しているのが見えてしまった。いかにも昭和っぽくて、何かとても自分が嫌になった。とりあえず冷静になろう、とミミはベッドの上にどさりと座り込んだ。

(……これってお礼メッセージは入れるべき? 明日、直接会ってお礼の方がいいかな……)

 何となくうじうじしてしまい、その日はマカロンの後に缶チューハイを三本空けて気付くとそのまま寝落ちしてしまったようである。翌日、当日のお誘いを心のどこかで期待しつつ、時尾の元へと向かった。

「あ、せ、先輩! 昨日はお菓子どうもありがとうございました。美味しかったです、一気に食べちゃいましたよ」
「本当? 良かったー、並んだ甲斐があったね」
「え、ええ! はい、はい!……その、お花も綺麗でしたし! あんな色合いの薔薇ってあるんですね」
「変わってるでしょ、レインボーローズっていうんだ。あの色が一番人気があって、予約制なんだよ」
「そ、うなんですか! はい、ええ、はい、思わず花瓶買って飾っちゃいました!」

 あれ、と何となく手ごたえのなさを覚える。
 別段、時尾に変わった様子はない。冷たくもないし、誘ってくるようなそういう気配もない。普段通り、何も変わっていない。恋愛上手ではない自負のあるミミにも、これ以上何の進展も望めない事は分かった。

(……ん? もしかして、えーと……ワンチャン、前みたいに仕事終わり際とか……)

 まだだ、まだ慌てるような時間じゃあないと繰り返し言い聞かせ、業務を終える。しかし、待てど暮らせど――、

「お疲れ様!」

 自分の望むような展開や言葉は、それ以降も特に何もなかった。特に――何も――あれ? 何もないのか。何も、ない、の、かな。

(……どういう事だ、これは……)

 ガタンガタン、とつり革を持ったまま電車に揺られながら、ミミは呆然と立ち尽くしていた。ひょっとしたら何かメッセージが来てるのかも? 何度もLINEのアプリを立ち上げたが、結果は同じなのであった。