#5-1

 薄暗い廊下から、非常口を示す緑色の光が揺れていた。歩くたびに、どこからともなく漂う消毒液の臭いが鼻を通り抜けていくのを感じた。時々ふっと立ち止まり、木崎は耳を澄ませてみた。
 扉の隙間から様子を伺うも、何かが聞こえたり(古びた空調の音は微かにしたけれど)、何かの気配を感じたりはしなかった。

 つまりは、特に何の異変も見受けられないのだった。

 ここの病棟に、一体何が収められているのか自分達は一切聞かされない。『重病の患者だ』とか『治る見込みのない状態の人々がいる』とか、表では取り扱えない案件を抱えた人々が入院しているそうなのだが、結局のところじゃ機密事項……という便利な言葉で片付けられてしまい詳細は何も知らなかった。

 今期になってから急遽授けられたこの特務機関に、半ば強制的に配属になった誰もが何も言い出せなかった。文句は愚か、真っ当な意見さえも黙殺された。それで、本社から直々にここの警備をと任された時も、木崎は何の反論もしなかったし彼に異動を言い渡した上司も思惑通りだと感じていたのだった。

 ここの見回り自体には慣れていたし、どうという事はないのだが――どうも今日の巡回はいつもとは少し違うイレギュラーパターンのようだ。毎度お馴染みの誤作動によるアラームではなく、はっきりと何かが起きたようである(まあ、現時点では発見できていないのだけれど)。
 内部の人間にさえ、この“特別に授けられた機関”が誰がどういった目的の為に設置し、またどのように動かしているのか把握していない。そんな存在がもし、ちょっとでも外部に知れたりしたら「まあ、大変!」どころの騒ぎでは済まされないだろう。砂粒程の情報でも漏らしてしまう前に、騒ぎの原因になりそうなものは些細なものでも消す。……それが今の自分に与えられた仕事なのだと思うべきなのだろう。

 ひとまず入り口の周辺には何もないようだが――と、木崎は更に奥深くへと進んでいく。動くごとにチャリチャリ、と腰につけた鍵類の擦れ合う金属音がするだけでそれ以外に目ぼしい物音はやはり聞こえない。

「……」

 切れかかった蛍光灯を見上げつつ、カチカチカチ――と点いたり消えたりを繰り返すその音にしばし耳を澄ませていた。ここまででまだ、特に目立った何かは見つけられず、諦観したようなため息を吐いた。

 しばらくその薄暗い廊下を進んでいると、異臭がつんと鼻を突いた。同時に、大昔の記憶を掘り起こされる。目の前で死んだ叔父の姿が脳裏に揺り起こされた。軽い眩暈を覚えてふらついたが、すぐに顔を上げた。

「叔父さん」

 かつての叔父が、変わらない姿でそこに立っているのを認めた。叔父はうっすらと口元に力なく微笑みを浮かべていた。皮肉っぽい、消え入りそうな笑顔だった。――どうせ幻だ。分かっていながら、首を横に振ったが、しかし木崎は彼の姿を求めるようにその足を動かしていた。

「……待ってくれ!」

 乱れそうになる感情を押しとどめるのに必死になった。
 行ってしまう。叔父さんが――、曲がり角を進む叔父に追いすがるよう、木崎は気付くと駆け出していた。現実が現実でなくなり、深い底なしの暗闇に呼ばれているような感覚。しかし、求めずにはいられなかった。叔父の姿を。

 幻だ、夢だ、それも悪い類いの――と、知りながら木崎は求めずにはいられなかった。叔父の幻を追いかけ、突き当りを曲がる。先に感じていた異臭が、より濃いものとなる。……仕事上、嗅ぎなれていた臭いだ。金属錆を思わせるむせ返る香り、これは――踏み出した先には案の定、大量の血だまり『のみ』が出来ていた。
 それを知った時には、叔父の姿はもうどこにもいなかった。

 リノリウムの床の上には、大量の血と体液が飛び散っていた。
 死体そのものは見当たらなかったので、その血痕を木崎は辿った。誰かがその上を跨ぎ、踏んだり滑ったりしたのであろう足跡と共に、攻撃を受けながらも激しく抵抗したような痕跡も認められた。

 壁やら床に、刃物のような切り傷が走っているのを視界の端に留め、木崎は息を潜めながらそれらを見送った。相手は武器を所持しているわけか――そこまでを考えて、木崎は気持ち背中を壁に寄らせつつ、周囲を見渡した。襲撃者の姿もそうだがこの血を流したと思われる当人の姿も見当たらないのは何故なんだろうか? 仕事柄、そんなに簡単に背後を許し、挙句殺されたりするものだろうか?……案外、まだ息があり、どこかの部屋で助けが来るのを待っているのかもしれない。

 注意深く――それこそ扉の陰に潜んでいるのかもしれない――部屋の扉を開けつつ移動した。何故か扉の全てに鍵がかかっておらず、且つ中に誰かがいる気配もしない。これが意味するところが何なのか今一つ結びつかず、木崎は無意識のうち顔をしかめた。それから、そう時間はかからず次に手を伸ばした部屋の戸が閉まっていた。

 露骨すぎてひょっとして何か罠なのかもしれない、とも思わなくもないが、まあ時間の短縮にはなるかと思った。小細工だの駆け引きだの心理戦だの、はっきり言ってチマチマとやるのが性に合わない。木崎が扉を叩けど、案の定何の反応もなく、次は威嚇するように強めの調子で殴った。やはり何の応答もないので、益々時間の無駄だと思うと柄にもなく少しイラッときて、それから足で蹴った。バン、ゴン、ガン、と殴りつけるたびに鉄のドアは違った音色を立てた。最後に蹴った時はボキッ、と鈍い音がして手ごたえが得られたような気がした。ふと見れば、扉の鍵の部分が歪んでいる。
 もうあと二、三回ダメージを与えたら、ドラマか映画よろしく派手に蹴破れそうだった。そう思って一発蹴ると、扉は音を立てて開いた。同時に室内からは、ムッとした熱気が溢れてきたのが分かった。

「おっ、開いた」

 思わず独り言をこぼしながら室内へと入ると、予想していた以上の熱さに迎らえた。同時に、えずきたくなるくらいにむせ返った血の臭いも、無遠慮に鼻腔へと浸食してきた。『く』の字に曲げられた状態で放置されたその同じ制服姿の遺体を見て、ああ、と、納得した。大方予想通りだった。

 木崎は特に躊躇もせずに、その死体が誰なのか、また死因は何なのかを探るべく近づいた。近づくにつれてその臭いは更に強烈なものとなり、血気に混ざってきつい排泄物の臭いもした。絶命の瞬間に漏らしたものだろうと思われるが、流石の木崎も抵抗がないわけではなかった。強烈なまでの熱気とその臭気に反射的に息を潜め、木崎はそのうずくまるような姿勢の青年に近づいた。

「……林先輩」

 溢れ出る内臓を抱えるようにして背を曲げていたその主は、林、というまだ自分とそう変わらない年頃の、一応先輩にあたる人だ。正直言ってそんなに親しくした覚えは――思い出そうとしたけど、くだらない会話を何度かかわし、適当な相槌を打った程度のものしか浮かばなかった。そのくらいの仲でしかなかった。叔父の死に際の事と比べている自分がいて、馬鹿馬鹿しくなり、むしろどうして比べようとしたのか不思議になった。

 室内では赤色灯がチカチカと廻っている。
 せり出した眼球、血にまみれて湯気の立った臓物を床に垂らし、あとどうも喉を裂かれているのが分かった。深い切り傷は大きく口を開け、ピンク色の脂肪を惜しげもなく露出させている。顔は鬱血して所々腫れており、青あざがうっすら浮かび始めているのが分かった。

(この人も相手に立ち向かったんだな。それで結局、こうなってしまったわけだけれど。無抵抗に只惨殺されたわけじゃないらしい)

 という事は、相手は拳銃やすぐに殺せるような武器を所持していないのだろうか。こちらが気付くのを遅らせる為に、あえて使用しなかっただけかもしれない。しかしこの真新しい死体の状態からいってもそれが相手側の目的とは思えない。この目立つような殺し方、明らかにこちらを挑発しているとでもいうべきか。
 楽しみながら、そして散々甚振りながら殺してやった。
 残虐な殺害の仕方の裏には、お前らのような存在なんか怖くない。こんなにもひどいことができるおれは、すごいんだ!――そんな幼稚さやガキっぽさが感じられて、木崎は何とも言えない心地にさせられた。

「……異常発生、か」

 ぼそりと呟くと、木崎はその場から腰を上げた。
 やはり、どういうわけなのか今の自分は叔父が殺された時の事を思い返さずにはいられなかった。壁に飾られていた鏡を見ると、自分のすぐ背後に叔父の亡霊が佇んでいるのを見た。勿論それは自らが作り出した妄想だと分かり切っていたけど、吸い寄せられるようにふらふらと近づいた。

「叔父さん――、」

 呟くと、鏡面に映る叔父は悲しそうな笑顔を浮かべていた。鏡に手を伸ばした。まるで導かれるように。

「分かっている」

 血と体液で水浸しになった室内に佇む叔父を背後に感じながら、木崎は彼の幻影に向かって頷く。首を垂れる。そこにいる叔父は、まだ自分が幼い頃に最後に見た装いのまま。――木崎は鏡に向かって手を触れた。

 もう何も奪わせない。俺から何も奪わせない。誰にこの気持ちが理解できるんだろうか。今のこの世界には、もう俺しかいない。俺しか――木崎は気付くと右の拳を鏡に向かって殴りつけていた。痛みはなかった。鏡を見つめると、ひび割れてアシンメトリーになった自分の姿がそこにはあった。
 腕を引くと、今しがた殴った拳には自らの血が滲んでいた。そこでようやく思い出したかのように、痛みは遅れてやってきた。


 先程から、注意深く動いている自分とは違いベイビードールは呑気にスキップしたり鼻歌を歌ったり。

「……何も出てこなくて暇だねぇー……」

 しまいにはこれだ。
 オマケに生あくびを噛みしめながら、ベイビードールがぼやいたのが分かった。彼女、いやいや、彼なりの冗談のつもりかもしれないが――もはや苦笑さえも浮かべる気にはなれなかった。“運び屋”ことネームレスは、ベイビードールから受け取ったショットガンをスリングで肩から吊り、相変わらずの病衣のまま移動していた。

「それにしても裸足で移動って運び屋さん、あんたワイルドだね。足が素敵」
「だからそれを今探しているんだろう。この服も着替えたいんだ、消毒液臭くて適わん」

 外の状況は一体どうなっているんだろうか。
 ここの施設にしたって外部の目に触れないようにか、窓らしきものが一切見当たらない。人は愚か虫一匹の気配さえも、あの化け物以降は感じられない。――他の患者はどこへ行ったのだろう? この異様な事態に、もう既に逃げ出してしまったのだろうか。
 
 ネームレスは扉に耳を当て、病室に誰かがいないか耳を澄ませてみた。

「ねぇ運び屋さん、クイズしない?」
「……」
「パンはパンでも食べられないパンはなーんだ!」
「……、…………」
「ちっちっちっちっち〜、あと五秒でーす。ごー、よん、さーん……」
「……。フライパンか?」

 扉に耳を押し当てていたネームレスが眉間にしわを寄せながら尋ね返すと、ベイビードールは頬を膨らませ、口元に指で×の形を作りながら「ぶっぶ〜〜〜!」と叫び返してきた。顔の整った美少女、いや、美少年ではあるが却って腹立たしいのは何故だろうか。

「正解は腐ったパンでした〜。フライパンはそもそもパンの種類じゃないでーす」
「腹が立つからその顔やめろ」

 そうすると、少し拗ねたような顔でぷーっと頬を膨らますのだからたまったもんではない。もし本当に彼の精神が成人男性だというのなら、一発殴って目覚めさせてやるのも悪くないんじゃないだろうか。――と、イラッと来たものの、彼が一応恩人だった事を思い返してやめておく。このショットガンだって、ベイビードールが与えてくれたものなのだ。

「次はしりとりしない? 俺からいくね、しりとりーで、りー……リニューアル」
「もういいから少し静かにしてくれないか?――この部屋、誰かがいそうな気配があるんでね」

 その言葉に、ベイビードールは驚いたように目を丸めてから肩を竦めた。