精市と目が合い、ぎくりとした。この光景を、いつだったか見ていたような気がする。先に口を開いたのは精市の方だった。

「久しぶりだねめぐみ。もしかして、また脱走?」
「……」
「フフ……可笑しいよね」

そこにいたのは私の知っている精市ではなかった。口調こそ穏やかなものの、その異様な雰囲気に私は思わず後ずさる。

「この学校を作ったのは俺なのに。一緒に逃げようなんて……アハハッ!」
「え?」

狂ったように精市は笑い出した。意味が分からずに聞き返すと、精市にじろりと睨みつけられる。すると、ぴたりと笑い声がやみ、殺意のこもった瞳だけが残された。

「誰も……誰も逃がすもんか……! ここから……誰も……!」

精市はナイフを取り出し、それを私に向ける。彼は本気だ。私はその場に立ちすくんでしまい、逃げることが出来ない。ゆっくりと私の胸目掛けて、ナイフが振り下ろされるのを見ていた。誰かが私の名前を呼んだのが聞こえた。

胸にナイフが刺さる、その瞬間に目を閉じると、後ろからパンッという何かが弾けるような音がした。

恐る恐る目を開くと、どこにも怪我はなかった。何が起こったのだろう、と辺りを見渡すと、目の前で誰かが倒れているのに気付く。精市だった。

「な、なんで!? 精市! しっかりして!」
「……大丈夫だよめぐみ。眠らせただけだから」

その声の通り、精市は眠っているだけだった。その姿を見て私は安心する。

「ごめんな。精市は悪くないのに……こんなことになって……」

彼は精市をそっと横たわらせた。見ると彼の目には涙がにじんでいる。

「みんなもそうだ。ごめん……全部俺の所為なんだ」
「……?」
「でも、大丈夫。俺がちゃんとみんなを元の世界に戻してみせるから」

意味が分からずに私は訊き返す。

「……何言ってるの、ジロー?」

ジローは悲しそうに微笑んだ。

「ここは俺の夢の世界。全部俺の作った、理想の世界なんだ」

ジローの言葉に戸惑ってしまう。それはみんなが同じようで、誰もが疑問の表情を浮かべているが、ジローは気にせずに続ける。

「本当の俺は病院で眠っている。交通事故にあって意識不明になってるからね。そして、めぐみと俺は双子の姉弟なんだ……思い出した?」

その瞬間、ゆらりと世界が揺れる。

無機質な灰色の空気が流れ、ベッドの中でジローが眠っている。
その柔らかい髪を撫でているのは私。

オレンジ色が広がる教室で、夕日に染まりながら日が暮れるのを待つジロー。
眠り続けるのは私。

晴れた日の空よりも青い日が落ちた空の下。返事をすることも出来ない彼は、機械に繋がれたまま生きている。それをただ呆然と見つめるだけの彼女。

それが現実の世界のジロー。
それが現実の世界の私。

ジローは優しく微笑むと「思い出してくれたんだね」と小さく囁く。その声に私は思わず涙ぐむ。

「この学校の脱走の伝説を作ったのも俺。あれは全部嘘なんだ。外には何も無い。脱走に失敗した人の記憶を入れ替えたのも俺。めぐみは別の人格、精市は俺の代わりとして記憶を入れ替えた。そして精市は隔離しておいたんだ。他の人と接触して色々と問題が起きると困るからね」

淡々とジローは今までのことを説明した。きっと彼も限界だったのだろう。「もういいよ」と優しくジローの頭を撫でる。指の間を通り抜ける、柔らかい髪の感触が気持ちよかった。
きっと今もこうして、現実の私はジローの髪を撫でていることだろう。

「俺、最低だよな」

吐き捨てるようにジローが言うと、私はその言葉に対して首を振る。みんなも同じだった。それは嘘でもお世辞でも何でもなくて本当のことだった。

「ホントに最低だったらずっと黙ってるぜ。お前はちゃんとホントのこと言ったからすげぇよ。えらいよ」

ブン太のからかう様な口調に、ジローは微笑んだ。

「みんなもう行かなきゃ。もうすぐこの世界は崩れてしまう」
「えっ」
「みんながこの世界の仕組みを知ってしまったからね。ここから逃げなきゃいけない」

ジローは部屋の奥にある、もうひとつの扉を開ける。そこには大きな穴が開いていて、トンネルのように先が真っ暗だった。それが何処かと繋がっているようだ。

「なるべく早く遠くまで行って。俺はここでみんなが逃げるまで、この世界を支えてるから。正直しんどいけどみんなが元の世界に戻るまでは持ちこたえてみせる」
「でもそれじゃあジローが」

ジローが逃げられなくなってしまう。
そう言いかけた私に、ジローが答える。

「俺は一緒に行けない。俺まで一緒に行ったら、戻る前にこの世界が崩れてしまうんだ」

それがどんなに最悪なことなのか、私たちはよく分からないが、元の世界に戻れなくなると言うことなのだろう。でも、と渋る私たちに、ジローは優しく言い聞かせた。

「大丈夫。俺たち、また会えるよ。絶対会える。この世界での記憶はもう無いけど、でも絶対また会えるよ」

記憶が無くなる、と言われて悲しくなった。
せっかく会えたのに。
せっかく私たち通じ合えたのに。

けれどもジローのためにはその方がいいかもしれない。私たちは何とも思って無くてもジローは苦しむだろう。苦しみながら生きることが無くなるのなら私の記憶なんて、と自分に言い聞かせる。胸はまだズキズキと痛む。

めぐみ、とジローが私の名前を呼んだ。振り向くと優しく微笑んだジローと目が合う。

「俺……ずっとめぐみのことが好きだった。今も好きだよ。でも言えなかった。怖かったんだ。ずっと言いたくて、でも言えなくて……ホントに、ホントに好きなんだ」

突然の告白に少しだけ驚くが、真っ直ぐで純粋な想いが嬉しくて涙が出てきた。私はそのままジローを抱きしめる。体温が暖かい。ジローが生きている。そのことが嬉しかった。

「……ありがとう」

私は小さく呟く。きっとジローにしか聞こえない。でもそれでいい。私はジローだけに言ったのだから。

私の双子の兄のジローと、夢の中のジロー。
時を飛び越えて届いた約束を私はきっと忘れない。忘れてしまったとしても必ず思い出してみせる。

そして私は現実に向かって走り出す。


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