なれのはて

アトランティス、夜。
マスターは既に眠っていて、俺はなんとなく眠るような気分ではなかったから、見張りの当番ではなかったが外に出た。少し歩いて、木の少ない開けた場所に出る。
ぶつぶつ、ぼそぼそと何か話すような声が聞こえて、俺は思わず息を潜めながら覗き込んだ。
そこには、一人の女性がいた。俺も知っている、俺と同じく、マスターのサーヴァントの一員だ。
クラスはアヴェンジャー。そうとは思えないほどの丁寧な言葉遣いとしぐさ、佇まいを操っているが、戦闘時の彼女の恐ろしさを、俺はいくらか知っている。

「…………これじゃ重くて面倒よね。でも軽くしたら、いなすことはできても受け止めきれない……」

聞こえてきたのはそんな呟きだ。どうやら木の枝で地面に何か描きながら、空中に言葉を放っている。
──不意に、俺が息を呑んだのは、何もない場所から円盤状の物体が現れたからだ。彼女が創り出したらしかった。
いや、よくみると、彼女の指先は土だらけで、恐らく埋まっていた破片をもとに魔術で錬成したのだろう。俺には詳しいことはよくわからないが。
よくみれば、彼女が創り出したのは盾らしかった。ああでも、あれじゃたぶん持ちにくいだろ。取っ手をもう少し上にして、それより下がやや長く大きくなる楕円形の方が────ぱき。
足元で音がした。踏み出しかけた足が枝を踏んだのだ。なんてベタな。
彼女が振り返る。驚いたような顔の彼女に、俺は、我ながら変な顔で「あ……どもっす」なんて声をかけていた。
彼女もやがて微笑んで、鈴のような声で「こんばんは」と言った。それから小さく俺を手招きして、俺は断ることもできずに隣に並んで座った。

「盾を創りたくて」

俺が訊く前に、彼女は囁くように言った。
流れるようなしぐさで彼女は俺の盾を指さして、やや申し訳なさそうな顔をした。

「貴方の盾、見せて頂けませんか?」
「ああ、いいっすよ」

彼女は土で汚れた手で俺の盾に触ることを気にしたのか、普段していた手袋をそのまま嵌めようとしたから慌てて止めた。別にいいと言っただけで、彼女はごめんなさいと言いかけて、「ありがとう」と言い直した。

「私、初めて貴方を見たとき驚いたんです」
「え?」

頭にいくつもの卑屈な考えが浮かびかけたが、それがはっきりとした輪郭を辿る前に、彼女の言葉が続いた。

「盾を持っているサーヴァント、意外と珍しいんですよ」
「……マシュも盾っすけど」

彼女は俯いた。二度、三度瞬いた瞳は、黒い土ばかりを映していた。

「強くなったわ、あの子。私には嬉しくもあり、辛くもあります」

俺は言葉を返そうとしたが、やめた。彼女が息を吐いたから、その続きを待った。

「もう、私がいなくても生きていけるんだわ」

息が詰まった。彼女は清々しい笑顔で、少しだけ悔しさのようなものが滲んだ声で言った。

「話を戻しますね。盾を持った貴方がいて、嬉しかったんです、私。マスターにとって、自分を守ってくれる人達がいるのはとても有難いことです。けれど、自分が助かって、英霊も生き残ってくれるかどうか。それも、とても大切なんです」

俺は頷きそうになって、寸でのところで堪えた。なにもわからない俺が、頷くべき話ではないと思った。

「正規の聖杯戦争ならともかく、これはイレギュラーな、契約期間を伸ばさざるを得ない長期の戦争。本来、そうなんども経験するはずがない戦争を、藤丸くんは短すぎるスパンで経験している。その度に仲間を失っていては……いいえ、私が彼の精神面まで語ることではありませんけれど。きっと、辛いと感じることもあるでしょう。」

あの子は普通の人間だから。
そう呟いた彼女の声は、涙を流す少し前に似ていた。細かく震えていて、けれど顔に表情はなかった。

「貴方は、マスターを守ることはもちろん、ご自身のことも守ってくれる。この盾を見て、なんの根拠もなくそう思いました。」

彼女が土の付いた手で触れた盾が汚れることはなかった。既に乾いていたのだ。どれだけの時間ここにいたのか、俺には想像できなかった。

「それで、ジュンさんも盾を持ちたいと思ったんすね」
「ええ。でも、てんでだめ。一朝一夕じゃ上手くいかないわね」

盾を見つめたまま微笑んだその姿に、俺は思わず身構えた。彼女がどんな表情をしても、今にも泣き出しそうに見えてしまうからだった。なんと言葉を掛けたらいいかと考えて、気づく。
彼女は泣いてなどいないのだ。

「ジュンさんは火力が売りのアヴェンジャーですし、他は周りがカバーできるし……なんなら盾なんかなくても、あんたは自分もマスターも守れると思うっす」

それは本心だった。一度、彼女が戦う姿を見た。ああ、これは、敵に回したくないな。それがシンプルな感想だ。繰り出す攻撃の一つ一つが、憎悪に満ち満ちている。切りつけたものの全てを地獄へ落とすかのような、重く、鋭く、真っ黒な攻撃。あの瞬間、彼女は確かにアヴェンジャーだった。

「私、防御力が有り得ないくらい弱いんです。生前自分を守りすぎたこととか、死に方とかが関わっているのかもしれないけれど。……ほんとうに、私は彼を苦しめてばかり」

前にもそういうこと、つまり、マスターを守って自分だけ死んだことがあったような言い方だと思った。聞けずに口ごもっていると、彼女が困ったように微笑んで続けた。

「生前、私はカルデアのマスターでした」

俺は、思わず彼女を見た。彼女はやっぱり微笑んでいて、その中に、底の見えない深い悲しみを隠していた。

「あと一歩というところで、私は立ち上がれなくなってしまった。魔術師でありながら、守れないものが多すぎた。失いたくないものが多すぎた」

それは、明確に悲しみを顕にしたような口調ではなく、また、それでも悔いなどひとつもないといったような、清々しいリズムでもなかった。
まるで、もうそこにはないものを大切に抱えるような。そんな空虚を愛する優しさと儚さを、彼女は持っていた。

「私は、彼の隣に立てなかった。守りたい護りたいと前を行くばかりで、彼のことを少しも考えなかった。ほんとうの意味で、彼をひとりにしてしまったんです。いいえ、彼はたくさんの人に囲まれているから、ひとりではないかもしれないけれど。私から突き放したのは事実だから」

彼女がまた息を吐く。わからなかったその表情は、再び穏やかな微笑みに戻っていた。

「だから私、決めたんです。私だけは、彼のために死なないって」

風がざわめく。星の光が静かに降りる。
瞬く月光の中に、彼女の青い瞳は酷くよく映えた。

「彼を、命を懸けて守ってくださる方々への否定ではありません。けれど、私はマスターを護って、私のことも守って、みんな助かって。大成功だねってハイタッチするんです。そういうふうに生きることが、私の誠意です」

夜空を見上げていた瞳が、不意に俺を捉えた。それから困ったように笑って言った。

「ごめんなさい、こんな話を。……誰かに聞いてほしかったんです。明確に言葉にしなくちゃ、私は私にうそつきだから」

それは、彼女が初めて見せた心の奥の柔らかいところで、弱々しい笑顔だった。
俺は、確実に、何かを感じていた。
彼女の手を握りたくなった訳ではない。着地点の定まらない話への返答に困って途方に暮れた訳でもない。
ただ、俺は、一言一句、聴き逃してはいけないと思ったのだ。

「私は弱いから、誰かにそれでいいよと言われなくちゃ生きていけなかったんです。今は違うと思っていたけど、なにも変わっていなかったみたい」

ごめんなさい、囁いて、彼女は俯いたまま微笑んでいた。それは俺に向けた微笑みというより、ほかにどんな顔をしたらいいのかわからなかったから仕方なく貼り付けたもののように見えた。

「トレース、オン」

不意に、彼女が呟いた。そこには瞬く間に、先程と同じような円盤状の物体が浮かび上がる。

「ありがとう。貴方の盾、お返ししますね」
「あ、うっす」

立ち上がって、彼女はたった今創った盾を持ち上げ──声にならない音を発して転んだ。

「おっも……」
「お、おお、大丈夫すか」
「失礼、問題ありません。お恥ずかしい……」

立ち上がる彼女に手を貸して、ついでに盾も借りる。こりゃ、重いだろう。

「この重さと強度なら大砲とかでも防げそうだ。このサイズはここぞって時でいいかと。振り回すなら軽くても技術でカバーできるんで」
「なるほど」

こうして夜通しあれやこれやと喋りながら彼女の盾を完成させたわけだが。戦闘時にその時々で投影魔術を使うとは、さすがに驚いた。すげえ人だ。


そして、全員が立ち上がれなくなったあのキリシュタリアの「光」を前に、あのデカくて重い盾を出したときは、ああこのひとは、その意思は、守るものであって闘う心なのだと知った。