「駒沢」

授業中、ぼんやりと外を眺めていると、名前を呼ばれた。
おそらく何度も呼んだのであろう。顔を上げると、眉間にしわを寄せた先生が、こちらを見ていた。先生だけではない。クラス中の注目が私に集まっていた。

「何べんも呼んどるで。次のページ読んでくれ」

先生はそう言った。それくらい、小学生にだって簡単にできる。けれど、私はそれを断った。

「……読めません」
「何?」

教師は怪訝そうに眉をひそめる。教室のどこかから、くすくすと小さな笑い声が聞こえた。

「二十七ページが消えてしまいました。だから読めません」

その瞬間、笑いがおこった。私の事情を知っている人は、いつものことだから失笑。私に関わっている人は、私が恥をかくと思っているから嘲笑。私の事情も知らなくて、関わってもいない人は、私が何を言っているのかわからないから爆笑。さまざまな笑いを、カテゴリーに分けることができた。

笑ってんじゃあないわよ。
心の中でつぶやく。なぜ、こんな辱めを私が受けなければいけないのか。いくら考えても答えは見つからない。
私はもう誰の顔も見たくなくて、ページの消えた教科書を、ただ見つめるしかなかった。

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「さすが駒沢さんやね。東京から来たから勉強進んでるし、教科書いらんてこと?」
「せやけど、授業止めてしもたら、うちらがもっと遅れてまうわー」
「それめっちゃ困るわぁ。駒沢さんの高度な話に追いついていかれへんしぃ」

帰ろうとしていたら、またあの三人組につかまってしまった。そして私はそのまま、人気のない東階段の踊り場まで連れて行かれた。教科書のページを破いたのも、彼女たちの仕業に違いない。違いないのだけれど、証拠は何もない。

靴を隠されたときもあった。体操着をゴミ箱に捨てられたこともあった。そのときも証拠は何もなく、今みたいに嫌味を言うだけだ。

なんで私だけがこんな目に。
悔しさに私は、カバンの取っ手をかたく握りしめる。

「何やの? さっきから」
「うちらとは話す価値もないてこと?」

そうよ。分かってるじゃない。
彼女たちの嫌味は今に始まったことではないが、腹が立って仕方がない。本当は相手にしないで、黙ったままでいるのが正解なのだろうが、すでに私の精神は屈辱には耐えられなくなっていた。

「……こうしている時間が、一番無駄だってわからないの?」

私がそう言うと、一人は大げさに顔をしかめ、

「はあ?」

と声を荒げる。表情を変えずに、私は続けた。

「私にかまってほしいならそう口で言いなさいよ。まあ、相手にするかどうかは知らないけど」

一息にそこまで言って、しまったと思った。彼女たちの顔が、見る見るうちに真っ赤になっていく。憤怒の表情を浮かべ、私のほうへと歩み寄ってくる。

「あんたねぇ……」

一人が手を振り上げた、その時だった。

「あいた、いじめ現場発見ばい」

上のほうから、声が降ってきた。見ると、階段の手すりから頭をのぞかせた、くせ毛の男子生徒の姿があった。推測だが、二メートル近くはあるだろう。かなりの長身の男だった。
彼のその声があまりにも淡白なものだったため、私たちは呆気にとられてしまう。

そのまま立ち去るのかと思いきや、彼は手すりに頬杖をついた体勢で、こちらを見下ろしている。自分の立場も忘れ、ぽかんと口を開けたまま彼を見つめる。彼女たちも同じだった。

「うん? どぎゃんしたと?」

天然なのだろうか、それともただおちょくっているだけなのだろうか。よくわからない。
どうして止めるの?
そんなニュアンスが彼の言葉には含まれていた。

「なぁ、あの人て……」
「……やんな」

彼女たちはこの男を知っているらしい。ひそひそと囁き合うと、まるで示し合わせたかのようにそそくさと逃げていった。

「……逃ぐるとぁ、卑怯もんばい」

なぁ、と彼はこちらに向かって言った。方言が強すぎて何を言っているのかは分からないが、どうやら同意を求めているらしい。
なんなんだこの男は。
あまりの展開の速さに、私の頭は追いつかない。

そんな私にはお構いなしに、男は

「喧嘩はようなか。仲良うしなはり」

そう一言残し、くるりと私に背を向けた。そこで私ははっと我に返る。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
「おっ!?」

男の制服のすそを引っ張って、無理やりに止める。わざとらしいくらいに大きくのけぞって、立ち止まった男はこちらを向いた。

「なんね?」
「……さっきの、誰かに言ったら殺すからね」
「さっき?」

あくまでも白を切りとおすつもりらしい。男のその態度に苛立つ。叫ぶくらいの勢いで続ける。

「いいから! 私の言うこと聞いて! ええと……」

そう言えば、男の名前を知らないことに気付いた。この学校では、上履きに名前を書くことになっている。男の足元を見ると、やはり名前があった……のだが。

エリカ?
彼の履いている上履きには、そう名前が書いてある。
男のくせに女みたいな名前。今はそういう時代なのかもしれない。でも、それにしたってこんな大男がエリカだなんて。なんとまあ、似つかわしくないことだろう。

「どげんしたとね?」
「……」

この学校はおかしい。変だ。生徒にしたって、教師にしたって、個性が強すぎる。

私はもう何も言う気になれなくて、くるりと踵を返すと、振り返ることなくその場を去った。

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翌日、私はエリカが約束を守っているかが気になって、彼のことを探した。けれど、エリカは見つからなかった。一年生に一人だけいたエリカは、同じ名前というだけであのエリカとは似ても似つかない。
私は話しかけることをせずにそっとその場を離れた。


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