01





生温かい吐息が膝にかかる。なんだ、と重たいまぶたを開ければ自身の膝が目の前。どうやら自分の息だった。両腕が重たい、というか全身が重たい。左腕が痺れるような、そんな感覚に今の自身の体勢に違和感を覚えた。左側を床に、床?タイルの張られたひんやりとしたその床は何かを彷彿させた。ああ、そうだ。ヴァリアーの地下にある、部屋。なかなか使われない、牢屋のような。そんな見覚えのある床に、体の左を下にして横向いて寝ている。踞るような、膝を抱えるような。けれど、抱えるための肝心な両腕は後ろで拘束されている。手首に床とは違うひんやりと冷たい何かは、きっと手錠の類いだ。まるで裸電球のような、オレンジ色の光に眠気を誘われるが、なにかが鼻を掠める。それは、幾度となく嗅いだ、血の…


そこまで考えたところで、一瞬にして背筋が凍る。


──…─…──…─

何の音だろうか、頭の後ろの方で、わたしの背後で聞こえる、この、音は。

振り返りたい、怖い。振り返りたい、恐い。足先が冷たくなった。いや、はじめから裸足だ。ぼんやりと見つめた先に、鏡があった。それに、写ったわたしの、後ろ。


『─────────っ、』


呼吸が、止まる。息が吸えない、声も、悲鳴さえ挙がらない。本当は今すぐ、叫びたかった。何かが喉を詰めて。声が、空気が通らない。

ぐちゅり、と、咀嚼の音は耳について離れない。目が、離せない。反射した二つのまあるい目は、一心に、目の前の、肉にしゃぶりつく。その下に横たわる、四肢を投げ出した人間。此方に手を伸ばすように。


た、す、け、て


動かない口が、ゆっくりと開いたような気がした。

まるい目は、ゆっくりと、閉じた。それから、こちらを、鏡越しに、見て、目が。合った。

お、は、よ、う。

そんな形を描いた口。


つんざくような悲鳴が耳を占めた。それが自分の声だと気付いたのは、ボトリ。と肉の塊が落ちた音を聞いたときだった。








アムリタの聖杯を














頬に当たる感触から、ここはわたしの部屋ではないな。なんて冷静に理解した。けれど、どうも体を起こす気にはなれない。このまま、ふかふかなベッドで寝てしまおう。もう一度、そう、ふかふかな枕で寝返りをうったときだ。


来た。この部屋の主が。

がちゃり、とまわされた鍵の音がやけに響く。
それから吠えるような、濁点の付いた言葉に眉をしかめれば、耳を引っ張られて起こされる。


『い、だだだだだ。ちょ、取れる。耳とれる!』

「てめぇが俺のベッドで寝るのが悪い。」

『なら起こしたらいいでしょ!?』

「手入れしたばっかりのコイツで3枚に卸されてぇか?」


さりげなく、手入れしましたよって自慢ですか。


『へぇ、手入れしたんだ。あ、昨日してたね。そういえば。何話しても空返事しかしないし、そりゃあ私も寝ちゃうよね。』


手入れについて聞けば、嬉しいのかなんなのか剣について話すものだから相槌を適当に打ちながらベッドから出る。それにしても、寝た私を起こすでも怒鳴るでもなく、部屋に鍵をかけて来客用の部屋で寝るあたり、紳士だなって。ベルはふつーに蹴り落とすし。ベッドから。ルッスーリアは優しく起こすか、こそっと部屋まで運んでくれる。ボスに至っては放置。…私はどこでも寝すぎか。


『何?今日は仕事なの?』

「近々、どでけぇ任務入るらしいからな。」

『へぇ。幹部全員参戦?なかなか珍しいね。』

「てめぇはどうする?」

『前線は嫌だなぁ。自宅警備員するよ。ここ手薄じゃあだめでしょう?』

「前線で使う気はねぇ。」

『でしょうね。』

「…だが。」


と、そこでスクアーロは写真を1枚、見せた。それは白衣を着た、40歳前後と見られる男の写真。その男は、子供たちに囲まれて病室のような所で優しそうに笑う姿があった。


『お医者さん?』

「まぁな。」

『闇医者?これが、標的?』

「いま調査中だ。」

『それで、私は何をしたらいいの。』

「探れ。」

『潜入ってことだよね。この人何科?内科、外科、写真の限りでは小児科。』

「外科。」

『…え、怪我しろって?』

「ちょっと手足切って潜り込ませるのは簡単だが、面倒なのは外科医っつーことだぁ。」

『嫌。痛いし。整形外科で捻挫くらいなら。あ、肩凝りが酷いとか。』


ジロリ、と獣のような目で黙れ、と抑止される。外科医、か。スクアーロのもつ資料を引き抜くように手に取れば、案外すんなりと渡してくれたので見てもいい、と言うことなんだろう。
あくびをひとつしながら、ベットの上に重ならないよう並べる。イタリア語で書かれたその資料は子供から大人の女性までの顔写真、その横にプロフィールと、あれ?


『行方不明、ってだけ?』

「ちゃんと読み込め。」


えええ、と抗議の声をあげながらもコーヒーの匂いが香る。いい匂いだと思いながらも、飲めないんだけど。と一言ぼやいた。それに対する返答はない。


『死体はないんだ。送られてきたのは、骨?
で、このお嬢様のパパが怒っているの?』


失踪のち骨のみみつかる。そんな事件、確かに昨日のニュースでも失踪事件が、何て言ってたかな。

一枚の写真、彼女の首筋に彫られるタトゥーには見覚えがある。どこかのパーティーで、なのか。はたまた本部でだったか。彫られた文字は、ボンゴレ上層部に座る男のファミリーネームだ。女は家から出て、他所のファミリーに嫁ぐ、または平穏に生きていくのかと思っていたけれど。この子は家を継いだのかな。どうせ父親のあとにボンゴレ上層部に座りたいと考えているクチだろうし。


『──…見付かったのは骨のみ、DNA鑑定は、あ、したんだ。え、はやいね。白骨化するの。っていうかさ、これ。警察の資料じゃん。なにこれ、面倒。』

「そっちには別のもん握らせてる。心配はねぇ。」


つまり。買い取ったと。何か大きなバックがついているのは分かったけれど、それにしてもいつからここは警察みたいな組織になったんだろう。…元は自警団か。猟奇的な殺しは厄介な標的だなぁ。言ってしまえば、ベルを相手にするようなものでしょう?考えただけでも、面倒


『ん。とりあえず了解。外科医にお世話になるのは患者ではない方向で行こうかな。近くでいいからウィークリーかマンスリーのマンション借りてよ。』

「手続きはしてやる。いつからやれる?」

『今すぐにでも。』

















若い女が越してきた。
日本人だ。真っ黒な服を着て、真っ暗な世界を生きている女。それなのに、染まらない美しさ。刹那の瞬間に閉じ込められた永遠の存在。


「ミーナ、あと少しの辛抱だ。」


真っ白な肌、透き通るように綺麗だ。太陽の光を浴びながら睫毛に影を、ブロンドの綺麗な髪の毛を撫でてやれば今にも淡い目が開いて微笑みかけてくるだろう。






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