#5-3

 小学校三年生の時、タチの悪い奴として有名な悪ガキに買ったばかりのゲームを奪われた事がある。新品は流石に手の届く額ではなかったので、中古品を溜めたお年玉やお小遣いをはたいて何とか購入した。……が、結局そのゲーム機は自分の手元に返ってくる事はなく、後から聞いた話によるとリサイクルショップに売り飛ばされてしまったとの事であった。

 しかし、そんな事件があってから一か月後、悪ガキは目の上に一つ青痣を作り、更には腕を骨折でもしたのかギプスをし、非常に痛々しい状態で登校してきた。彼は何かに怯えるような顔つきで、きょろきょろと周囲を見渡しながら、そそくさと自分の席に大柄なその身体を乗せた。たまたま身体の調子でも悪いのだろうと思っていたが、そうではなく自分に対して怯えていたのだと気付いたのは、三時間目の体育に入る頃合いだった。

 その日の体育の授業はドッジボールで、きっと彼の事だから大喜びで自分に投げてくるものだろう……とちょっぴり憂鬱になりもした。彼の理不尽な暴力がいつ来るか、いつ来るか――と縮こまっていたこちらの予想を裏切り――いや、裏切る。というのも変な言い方だ。期待なんかしていないのだから――彼は目も合わそうとしなかったのだった。

 逆に薄気味悪くすら思えてしまい、給食の時におかずをよそっていた彼にそれとなく用事を作って話しかけてみた。その日のメニューであった野菜炒めのピーマンが苦手だから、少し減らしてくれ、みたいなくだらない話を。するとどうだろう、彼は少し怯えた様子で「分かった」と呟き、今までに見た事も聞いた事もないような表情と声と丁寧さで、トレーにおかずを添えてくれたのであった。

 胸に妙なしこりを残したままで帰宅すると、家のテーブルに新品のゲーム機が置かれていた。自分があの悪ガキに奪われたものとは違うカラーリングではあったが、驚いてこれはどういう事なのか母親に尋ねてみた。

「お父さんがね、貴方がゲーム機を失くしたって泣いてたから――」

 思えば、こういう事はたびたびあったのだ。
 例えば自分が誰かに虐げられ、泣きべそをかきながら帰ってくると決まってその翌々日くらいからはぴたりとそれが収まる。自分に心無い言葉を浴びせた者は、大人しくなるか、今日の悪ガキのように近づきもしなくなる。

 他にも、少し意地悪な中年の女教師がみんなの前で計算式を解かせた時。途中式でつまらないミスをしたところ、彼女はそれを延々と責め続け、まるで見世物のように説教をした後に自分を廊下に立たせた。その教師は、一か月経つか経たないか、そのくらいの時期に『親の介護に入る』との理由で急遽学校を去った。

 またある日は、中学に上がった頃。
 何故目をつけられたのか分からないが、まあ何かくだらない理由で自分が通り過ぎるたびにひそひそ話をしたり、足をひっかけようとしたり、制服を切りつけてくる意地悪な女子生徒がいた。彼女とは小学校は別者同士だったが、昔からきつい性格で有名でたびたび問題を起こしていたそうだ。
 喧嘩っ早い性格の少女で、中身同様に負けず見た目も勝気そうで派手な女の子だった。中学生にしながら化粧をし、校則違反のスカート丈と指定外のカーディガンからも分かるように非常に目立つ存在であった。そんな彼女と同じクラスになり、ある日は転ばされた後に背中を踏まれた。
 真っ黒の詰襟の背中には、灰色の靴跡が残っていて彼女はそれを見てケタケタと大笑いした。制服を切られた時は、袖の辺りを少しカッターで裂かれた――というのもおこがましいくらいの、猫のひっかき傷程度の大きさのものだった為に「転んで」と言い訳できたものの、流石に背中にくっきりと残る足跡はうまい理由が思いつかない。
 手で払ったり、水道で洗ってみたもののその痕跡を消し去る事はできず、結局母親に気付かれ、それが何かを答えるまで部屋に戻り勉強する事すら許されなかった。

「他には?」

 母の神妙そうな顔とぶつかった。え、と不思議そうに顔を上げると、母は随分と据わった目つきのまま静かに問いかけていた。関係ないが、母は家ではほとんどどいっていいほどに和服を着ている。父がそう命じているらしく、また母も他所との付き合いでの交流に出向く場が多いだとかで母が世の主婦が着ているような、ラフで活動的な服装をしている姿は見た事がなかった。

「他には何をされましたか?」
「……え……」
「皆の前で転ばされ、制服を切りつけられ、くだらないあだ名をつけられ、悪口を言われ――他には何をされたか、今ここで母に全てお話しください」

 怖れからではなく、只……日頃からの鬱憤とストレスもあったのかもしれない。先日、その女子生徒から、気になる別の女子生徒の前で「あいつ今、サチコの方エロい目で見てたぜ」なんて言われた事、音楽室の机の上に自分の名前と全く接点のない女子生徒との相合傘や心無い中傷と卑猥な落書きをされていた事(筆跡がまるまる彼女で、恐らくその取り巻きの生徒らだとすぐ分かった)。
 そういった出来事を次々と思い出し――つい、間が差した。

「……一週間ほど前に、お金を持って来いと言われました。金額は一万円です。それは出来ません、生憎お小遣いをもらっている立場じゃないので持ち合わせがないのです、と丁重に断ったところ、教材を買うからと嘘をついて親からせしめてこいと言われ腹を殴られました」
「――、何という……」
「それでも無理だと断ると、もっと手酷く虐めてやるから覚悟しておけと言われました。それがつい、先程の話です。背中の足跡はその時に蹴られて……」

 ある事ない事、話を『大袈裟』にしてしまったのだった。つい演技にも身が入り――いやいや。演技、とは相応しくない。不快な思いをしていたのは本当なのだから――男でありながら情けなく涙を流し、鼻をすすり顔を伏せる自分の姿を見て母はどう思ったのだろう。いや、可愛い一人息子がそのような目に遭わされてると知り、怒りの炎に打ち震えていたに違いない。

 制裁はとても早かった。

 翌日はいつものように、彼女とその彼氏、友人らによる悪ふざけからの軽い暴力を受けたがそれさえも快感に取って代わり、いつしか殴られながら微笑みを浮かべていた。自分には、約束された絶対の勝算があるからだ。

「何だこいつ、笑ってやがる! きも」
「殴られすぎてバカんなっちゃったの?」

 一週間も経過しないうちに、まずは取り巻きの男子生徒が(こういうタイプが一番厄介だったりする。自分を誇示する為に、すぐに容易に手を上げたり罵ったりしてくるからだ)学校へ現れなくなった。
 理由は交通事故で入院したからだった。
 授業中、気に入らない事があると奇声を上げて暴れ、机を蹴ッ飛ばし、教師に文句をつけ何かと妨害する彼が排除されて皆もどこか嬉しそうですらあった。

 二日目、今度は二人同時に学校から消えた。
 一人は『熱が出たから』と連絡が入ったきり、もう一週間も二週間も席を空けたままになった。二人目は、父親が突然逮捕されたのを理由にしていわゆる登校拒否児となった。元々、警察からマークされていて、逮捕状が公のものになったそうだ。ちなみにその内容は、『女子トイレの盗撮』。罪状が罪状なだけに、恥の上塗りだろう。

 三日目、主犯の女子生徒の彼氏が他校のヤバイ連中から呼び出しを食らい、河川敷でリンチに遭い入院した。端正な顔立ちだったが、見舞いに行った者の証言によれば腫れと陥没のせいで見れたものではなかったとの事である。二度と健常者としての生活はできないだろう、との話だった。

 そして四日目。主犯格の女子生徒にも、とうとう裁きの鉄槌は下された。それは元より、彼女の為だけに用意されていた結末のようですらあった。彼女は未成年でありながらクラブ通いが日課だったようで、その日の晩も彼氏の見舞いの後に夜の街へと遊びに繰り出した。クラブでナンパしてきた見目のいい男についていき、男に言われた通り友人を先に帰らせ、そして連れ込まれた車の中で一晩中かわるがわる色んな男に暴行された。その一部を聞いただけで、顛末はあってないようなものだと感じた。

 自分のやった事に罪の意識など微塵も感じていない。
 刻まれた暗黒を少しばかり、彼らに分け与えてやっただけの事だった。何より、これしきの事で彼らの世界は砕けないのかもしれない。自分が考えているよりもその絆が強固なもので、揺るぎのない確立されたものなのだとすれば、自分がやった事は復讐にも満たない単なる茶番劇なのだ。

 けれども、彼女達の今度に思いを馳せずにはいられない。

 悲しみと憎しみと、絶望に絡めとられて涙を流すだろうか。夜が来るたびに、朝が来るのを恐れ慄くようになるのだろうか。治る見込みのない怪我を負わされた男子と、彼氏がいながら顔のいい男についていき挙句輪姦された女子を見て、周りは何と思うだろうか。蔑むだろうか。それとも哀れむだろうか。まあ、どちらでもよかった。
 そんな彼女らの今後を好き勝手に想像すると、凶暴な思いに心が支配されるのを止められなかった。――風の噂によれば、どこかのエロ動画サイトにて『これはやばい! 女子●学生のガチレイプ中継!』と俗っぽい見出しと共に、薄暗いワゴン車の内部で泣き叫ぶ女の子の動画が流通した。とにかく画面が暗く、更にはカメラがぶれまくり、何が何だか分からない為か低評価が殺到していたものの……。




これ本物じゃね?wwww
女ぶっさ!!!!1111
迫真の演技に草も生えない
いやマジでふざけてないで通報したら?
中学ん時の同級生にクッソ似ててびびった
きたない
女がやかましすぎて抜けないんですけお……

ヤバくね????
通報しますた
ネタバレするとこれはフェイク。関係者から聞いたからガチ、本物ってのはガセ



 本物か偽物か、検証するまとめサイトまで立ち上がる事となり、いつしか名前も住所も特定され、過去から何までを全て暴かれ、ある事ない事全てをネット上に書かれ――。
 彼女はその存在を抹消されたも同然だ、との話だった。

 彼女が学校へ現れなくなってからも、父と母は変わらず自分に接してくれた。

「最近、学校はどうだ?」

 夕食中、父がはんぶんだけ微笑みながら問いかけてくる。おかずの焼き魚を箸でつまみながら、「楽しいです」とだけ答えると、満足そうに父はまた一つ微笑んだ。

 高校へと上がる頃には、そんな自分の噂も一人歩きし、イジメどころか友人さえもできなかった。県内ではトップクラスとされる進学校へと入ったのもあり、そこまで酷い荒れた人間などいないだろうとは思いつつ、どこにでもおかしな人間ってのは存在するらしい。入学した高校にも、いわゆる不良みたいなのはちょこちょこといたようなのだが、そんな存在ですら自分に恐れをなして道を譲るのだ。

 それは決して自分への尊敬の念や賛美からくるものではなく、「関わってはならない」という本能から来る警鐘のようなものであろう。自分よりも数倍図体の大きな、ボクシングをやっているようなゴロツキのような見た目の生徒でさえも視線一つで震え上がらせる事が出来た。

 学食へと入ると、皆が慌てて席を立って出ていくので食堂がほぼ無人も同然となった。なので、一人で席に着き、それからゆっくりとした時間を楽しんでいた。その日も変わらず、自分が入室した途端に、お喋りをしていた女子生徒らがすぐさま立ち上がり席を離れ、また別の男子グループは食べかけにも関わらず食器のトレーを持ち逃げ腰で歩いていき、また別の男女混合グループは顔を青ざめさせて同じく逃げるように立ち去って道を譲るのだった。
 
――だが、その日ばかりは、いつもと少し様子が違っていた。いつも座るテーブル席に、腰かけたままの女子生徒がいるのだ。普段なら有り得ない光景に、思わずトレーを持ったまましばし硬直してしまった。

「……、俺は今からここで昼食を食べるつもりなんだけど」
「だったら何かいけない? 別に、ここはみんなのスペースでしょ?」

 あんぐりと口を開くこちらをよそにして、その女子生徒はけろりとした様子で聞き返してきた。ごく当たり前の事ではあるが、日頃の自らの素行を顧みると信じられない言葉だった。余程度胸があるのか、それとも無知なだけなのか、再び彼女に目を移した。

――佐竹櫻子

 彼女は、同学年の女子生徒らの中でもひときわ目を惹く美人だった。自分も全く興味がないわけではない。一目見て、彼女から目を離せなくなる者も多いと聞いたがその理由がよく分かる。 

 改めて櫻子の顔を正面から見て、その整った目鼻立ち、大人びて上品で、それでいて気取った嫌味さのない優しげな顔立ちに心を奪われる。化粧はほとんどしていないようで、リップクリームと大差なさそうな薄いグロスだけがはっきりそうだと分かるくらいか。
 眉毛は気持ち他の女子らよりも太めであるが、決して野暮ったくはなく今風に整えられている。その下に輝く、無邪気さの奥に儚さと昏い翳りを宿す瞳。やや血色に乏しい白い肌がどこか薄幸な印象をこちらに残す――しばらく彼女に目を奪われたように呆けていたが、慌てて意識を揺り戻す。

 櫻子は学食で頼んだのであろうオムライスを頬張りつつ、もう片手にはカバーのかけられた文庫サイズの本を読んでいた。食事中に案外行儀が悪いと思いつつ、それさえも無邪気だと笑って許せそうなのはやはり彼女の事を悪く思っていない、動かぬ証拠なのかもしれない。

「私、窓際のこの席が好きなの。ここで本を読みながらゆっくりご飯を食べるのが楽しみなんだから」

 悪びれもせずに微笑む櫻子は、他の人間のように席を立つ気配もなく、まして自分もどこか別の場所に移動するでもなく。結果、同席というか――向かい合う形で何となく腰かけた。ほとんど無意識のうちの行動だったかもしれない。何となく、うっすらとだがこの一人の女子生徒への興味が沸いていたのもあるのかもしれない。

「……その割には今までここで出会った気がしないな」
「いつも来ているわけじゃないもの。けど、貴方がいない時は毎日こうやってここにいたわ」
「――なるほど、ね」

 納得したわけではないが、櫻子がそういうのならそうなんだろう――と、今は思うしかない。事実、学食へ足を運んだのは久しぶりの事で、何だか急にこのカレーうどんが無性に食べたくなったのもあった。正直特別美味しい代物ではない……とは思うが、何故か思い出したように食べたくなった。割り箸を割りつつ、湯気の立った汁の中に箸を突っ込んだ。

「お前、知らないわけじゃないんだろう。俺の事」
「何が?」

 平然と聞き返す櫻子の顔からは一切悪意のようなものは感じられなかった。不思議そうにそのはっきりとした眉を上げ、構わず食事を続けていた。

「俺の噂だよ」
「?」
「俺に関わった奴は大概みんな不幸になる。見てみろよ、ここに俺が入った瞬間明らかに空気が変わったのに気付かなかったか? 見渡してみろよ、誰もいない。厨房にいる連中の顔つきも明らかに異質なものだろ、どいつもこいつも見て見ぬふりをしていやがる」

 櫻子はそれを聞いても別段興味を持っている風でもなく、あっさりと「ふうん」と受け流した。自分の話をして怯えなかった女は、これが初めてだったかもしれない。何としてでも降伏させてやりたいという闘争本能のような思いが頭をもたげ、つい躍起になったように次の言葉を紡いだ。

「俺が周りから何て呼ばれているか知っているかよ」
「全然?」

 呼んでいた文庫本から顔を上げ、櫻子がゆったりとした口調で返した。

「“教室の死神”だってさ」
「何、それ」

 すかさず櫻子は可笑しそうに笑い、緩んだ口元を指先で押さえた。白く綺麗な指先に目が行き、透明な笑顔と嵩んで目が眩みそうになった。くすくす、と櫻子は唇を上げ、無邪気に微笑んでから再びこちらを見つめた。

「そういうの、好きなの?」
「何が?」
「人に怖がられたり、避けられたり、そんな風にあだ名をつけられたりするのが」

 彼女の視線はこちらにしっかり向けられていた。

「……まさか。流石にそれはないけど」
「じゃあ、どうして何も知らない私まで追いやろうとするの?」

 それは何か責めたり軽蔑したり、こちらを咎めるようなものではなく、只不思議に感じている事を口にしただけといった調子であった。

「――だって怖くないのかよ。アンタも、気付かないうちに巻き込まれてもし何か起きたらどうするんだ?」
「その時はあなたが私を守ってくれればいいじゃない」

 肩を竦めながら、櫻子がスプーンを置いてゆっくりと呟いた。意味、というか意図が飲み込めずに、啜りかけのうどんもそのままにして彼女を見つめていると、その姿が可笑しかったのか櫻子はまたクスクスと笑った。

「うどん、口から出てるよ」

 可笑しそうに言い、櫻子はこちらを指差してまた一笑を浮かべた。慌てて食べかけていたうどんを啜ると、そうしている間に彼女は食事を終えたトレーをまとめて立ち上がった。手元の文庫本を持つと、櫻子は通り過ぎ際にこちらに向かって微笑みかけながら言った。

「じゃあね、死神くん。またどこかで一緒になれたらいいね」

 意味深な彼女の言葉に、何かを期待する程の純粋さは持ち合わせていない。けれど、その眩しい笑顔はいつまでも胸に刻まれたままで燻る事はなかった。
 きっかけやなれそめなんて、第三者からすればくだらないものに過ぎないんだろう。彼女とのその些細なやりとりが自分にとってどれほど真新しく鮮明なものであるかなど、説明したところで誰かに分かる筈もないだろう。

 佐竹櫻子とはそれ以来、校内で会う時も軽く挨拶をかわすような間柄になっていた。廊下ですれ違った時や、別の教室でたまたま居合わせた時など、彼女の方から何らかのコンタクトを取ってきた。
 櫻子はその容姿にしたってそうだが成績優秀なことも手伝ってか他の生徒達からも男女問わずに人気があるようだった。自分とは違い、彼女の周囲には常に誰かしらが存在していた。そんな彼女の『特別』になりたいだなんておこがましい感情は決して抱かない。只、時々こうやって会話が出来たらそれでもう十分だと思った。――只、それだけで良かった。

「最近、何か楽しい事でもありましたか?」

 父親が不在の夕食の時、母がそんな風に尋ねてきた事があった。顔を上げると、いつもと変わらぬ装いの母がそこにいた。何故かその存在感に威圧され、別に後ろめたい事があったわけでもないのに一瞬息を飲んでしまった。

「――変わらず楽しい学校生活を送っています」
「そう。ならば良いですわ」

 しかし妙だった。
 どうしてこの人は変わらずこう、気丈な態度を崩さずにいれるものか。父は外に若くて美しい愛人を何人も囲い、今日も夕食へは姿を現さない。それが日常化していて、母はそれにずっと気付いている。気付いているが、知らないふりを貫き通しているのだ。

「……母さんは良いのですか?」
「え?」
「父さんの素行に不満はないのですか」

 その日、初めてであった。そんな風に母に父との関係について問いただしたのは。息子から恐らく自分にとっては最大の禁忌であろう、目を背けてきた事実を口にされ一体何を思ったのだろうか。母はすぐには何も答えなかったものの箸を持ったまま、しばらく喜怒哀楽のどれにも属さない表情でこちらをじっと見つめていた。

「あのお方は、母さんという人がありながらまた別の存在にもうつつを抜かしております。そんな事が許されていいのか自分には到底理解が――」
「お黙りなさい」

 静かに威圧するような声が飛び、同時に母は箸を食卓の上に叩き付けるようにして置いた。

「あの方は今まであなたが幸せに暮らせるよう、最低限の務めは果たしてきているでしょう。貴方がここまでを無事に過ごしてきたのは誰の為だと思っているの?」

 母の顔を見て、はたと気付いた。――ああ、この人は怯えている……自分が日に日に老いていく事、若い頃の美しさを失い、いつか父に捨てられるのではないかという恐怖に――紛れもなく母はそれでも父の事を愛しているのだ。いや、愛しているかどうかは分からないが、彼から興味を失われる事に怯えている。

 夕食を終え、ふらふらとした足取りで父の書斎へと赴いた。普段はそこへ立ち入る事が禁じられている。鍵をかかっているのがほとんどだが、その日はまるでそうする事を仕向けられたかのように半分だけ扉が開いた状態で自分を迎えていた。

 何故か櫻子の姿を求めるよう、ドアノブを開き、十数年この家にいながら初めてその部屋へと入る事が叶った。小難しい本が並ぶ棚を見送り、革製のソファー、埃一つとして乗っていないガラステーブルに、閉め切られたブラインド。どこかの社長室を思わせるような、部屋そのものが厳重な重圧感に満たされたその空間で、パソコンや作業用の資材が置かれたエグゼクティブデスクへと足を動かした。まもなく辿り着いた。引き出しを開いた。

「……これは……」

 几帳面な父親からは考えられない程乱雑に突っ込まれた、中身のはみ出たファイルや茶封筒。ぐしゃぐしゃに丸められた用紙。続けて引き出しを順番に開けると、信じられないようなものが次々と姿を見せた。いわゆるSM用のグッズというのか、奴隷につけるようなトゲのついた首輪や何らかの錠剤、赤色のロープ、名称などは知らないが手枷や猿轡のような何か。それらはまだ笑って済ませられそうだが、次に開いた引き出しに詰められていたのはほとんど拷問具に等しいものたちだった。

 思わず息を詰まらせた。それらには全て変色した血の跡があり、使用の痕跡が認められたからだ。注射器や浣腸器のようなものも、ごちゃごちゃと、まるで小学生がおもちゃでも片付けたかのような雑さで詰め込まれているのも気味が悪かった。

 視線は最初に見たファイルや封筒へと戻っていた。震える手でそれを手にした。見てはいけない、と自らの中で警鐘が促されたが、背後で何故か櫻子の声を聞いたような気がした。理由は分からない。だが、彼女の幻が耳元で囁いた。

『見て。目を逸らさないで、ちゃーんと見て。何が真実? ちゃんとその目で見定めるの』

 しばし固唾を飲んでると、僅かに開いたままの扉から声がした。同時に、扉が軋んで開く音も。

「最近、あなたに近づいて来る小便臭い小娘がいるでしょう」

 分かり切っていたが、母親の声だった。
 無視して、先を急ぐようにその封筒の中身を開いた。中から出てきた写真には、父の愛人と思しき若い少女らが被写体として収められていた。どれもこれも情事中のものだろう。性行為に励んでいる中年の顔と、父の普段の顔を思い浮かべてみた。思わず口元を押さえた。少女たちはどれも自分とそう変わらないくらいの年代、或いはそれよりももっと下かもしれない。下手をすると、月経もまだ訪れていないような面立ちの世代もいた。