#5-2

 ネームレスが、しんと静まり返った施設内を見渡し、それから壁に寄り添うようにして足を動かした。扉に向かって耳を押し当てると、扉の向こうに確かに何か――ともすれば聞き漏らしてしまいそうな程の微かな物音が一つした。

 こつん、と何かがぶつかるような小さな反響音にネームレスは確信を抱いた。しかし、その確信が警戒心へと変わるのも早かった。その淀みを代弁するよう、ベイビードールが口を開くのが分かった。

「いたとしても、たぶんマトモな奴じゃないと思うよ。無視したら?」

 全くもってその通りでしかなかった。おまけにそのマトモな『奴』というのは、人間のみと限らないのだから恐れ入る。ネームレスはその言葉を肯定していながら、だからと言って全面的に彼を信用できるわけでもなかった。こいつに関しては正直に言って半信半疑、という言葉が一番適切だった。というよりも現状、誰も信用できない。

 こちらのそんな感情を見抜いているのか否か、ベイビードールはため息交じりに視線を下げ、それから退屈そうに唇をへの字に曲げた。

「……あーあ、煙草吸いてえ。あと、思いっきりキツイ酒をめいっぱい飲みたいなあ〜。次の日記憶なくしてフラフラんなるようなやつ!」

 うしし、といたずらっぽく微笑みながらベイビードールは何か悪い事でも企む子どものような顔つきでぼやいた。――そもそも、その姿は借り物だという話だけれどそれにしたって胡散臭いのには変わらない。何もかもを信じられない状況。全てを疑わなくてはならない状況。――改めて考えても恐ろしい話だ、勿論、だからこそ今こうして扉に手をかけている自分の手は微かに震えているのだろうけど。

 コツン。コツン。……コツ、とその不定期な音は途切れ途切れに今も尚分厚い扉の向こうで続けられているようだ。鍵は開いているようで、それを知った時には一層自分の身体に冷たい汗が浮かんだのが分かった。緊張がもう一段階持ち上がったのを自覚し、そして、ネームレスはドアノブを掴む。

「!」

 一気に開いてみると、顔面に何かが覆い被さってきた。悲鳴はあげなかったが驚きに身を竦め、弾みで詰まったような呼吸を一つ漏らした。

「っ……これは――」

 鼻を覆うような異臭に思わずのけぞり、慌ててそれをどかし全貌を確認すると、首を吊った状態の男だと分かった。扉のフックにシーツを括り付け、それを使って自死を決行したようである。傍らには蹴り倒した後であろう木製の小さな椅子が転がされていた。

 そうか。首吊り死体がぶつかる音だったのか、扉の向こうの気配とかすかな物音は。……随分とまた悪趣味な話だ、納得するのも嫌になる程に。

「……。見りゃ分かるだろうけど、自殺――したんだね。死体の状態からいって結構真新しいのかな、腐敗はそこまで進んでないみたい……だけど……」

 背後でその一連の流れを眺めていたベイビードールだったが、一歩前に出てそれを眺めつつ呟いた。独り言のような調子ではあったが、ベイビードールは死体そのものにはあまり反応を示さずむしろネームレスの方へと意識が注がれているかのようであった。いささか呆然とした状態のまま立ち竦んでいるネームレスに向かい、ベイビードールは眉間に皺を寄せながら唇を開いた。

「昔の貴方だったら、このくらいでは動じなかったのに。やっぱり他の人格が、今の運び屋さんの中には自我として芽生えつつあるのかも」
「――意味の分からない話はよしてくれ、余計に混乱させる気か」
「違う、助言してるつもりだよ。……その人格がどんな人物だったのかは俺の分かるところじゃないけど、下手したら命に関わってくる問題でしょう? 血に免疫もないような、それこそ虫一つ殺せない人じゃあ、この先とてもじゃないけど……」

 言いかけるベイビードールに背を向け、ネームレスは室内へと入っていくのだった。黴臭い室内は、自分が寝かされていた病室とは打って変わり随分と荒んで古ぼけて見えた。ベッドも小汚いし、壁にも天井にも薄い汚れやシミのようなものが点々と浮かんでいる。
 ちなみに、部屋の主であろう首吊り遺体から漂う腐りかけの肉の臭い、動物的な糞尿と体液の入り混じった臭いも加わり、もはや室内は異臭という異臭に包まれていた。顔をしかめつつ振り返ると、死体のせり出た眼球、だらりと伸びた舌が視界に入り、殊更に吐き気を催しそうになった。

「どうして死を選んだのかな。只何となく死にました、っていう感じには見えないんだけど。やっぱり化け物どもから逃げる道を選んで、その結果としてこうなったのかな?……俺達がもっと早く来てれば助けられた……?」
「――さあな。もしかしたら、今のお前の話を聞く限り、俺達は何か実験体みたいな扱いを受けているだろう? 俺達は一度死んだ身で、記憶だけを引っ張り出されて、別の身体に移し替えられて作り出された『義体』。そんなところだろう? 話を整理すると」
「まあね。……って事はこのヒトもひょっとしたら俺らとおなじ、実験体のようなものなのかも。それに絶望して――」

 ベイビードールはその先の言葉は伏せたが、まあ、何となくの想像はついた。行き着く先に待つんであろう、救いのない事実。しかしまあそういう事なのだろう、この状況というのは――と無闇に納得している自分がいた。

「……あまりまじまじと見たいものではないのには変わりはないが」
「とか何とか言いながら、早速荷物漁り? ドロボーと一緒……ていうか死体から盗むって何か道徳心のカケラもないね」
「――さっきのクイズの答えだけどな」

 脈絡なく吐かれた言葉に、ベイビードールが「ん?」と肩を竦めた。ネームレスは言いながら部屋の隅にまとめられた、住人のものと思しきバッグを引っ張り出した。

 そうだ、その通り。死体泥棒と同じである。
 
 引きずり出した、スポーツバッグくらいの大きさのそれのジッパーを下げると男の着替え類がいくつか見つかった。サイズ的には――、少しばかり小さいかもしれない。胸板の辺りが多少きつい気もしたが、この際構うものかと手近にあった白のヘンリーネックシャツを手に取った。その消毒液臭い病衣をさっさと脱ぎ捨て、この黴臭い空間にしばらく収納されていたんであろう白のシャツへと着替えた。

 シャツそのものは清潔で、それどころかむしろアイロンが行き届いており柔軟剤のものだろうか石鹸のような薄い香りがした。腕を通し、裾を合わせてみたが問題はなさそうだ。

「俺は多少腐っていようが構わずに食えるんでな。だからその正解は俺にとっちゃあ、不正解だな」
「……う……、何だよそれ〜。そして構わずパンツ見せないでよ、こんなかわいい子の前でそんな堂々と脱いじゃうの……?」
「お前が言うように本当に男同士なら問題ない」

 構わず下も脱ぎ捨てると、ネームレスは同じ荷物にまとめられていたデニムを取り出して足を通した。こちらも問題はなさそうだが、腹の部分が少し緩いくらいか。ベルトでもしておけばまぁ平気か。

「……運び屋さん、俺の事疑ってるよねぇ。スパイとかじゃないからさ、安心していいんだよ? 別に。ここを脱出する間くらいでも信じあわない? それに俺、これでも記者なんだよ。結構、この施設に関する情報も仕入れてるんだ」
「――それで? その情報を俺に提供してくれるって話か?」
「仲間として組んでくれるんなら、共有するのは当然かなぁって」

 駄目? とベイビードールが小首を傾げつつ問いかけてきたが、真意がまるで読めずにネームレスは着替えを終えると、襟元を整えてから更にハンガーにかけられた丈の長いそのコートを手にした。全体のシルエットを隠すのに、丁度いいサイズだ。何となくだが肌を晒すのが好きじゃない、という漠然とした思いだけがあり、コートを羽織るのだった。

「っ……」

 ふと、ベイビードールが何かに気付いたのかはっとしたようにその場で振り返った。

「運び屋さんっ、あんまダラダラ悠長にしてらんないよ。誰か来る」
「……本当か? 何も感じないんだが」
「あー、もうっ。またそうやって自分の感覚しか信用しないんだから、そうやってどんどんめんどくさいオッサンにならないでよ!」

 何故、急にそんな怒られなくてはなるまいとある種の不条理さを抱きつつもベイビードールは随分と切羽詰まった様子だった。荷物をまとめるこちらの手を慌てて引っ張ると、一秒でも早くこの部屋から出る事を迫った。

「何、その旅行の準備でも進めるようなのんびりしたオッサンみたいな手つき! やっぱりさあ、運び屋さんの脳味噌ちょっと平和ボケした一般人が混ざってそうだよねそれ絶対!」
「お、おい……」
「ほら、とにかく出て! 死体ごと見つかったら完全に俺達が犯人にされる流れだよ」

 ベイビードールに腕を引かれる形で無理やり廊下に引っ張り出され、慌てた手つきで彼は扉を閉めた。それで少し安堵したみたいだが、すぐさま気配の迫る先を見据えたよう意識を切り替えた。

「っ……ほら、聞こえない? 足音」
「……」

 言われて初めて、ネームレスの耳にもそれが伝わったようであった。というか、大分その音が近づいてきつつあるのか反響されて大きくなってきたんであろう。材質は革靴……だろうか、『一応、今のところは』人間のそれに違いないのだけれど油断はできない。

「運び屋さん、ショットガンそのコートの下に隠せる!? 流石にちょっと不利すぎるから!」
「今更のようで悪いが俺もお前も十分怪しい見た目をしているよな。そもそもこの武器、お前どこで調た……」
「シッ!!」

 ベイビードールに促され、言葉を飲み込んだ。薄暗い廊下の先では、誰かが手にしているのであろうライトの光が確かに揺れている。こちらに向かってきているのは、もはや変えようもない事実だろう。
 コツ、コツ、コツ――と一歩、また一歩と迫ってきた足音と共に姿を見せたのは警備員――なんだろうか。しかし、その装いは水色の制服警官にも見えたし、はっきりと胸元の勲章のようなものが光っているのもこの距離から拝めた事から、この施設は病院ではなく刑務所に近いものではないかと察する。

「……言ったでしょ?」

 ベイビードールの「言わんこっちゃない」と訴えるような視線とぶつかった。姿を見せたその巡回中と思しき青年は、ライトのビームをこちらに向けた。向こうも誰かがいるのを予想していたのか、さほど驚いた様子は見せず――いや、それにしても落ち着きすぎじゃないか、というくらいに動揺しないのでむしろこちらの方が驚愕した程だった。

「運び屋さん、ちょっと大人しくしててよね。俺が一芝居打つから」
「……」

 特に反論もせず、肯定もせず。黙ったままなのをベイビードールは肯定と受け取ったのか一度自分の指先をひと舐めた。それを目元辺りにささっとなじませると、くるりと青年の方に振り返った。

「……、君達は?」

 青年の声は妙に平坦というのか、のっぺりとして感情が籠っていないようにネームレスの耳には届いた。人間らしくない、とでもいうのか。暗がりの中、ライトと切れかかった証明の薄明りの下だったが、均等に顔の整った男だという事が伺えた。女好きのしそうな、嫌味のない美形だ。職業柄、護身程度には――いや、どうだろう。日頃から何らかの鍛錬をしているのには違いない。引き締まったアスリート然とした筋肉は、年齢の特定を妨げていた。

 男は自分達とはある程度の距離を保ったままで、徒歩を止めた。こちらを疑っている筈なのに、何故か男はそれをおくびにも出さないような表情をしている。……何事にも無感動な、どこか虚ろな瞳。周囲に人影がないのを確認しているように、ネームレスの目には見えた。

 男は欠片程も動じずに、もう一度こちらを見た。

「ごっ、ごめんなさい……道に……、道に迷っちゃって……それで……」

 すかさずベイビードールが目に涙を潤ませたかと思うと、おろおろとした様子で躍り出た。縋りつくように告げ、ベイビードールは上目遣いにその青年を見上げた。非力でか弱い少女の姿がそこにはあった。
 全く、見事としか言いようがなかった。
 その姿は本当に力無き儚い女の子でしかなかったし、この愛くるしい顔で哀願されたのなら大抵の者は(特に男であるなら尚更)信じないわけにはいかないだろう。
 いや、信じなくとも――彼の為に何とかしてやろう、とその場で心に誓うかもしれない。理解と保護を求める声と表情で、ベイビードールは続けて言った。

「私、怖くてそれで……ここでこのオジサンと出会って出口を探してるんです……」
「そう。――じゃ、君はどうしてここに? ここは君みたいな女の子が入れるような場所じゃないから、つまり……」
「め、目が覚めたらここにいたんです……でも何も思い出せないから……」

 男は「なるほど」と呟いて、一つ顔を頷かせた。

「そっちにいる人も同じ?」
「ああ」

 全くもって、嘘偽りのない話である。目が覚めたらここにいたのだ。それ以外、どう説明したらいい。というかむしろ、こっちが知りたいくらいだった。

「――よし、分かった。じゃあついてきて、俺が安全な場所にまで案内するから」
「こ、ここってやっぱり……危険なんですか……?」

 瞳を潤ませながらベイビードールが尋ねかけると、男はやはり欠片程の表情も浮かべず(ちょっとだけ、作ったような笑顔が口元にはある)不安そうなベイビードールを安心させるように穏やかな声で返した。

「心配しなくても大丈夫だよ。俺についてきてくれたら、大丈夫。女の子くらいならちゃんと送り届けられるから」
「……ありがとう、お兄さん……」

 冗談めかして男はそう言ったが、目が笑っていないようにネームレスには見えた。ネームレスは歩きながら、男の胸元のエンブレムと共にネームバッジをそれとなく確認してみた。木崎、と書かれたその名を確認し、やはり何も思い出せるものはない事に落胆を覚える。

 それから、更に視線を下へと落としてみた。

「……」

 木崎、というその男の拳――ライトを持っていな方の片手に血のようなものが滲んでいる。何かで切ったような痕跡が見受けられ、何となく彼に抱いた違和感が自分の中で膨れ上がっていた。

「でもさー、おにーさん……」

 しばし足を進めていたベイビードールだったが、ぽつりと呟くようにして吐き捨てたかと思うと歩行を止めた。連なるように、ネームレスも、前を行っていた木崎も立ち止まったのが分かった。ベイビードールの顔は、くすっと堕天使の笑みに切り替わっていた。

「生憎だけど俺、女じゃないんDEATH★」
「え?」
「残念でしたーっ、チンコもタマも二つちゃんとついてまぁーす! カワイイ男でごめんねー!……って事で、先手必勝ぉ!!」

 ベイビードールが、勢いをつけてブーツの爪先を蹴り上げた先は男の急所。いわゆる、金的である。ちょっとコツン、とされるだけでもHPが半分は削り取られるあの、男にしか分からない恐怖の一手。――いや、テレビなんかじゃ面白おかしく放送するけれども、あれは下手すると、死を招く。

「!?」

 いくら記憶喪失になったと言えども、本能からなのかネームレスにもなんとなーくその恐ろしさが伝わってきてしまい、まるで自分がそこを蹴り飛ばされた気持ちになった。思わず顔をしかめ、それから自然と股間に力が籠る……って、こう書くと何だか変な意味に受け取られそうだが。ベイビードールの作戦としては、彼からまず自由を奪う。鍵を奪う。そして道案内させ、自分達の情報を聞き出す。そんな流れか――いやいや。

(穴だらけもいいところだ、こっちには信用しろなどと言っておきながら何てアバウトな作戦だろうか。いや、作戦と呼ぶのも恥ずかしくなるくらいだぞ。それ)

 哀れむように青年――木崎の方を見ると……ネームレスはそこでハッとなったよう肩を竦めた。様子がおかしいのは木崎ではない。むしろ、ベイビードールの方だった。

「そうか。だったら、俺も安心して手を上げられるね。……流石に女の子の顔やら身体を殴るのは抵抗があったよ。痣や傷が残るのは良心が痛む」
「金的が……効いて……ないの……?」

 ベイビードールが乾いた笑いと共に見つめると、彼のブーツの先が木崎の太もも辺りでがっちり挟まれて食い止められており、生憎狙いには届かなかったらしい。――当たり前だろう。男にとって最大の急所ともいうべきそこを、戦い慣れた相手が簡単に許すわけもない、のに。

 ベイビードールが「ちきしょう! 離せ、こんのぉ」とその足をひっこめようとするや否や、木崎は器用にその足を挟んだままベイビードールの小柄な身体を巻き込んでの投げ技を見せた。柔道の技のように見えた、そうか――警察官になるには剣道か柔道が必修科目だったな。

 両脚で逆に横手に投げ飛ばされたベイビードールは、スカートがめくれるのも憚らずに転がるとすぐさま受け身を取って起き上がった。

「……今のその行動は、俺へのゴングと見なしていいわけかい? 女男くん」
「ち……ちっきしょーめ、やるなアンタ……」

 悔しそうに顔を上げたベイビードールだったが、果たしてこれは――いや、あまりいい状況ではない、のでは、ない、だろうか。