今夜十時に温室に集合。 五時間目の授業が始まる前に、それが伝えられた。 「大丈夫、絶対成功するって。何も心配要らないよ」 そう言う杏の前では笑ってはみたものの、実はそんな状態ではなかった。脱出することが怖いのか、それとも他の何かがそうさせているのか。私は確実に何かに畏れおののいている。 『こいつが精市を殺したけ。そんな奴と逃げんのは嫌じゃ』 雅治の一言が、頭の中で何度も繰り返される。本当に、私は精市を殺してしまったのだろうか。記憶をなくしているからこそ、分からなくて怖い。せめて記憶が戻ってくれれば、少しでも恐怖は取り除けるのだろうか。 ぼんやりと、放課後の教室から窓の外を眺めると、精市の温室が見えた。名前も知らない木々が生い茂っているのが、遠くからでも見える。あの中に入れば、花が咲いているのが見られるのだろうか。 「ブルーベリーとかそういうのは植えないの?」と訊ねるブン太に、困ったように笑っていた精市。そんな光景を思い出して、懐かしいような切ないような、よく分からない感傷に浸っていたときだった。 「何ぼーっとしてんの?」 「……岳人」 後ろから声がしたので、振り向くと、そこには岳人の姿があった。今は機嫌がいいのか、始終ニコニコと笑顔が絶えない。近くにあったイスを持ってきて、私の横に座った。 「下からさ、めぐみが見えたんだけどすげぇ怖かったぜ」 「えっ? 私そんなムッツリしてた?」 「あー違う違う。そうじゃなくて、思い詰めてたっていうか……うーん、飛び降りそうだった」 「嘘。そんなにヤバかった?」 「うん。ヤバかった」 「……それで心配して来てくれた訳?」 からかうように言ってから、私は横から岳人の顔を覗きこむ。そのまま目が合うと岳人は「ちげーよ、自惚れんなバーカ!」としかめっ面で言った。「一言多いのよ」と岳人の額を指ではじいた。それが本気で痛かったのか、岳人は額を押さえてうずくまった。 「……なんだ。元気じゃん」 「ん? 何?」 「なんかさ、侑士も言ってたけど、最近元気ないっていうか、大人しいっていうか……。そんな感じだったじゃん」 「……」 岳人は、自分の上履きの靴紐をいじりながら話した。 岳人は、わがままで気分屋でどうしようもない奴だけど、実は友達思いで人情に厚いイイ奴なのだった。こういうとき、改めて実感する。そのことを口に出すと、岳人が照れるのであえて言わないけれど。 さっき岳人は違うと言ったけれど、本当は心配して来てくれたのだろう。それを考えると、嬉しくて笑ってしまった。 「何だよいきなり」 「何でもない」 訳わかんねーと言って岳人も笑った。 ◇◇◇ 少しの間話しこんでから、私と岳人は一緒に教室を出た。 「……この学校って変だよな」 寮へ帰る途中、岳人がそうポツリと漏らす。岳人がそんなことを考えていたなんて意外で、私は岳人のほうを見る。 「便利で夢みたいだけどさ、いつかどんでん返しが来そうだよな」 「どんでん返し?」 「うん。例えばさ、戦争が起きて、この学校が真っ先に狙われて学校滅亡、とかさ」 「……ありえなーい……」 「だから例えば、って言ったじゃん!」 そう言って、ひとしきり笑った後、岳人が急にまじめな顔をする。そしていつもより低い声で、吐き捨てるように言った。 「……でも、正直この学校は、そんなに長くは続かないと思う」 「……」 「それに、これの問題もあんじゃん」 岳人は、人差し指と親指で丸を作った。お金のことを言ってるのだった。 そのことは、私も常々疑問に思っていた。入学金にしても、他の学校と比にならないくらい高かったが、最初の一ヶ月位で元は取ったと思う。そのお金は、いったいどこから出てくるのだろうか。 「実はドラえもんがいたりして」 「……ありえなーい」 「あ、それより校長がドラえもんなのかもな!」 「……」 私が否定しても、岳人は聞いていないようだった。冗談なのかと思っていたら、ほぼ本気で言っているようで、否定する気も失せて私はただ黙って聞いていた。 「あ、でもさ、ドラえもんって実はあれ、全部夢の話だって知ってた?」 「えっ。そうなの?」 「そうそう。本当はのび太が植物人間で、のび太が見てる夢なんだってさ」 「えー……ショックー……」 「だよなー。だからさ、俺もうドラえもん見てねーの。悲しいじゃん」 私はそれを聞いて、何だか悲しくなってしまった。夢みたいな世界。それが本当は夢だったと分かってしまったとき。そのときはどうしたらいいのだろうか。そしてそのとき私はどうするんだろう。絶望の淵に立ち、ただぼんやりとそれが崩れていくのを、見ているしか無いと思う。 「覚めない夢ってないんだなー……」 岳人が諦めのような声で叫ぶ。 ほんとだね、と心の中で同意した。 ← → TOP |