#4−4

 家に帰るなり、魂が抜けたようにぐでーっとベッドに崩れ落ちた。……このままシーツに溶けてしまいそうなくらいに、疲弊している。萌絵に報告する気力も沸かない、特になにかがあったわけではないのに――いや、特に何もない事に打ちのめされたのだ。期待していただけに、これはちょっとダメージが出かかった。その日は普通に自炊して、冷蔵庫の中の食品を処理する事に徹底した。

(ちょっと期待してたせいで、今日は買い物しなかったんだよなぁ……馬鹿みたいだよねー、ほんと)

 仕方ない。なーんかもう簡単にインスタントラーメンでも、いっかなぁ。
 やる気も出なくなるもので、こう、やけに投げやりな気分のまま……いやいや。ちょっとここで考え直さないと。別に時尾先輩は悪くない。一つも悪くないんだよね。ただ、ちょっと期待させるなよ! っていう――、ね。逆ギレしちゃってもしょうがないんだけど。ね。

 テレビでは最近流行りらしい、女芸人がネタを披露していて、「あ、最近ネットでよく見るフレーズはこれが元ネタだったんだぁー。へぇ」と初めて知る。野菜を適当に切って炒めただけの具が乗った塩ラーメンを啜りながら、今日得た収穫はそのくらいだったと、ミミは三十一歳を迎えたのだった。

(……あの時食べたつけ麺はあんなにも美味しかったのに)

 キャベツの切れ端を何となくトキオに与えてみたけど、ぷいっと顔を逸らされてしまった。次の日、何となくまだ女々しく何かを期待して職場へ向かってみるけど、特に何もなかった。いつも通り、只いつも通りの時尾先輩がいるだけ。次の日どころか、その次の日も、土日が終わって、翌週も、時尾から何か嬉しくなるようなアプローチがあるわけじゃなかった。

 私を見て、そして話しかけて。そう思わずにはいられなかった。結局その気持ちは届かないまま、時尾先輩は変わらない笑顔で話しかけてくるだけである。一体私は、彼に何を望んだんだろう。何と話しかけてもらい、何と思ってほしかったんだろう。
 
 今彼に話しかけられたり、LINEが届いたりしたらきっとどうでもいい事をもっともっとたくさん喋ってしまいそうだ。仕事中に彼に、業務的な話をされるたびにきっと今夜は何かがあると思い込んだ。そう思った三十分後にはやっぱりなにもない、と思い直し、期待するだけ無駄、と言い聞かせ、しかし彼が話しかけに来ると、何かあるのかもしれないと思った。そしてまた一時間も経てば、諦めた。

 ただ一人で、そうやって勝手に希望と絶望を繰り返していた。

――“誰のせいでもない”

 私がこの人を好きになってしまったという事実は喜ばしい話には違いないのだけれど、それが幸せという顛末へと結びつかないのは、私が悪いわけでも勿論時尾先輩が悪いわけでもない。そう、だって、分かってる。
 それで、ミミの誕生日から、ちょうど一か月が経とうとした時。聞くつもりなんかなかったのに。

「入籍おめでとう、今更だけど」
「え、ちょっと、遅いですよ情報が。もう十日前の話ですって」

 心のどこかでは予想していて、だけどわざと目を逸らして、見ないようにしてきた事だった。

「奥さん、三か月目なんだろ? デキ婚じゃねえかお前」
「結婚するのは決めてたんで順番が早まっただけですって! 何かまるで悪いみたいに言わないで下さいよぉ〜、大体、今は珍しくない話ですし」
「まあな、確かに確かに」

――知ってる? 時尾先輩、前の彼女とヨリ戻りそうなの。別れてから、相手の方が『やっぱり貴方しかいなかった』って押しかけて来たらしいよ〜
――へー積極的だねー今時にしては熱い恋愛だよねえー
――ていうか結構ドロドロしてたけどね、だから先輩もギリギリまで会社側に籍入れた事報告しなかったどころか周りにも隠してたりで何か後ろめたい事でもあったんじゃないのかなぁってちょっと思ったんだよねえ
――だって子ども出来てっしねーその辺はどう言い逃れすんだってぇーやる事やってんじゃんー先輩ったらあんな虫も殺さぬような顔してやり手ー

 きゃはは、だよね。まあそれも女側の打算手且つ計算づくの行動? みたいな? それ? あれ? ハメられた? 押し倒された? きゃははははは、きゃはははは。うけるんですけどー。
 過ぎ行く看護スタッフの女子二人の声を耳にしながら、ミミは蓋をしたままのトイレに座り込んでぼけーっとしていた。不思議と、泣いてはいない。だってそれは何となく、予想していた事だったから。私が見ないようにしてきただけの、事だったから。

(あーあ、死ねばいいのに。私が)

 その日は帰宅するなり、トキオをうんと可愛がってやった。お前は可愛いね、本当に可愛いね。世界で一番好きかもしんない、と呟きながら抱きしめて餌も沢山与えてやった。ちょっと奮発して、高いマグロの缶詰なんかもあげちゃったりなんかして。

(男なんて、自分勝手でめんどくさい)

 ううん、違う。違うんだよね。ホントは、もう知ってるんだ。一番面倒くさいのは私なんだって。私という存在が、この思考そのものが、いちばん鬱陶しくて面倒なんだ。ここでミミは、ようやく自分がぼろぼろと泣いている事に気が付いた。ほんとは泣きたくてしょうがなかったんだよね? でも、会社では泣かなかったからさ。偉い、偉いようんうん。

 ミミはトキオの頭を撫でてやりながら、思わず泣き笑いのような表情になった。呑気そうにゴロゴロしているトキオの事が羨ましくてしょうがない。可愛がってやりたい気持ちと、羨望と嫉妬を同時に覚えてしまう。
 
 それはちょうど、私が彼に感じていた思いとほとんど合致する。

(……やっぱり私は、猫でいいや)

 萌絵にも後でメッセージしておかなくちゃな、とゴロゴロしながら考えた。涙はもうとっくに乾いていた。

 その二日後、ミミは思い立ったように有休一週間分を一気に申請した。
 正確には、元々の休みだった水・木の休みを除き、五日分を。……有休は与えられた権利だ、使って何が悪いとうのだ。それに、一か月前に申し出てるんだから文句は言わせない。

「え、みみみちゃん急にどうしたんだい!?」
「ちょっと、身内に会いに行きたいんです。法事とか結婚式とか同時に何か色々重なってまして――それに、うち、父方のおばあちゃんがいるんですが、いかんせんもう要介護ですから誰かの手を借りないと身動きも一苦労するから……それで、九州まで行き来する事考えたら一週間ほど欲しいなと……」

 そんなに上手な嘘でもないけれど、下手な嘘というわけでもない。事実、父方の祖母にしばらく会っていないのは本当で、親類のうちの誰かが定期的に見に行ってやらねばならないという暗黙の決まりもあった。ミミはもう何年も会えていないけれど、いつかの機会には、様子を見に行きたいとは思っていたのだから、これは嘘ではない。

 時尾は決して良くは思わなかったのだろうが、いかんせん今までのミミならば言わなかったような頼みに驚いたのもあるのかもしれなかった。快諾とまではいかなかったが、断る事も出来ずにそれを半笑いの顔で承諾した。

(というわけで、本当に一人旅行。来てしまいました)

 別府の祖母に挨拶して一泊。それから、人里離れた秘湯巡りと称して、プラプラと九州を巡った。西に転じて、父が高校の時によく遊んでいたという佐世保を訪れ、昼には有名なバーガーとそれから餃子を食べた。案外美味しくてぺろりと完食し、夜はちゃんぽんを平らげた。やけ食い、とはこういう事をいうのかもしれない。

 列車に乗って風景をぼーっと只眺めるのも、悪くはなかった。

 一週間の、現実逃避旅行。イヤ、案外楽しめるかもしれない――三日くらいで飽きて結局すごすごと帰るんじゃないかと思ったが。

 知らないうちに結構疲れてたのかもしれない、只々景色を見ているだけでも何となく気が楽になったり、心が癒されたり、のんびりと過ぎていく時間に『色々と焦りすぎたのかなー』なんて余裕も生まれてくるものだ。

 そんな風に、目的もアテもない傷心旅行・四日目の夜はバスでの移動となった。
 レトロな外観のバスは、ボンネットタイプの赤色のデザインがとても目を惹いた。少し年季が入っているのか、所々の塗装が剥げていたりして。が、それもまた何となく古き良き、といった趣があるように見えた。

(んー、何だろ。海外の、クラシックタイプの車って感じで好きだなあ。ヨーロッパ風なのもいいねぇ、昔のロンドンとかで走ってそうな?)

 その可愛さに目を奪われつつ乗車したせいなのか、内部の事はあまり気に留めなかった。
 中へと入った瞬間、明らかに空気が流れる空気が変わったような気がした。

「……?」

 その一瞬の違和感にはっとしたよう、ミミがバス内を見渡すと乗客の異様な雰囲気のせいだと悟った。足を踏み入れた途端、まばらに席に腰かけていた人々の胡乱な視線が一斉にこちらを向いたので、それで反射的に足を止めてしまった。

「……」

 手前の、頭にスカーフを巻いたおばさんの鋭い眼光に気圧されてしまいミミはリュックの紐を握り締めたまま硬直し、しばし固唾を飲んでいた。顔の異様に白い、とうかもはや青い――その中年のおばちゃんだったが、目を見開いたまま、一切瞬きをしないのだから、もう。
 その双眸に射竦められたように立ち尽くしていると、背後でドアが音を立てて勝手に閉まったのが分かった。運転席側で操作されてしまったのだろうか。そのせいで何となく降車できなくなり、おずおずとした様子でミミは足を動かした。おばさんの視線から逃れるようにしながら、一番後ろの座席に腰かけた。

(何だろ、何かちょい不気味な感じだな。ていうか……)

 バス全体を見渡して、妙な違和感があったがそれが何なのか分かった。乗っている客の服装が妙にみんなぼろくて、しかもファッションセンスが明らかに今の時代のものじゃないように見える。ダサいとか、垢抜けないとか、そういうのともまた違う――どう表現するのが的確なのか分からないが。

「…………」

 むう――何なんだろうか、一体。
 変に緊張した心地のままでいると、前の座席に腰かけていた子どもが突然くるりと振り返ってきた。狐面を被った子ども(少年なのか少女なのか……服装の感じからいって、恐らく少年)が、無言のままで、背もたれに手を掛けたままこちらをじっと眺めている。
 その様子に何となく威圧されてしまい、ミミはすっかり言葉を飲み込んでしまうのだった。