10minutes

じゃり、砂粒がまばらに散るアスファルトを踏んで校門を出た。野球部の掛け声を背に、じりじりと照りつける太陽に目を細めた。

「シロウ────じゃなかった、天草先輩!」

聞き慣れた声に振り返れば、彼女は活発そうな印象を与えるいつもの笑みを携えてそこにいた。走ってきたのか、少し息を切らしている。

「きぐぅー!今帰り?」
「ええ」
「一緒に帰ろー」
「はい」

いつもの道だ。飾るものなどなにもない。この当たり前の日常にとある特別を見出したのはいつからだったか。気付かぬように蓋をする毎日を、果たしていつまで続ければ良いのか。
妙に暑いのは夏のせいか、或いは。
道の先に陽炎が揺らぐ。やや音の外れた彼女の鼻歌を聴きながらの帰路は、けれどやっぱり心地好かった。

「ねえ、今日道場お休みだよね?」
「そうですよ」

道場、というのは私と彼女が通っている剣道場のことだ。互いに幼少期から通っており、彼女と私は幼馴染みということになる。彼女が私を「シロウ」と呼ぶのもそのためだ。

「今日シロウんち行っていい?すーがく教えてほしいなーと思って」
「ええ、ぜひ」

さらに彼女と私は家も近所だ。互いの家との距離はどんなに時間をかけても徒歩五分といったところだろう。こうして家に招くのも幼い頃から変わっていないが、高校生になってみると、これでただの友人というのもそれはそれでどうかと、思わないこともない。

「そういえばシロウの家久しぶりだなあ」
「忙しくなりましたからね」

中学の頃は度々彼女が持ってきた漫画本やゲームで遊んだり、時には外へも連れ出されたりもしたが、彼女も高校に上がってからは何かと時間がないらしい。

「帰宅部だからまだマシだよねえ。部活入ってる人すごいや」
「全くです」

交差点を過ぎて古本屋を通り、花屋の角を曲がる。その間特に会話はなかったが、それは苦しくなるような沈黙ではなかった。

「どうぞ上がってください。無人なのでお気遣いなく」
「今日もおかあさん遅いの?」

彼女はなぜか、人の親を「おじさん」「おばさん」と呼びたがらない。理由はわからないが、その感覚はなんとなくわかる気がした。

「そのようです」
「そっか、寂しいね」
「そうですね」

2階の自室に入り冷房をつける。適当に座っているように言って、私はキッチンに向かった。
冷蔵庫を開け、その冷気に幾分救われながら麦茶を取り出す。適当なコップ。その隣に並べるのはイチゴ柄のコップ。彼女が来たらこれで飲み物を出す、といういつからか自分の中で定着した謎のルールだ。彼女に出すスリッパもある。彼女が好きなストロベリーのチョコ菓子もある。いつか道場の帰り、夕立に二人そろって濡れネズミになって、挙句鍵っ子でありながら家の鍵を忘れた彼女を家にあげてシャワーを貸したとき、彼女のためにおろした彼女専用のバスタオルまである。あのとき濡れて下りた私の髪を見て、彼女はなんと言ったんだったか。
私の生活、そのなかに、少なからず、彼女がいることにふと気づいた。
そうなり始めたのはどうしてだったか、最早覚えていない。考えながらお盆を運び、答えは出ないまま部屋に着いた。

「どうぞ」
「ありがと、お構いなく」

彼女は麦茶を一口飲んで喉を潤わせ、ほとんど音を立てずにお盆に戻す。品が良いなといつも思う。

「やっぱり落ち着くなー!シロウの匂いがする」
「へえ、どんな?」
「どんな、うーん……森みたいな」
「森」

それは良い匂いなのか。

「すごく落ち着くの。いい匂いだよ」

私の脳内の疑問に答えるように彼女は言った。いい匂いなら、まあいいか。

「それでどこがわからないんです?」

それからしばらく、私たちはテキストに向かって勉強をした。わからないとは言うものの、彼女は飲み込みが早いので一度教えたらすぐに理解して問題を解いた。ただ、集中が途切れやすいのが玉に瑕だが。

「そしてここは……百合園さん、聞いてます?」
「あっ、うん、聞いてなかった」

ごめん、と素直に謝るのは良いが。

「少し休憩にしましょうか」
「いいの?!」
「私は鬼教官ではありませんよ」
「やったー!じゃあ十分だけ」
「はい」

何分と決めたらきちんと守れるのが彼女のすごいところだ。
……しかし幼馴染みといえども男の部屋で、無防備に寝転がるのはいかがなものか。
なんだかいやに暑い気がして、リモコンで室温を確認する。しかし数値は最適温度を保っていた。これ以上下げれば彼女が寒くなるだろうか。

「百合園さん、暑くないですか?」
「大丈夫だよ、ちょうどよい」
「そうですか」

結局いじらないままリモコンを戻して、代わりに私はワイシャツのボタンをひとつ開けた。

「ね、シロウ。聞いてもいい?」
「なんですか?」

起き上がった彼女が目を伏せる。

「言いたくなかったら別に、ムリには聞かないんだけどさ」

そう前置きを重ねて私を見上げた彼女の朝焼けは、いつも綺麗だ。

「……シロウはさ…恋、とか、したことある?」
「えっ」

覚えず逃げ出した間抜けな声は、機械的な空気に上塗りされて冷えた室内に消えていく。彼女に、冗談を言っている様子は一切なかった。

「あーいや、忘れて!変なこと聞いてゴメン」

ぱたぱたと手で顔を扇ぐ彼女の頬は少しも赤らんでなどおらず、その仕草がただのポーズだというのはすぐにわかった。
しかしわからない。彼女がなぜ、私にそんなことを聞くのか。

「ねえ、シロウ?……ちょっとだけ許してね」

何を、などと訊く前に、彼女は私の腕の中に倒れ込んだ。いや、抱きついた、と言うべきだろうか。
硬直する。視界が一瞬歪む。手が宙で行き場を失った。

「あ、の」
「ドキドキする?」

どん、心臓が跳ねる。言葉を用意する暇もなく、彼女が俺の胸に頭を擦り付ける度仄かに香る甘い匂いが胸を焼く。壊れそうなほどに強く脈打つ俺の心臓に、頼むから気付かないでくれと祈った。

「うーん、だめだ、わかんないや」

彼女はぱっと私から離れる。その顔は相変わらず赤く染ったりはせず、代わりに苦笑を浮かべていた。

「好きな人に触れるとドキドキするもんだってなぎこさんに聞いたんだけど、私はまだ乙女になれてないっぽい。なんにも感じなかったや」

好きな相手に触れるとドキドキする。「なぎこさん」は百合園さんにそう言ったらしい。
そしてそれを、彼女は俺で確かめようとした。
それはつまり。
そして、彼女は俺に触れることではなにも感じなかった。
それは、つまり。

「最近妙に集中できなくってさ?いや、元からそういうタイプではあるんだけど。色々相談してみたらね、なぎこさんがね、恋じゃん!とかって騒ぐから……」

は、といつの間にか詰めていた息を静かに吐く。さらさらと紡がれていく言葉にひとつも追いつけない。

「まだよくわかんないや。かっこいいシロウはみんなに知ってほしいって気持ちもあるけど、シロウと遊ぶなら二人がいいなあとも思うし。何より、」

彼女が一度言葉を切る。私は床に落としていた視線をやっと持ち上げて、彼女を見た。

「私が恋するならシロウしかいないなって」

単調な音楽が鳴る。短い小節を数回ループして、やっと彼女の携帯のアラームだと気づいた。

「十分経ったね」

アラームを止めようとした彼女の手を、俺は、掴んでいた。
気付かないふりを続けてきた。知らないふりを突き通してきた。
けれど知っていたのだ。
貴女のことを考えると胸が焦げる痛みを。
貴女と過ごすと感じる心の安らぎを。
そして、それをかたどる感情の名前を。

これを、世界は恋と呼ぶのだ。