「めぐみ、一緒に逃げるぞ」

ブン太がそう言って、私の手を引く。突然そんなことを言われ、訳が分からない私は思わず訊き返す。

「な、何? いきなり。逃げるってどこへ?」
「……わからない」
「え?」

立ち止まったブン太の表情は暗い。そのままの表情で、ぼそりと呟いた。ほんの少しの隙間風にでも、かき消されてしまいそうな、頼りない声だった。私は、そのまま俯いたブン太の顔を覗き込む。ブン太はうな垂れたまま、上目遣いでこちらを見た。

「分からないけど、ここにいたらダメになる。だから逃げるんだ」

真っ直ぐに、私を見る。断ることは許されない、そのくらい強い口調だった。それでも、黙ったまま同意しない私にブン太は言った。

「じゃあ、一日。明日まで待つからよく考えてくれ。それ以上は待てない。時間が無いんだ」

その言葉に黙って頷くと、ブン太も安心したようだった。いい返事期待してるぜ、と手を振って足早に去っていく。

彼がいなくなった後も、私はその場に立ち尽くしていた。何故、ブン太はあんなことを私に言ったのだろうか。そして何故、この学校から逃げたがるのだろうか。
こんな快適な場所は他には無いと思うのに。

◇◇◇

私が今通ってるこの学校は、出来たばかりの新設校。設備もよく、学校の構内で何でもそろってしまう。授業も選択制。必須科目と言うものはなく、自分の学びたい授業だけで時間割を作ることができる。例えば美術を勉強したいと言えば、翌日から道具や教員が全てそろい、最高の状態で始められる。生徒の自主性を育てる学校として好評だった。

そんな学校だからこそ、地方からの入学希望者も多い。合格が決まったときは、これから始まる学校生活に夢を見ていた。あれをしよう、友達をたくさん作りたい、夢は膨らむばかりだった。

けれど、実際入学してみると、可笑しな所が多々あることに気がついた。

一つは、この学校が隔離されていること。学校の敷地は高い塀で囲まれている。学校を中心に森林地帯や湖があり、広い草原もある。唯一の入り口は、校長の許可が無いと開かない、大きな門一つ。手紙やメールは、学校以外に送ってはならない。家族には一ヶ月に一度、学校側から連絡をしているらしい。

そして、この学校の場所を知っている生徒が、一人もいないこと。東京都にあることは確かだけれども、住所が無い。入学願書も、郵便局の私書箱行きだったし、入試も書類審査だけ。ここに来るときも全員一ヵ所に固められ、景色が全く見れないようになっている電車に乗せられた。電車の中は快適だったけれど、どこに連れていかれるのか分からず、不安がつのる。

また、この学校では苗字は必要ない、と言われた。この学校の人全体を、一つの家族として見て欲しい、と。だから私は、学校内では自分の苗字しか知らない。

そして、一番のポイントは、校長の顔を誰も知らないと言うこと。入学式のときも、校長の声だけスピーカーから流れた。

だからこそ、学校側に反発する生徒も増えてくる。生徒の疑問に答えてくれない。何か怪しいところがあっても、知らない振りをして隠してしまう。

「私たち、これじゃまるで人質よ」

杏がそう言っていたのを覚えている。杏はしっかり自分の意見を持っていて、サバサバしている所があり、そんな所が私は好きでいつもつるんでいる。そんな彼女も、学校反発組の一人だ。反発組はガラが悪いと言われているが、そうでもない。根は良い人ばかりだった。さっき私を脱走に誘ったブン太も反発組だ。

私は反発組ではないが、だからと言って、学校側に疑問を抱いていないわけではない。言うならば、一番中途半端で、卑怯な中立組だ。そんな私を、彼がどうして誘ったのかが分からない。

◇◇◇

「……てば、聞いてるの? めぐみ!」

肩を叩かれて、はっと我に返る。目の前には、怒った杏の顔があった。

「あ、ゴメン」
「んもー! どうしたのよ。ボーっとしちゃって」
「あー……うん。何でもない」
「そう? なんか最近変よ。めぐみらしくない」

めぐみらしくない。
杏に言わせてみれば、最近の私は人が変わったように大人しいらしい。

二週間くらい前、私は学校の敷地のはずれで倒れていたらしい。そしてそのまま病院へ運ばれ、検査を受けた。そのときに頭を強く打ったようだった。命に別状は無いけれども、記憶が少し飛んでると言われた。引っ込み思案だった人が、交通事故などで、積極的になった話を聞いたことがある。私の場合はその逆だったのかもしれない。

「で、本題だけどめぐみ、今夜空いてる?」
「え? うん。大丈夫だけど」
「よかった。じゃあ今夜十時に食堂に集合ね」
「何かあるの?」

そう訊いてみるが、杏は「来れば分かるよ」とだけ言って何も教えてくれなかった。



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