昨日、人生で初めて人魚を助けた。家の近所にある海岸に打ち上げられているのを見つけたのだ。座礁したマーメイドを目撃し、絶句していた僕を前に、彼女はか細く水を乞うた。柄杓一杯分だけでも、という彼女の声に、僕は咄嗟に踵を返す。逃げるためではなく、近くのコンビニで水を買ってくるために。
安いミネラルウォーターを浴びた人魚は、無事に海へと帰って行った。浅瀬に迷い込んでしまって、もうダメかと思っていた。本当にありがとう、あなたは命の恩人です。心底嬉しそうに感謝を繰り返す声が、今でも耳に残っている。いっとう朗らかな笑顔を見せて、とぷんと水底へ消えた女。彼女はちゃんと、自分の住まいへ帰れただろうか。
ふと気になって、件の場所へ歩くこと数分。果たして人魚はそこにいた。昨日と違うのは、きちんと海で泳いでいたことだ。帰ったんじゃなかったのかい、と思わず話しかけると、彼女は待ってましたと言いたげな顔をする。そのまま、手を出してくれと付け足して。言われるがままに両手を差し出せば、小さな瓶が手のひらに乗せられた。さんご色の砂が入った、素朴な瓶。人魚曰く、海難避けのお守りらしい。せめてもの恩返しがしたくて持ってきた、と。なるほど、ありがとうと僕も笑う。次いで、そこはろうそくではないのだな、と言おうとしてやめた。
昨日は本当にありがとう、優しい人。どうかお元気で。口を噤んだままの僕に対し、彼女は一言二言を残して、再び海へと潜っていく。ふわっと吹いた潮風に、手の中の小瓶がころりと転がった。