03
掠れる視界の中に、まず見えたのは血だった。赤黒いカサカサとした血が頬と床とを縫い付けるようにくっつけさせている。地下室か、あるいは倉庫のような場所。床はタイルのようにテカテカとしており、どことなく冷たい。明かりは、裸電球のようで、時おり小さな音をたてていた。
目が慣れてくると、自分はノースリーブスのワンピースを着ているのだと分かった。そして、腕には何本もの針が刺され、倒れている体は動こうとはしてくれなかった。
『…──ぁ…』
何か発っそうとした声も、喉に空気が通っただけで渇いた口には血の味がした。
「目が覚めたのか、早いな。だが動けないだろう。」
目を逸らすことも、耳を塞ぐこともできなかった。男はすぐ側にいるというのに、何も出来ない自分に悔しさが込み上げてくる。
「血をね、貰ったんだ。本当なら死んでしまうくらいには貰ったんだけど、凄いなぁ。ずっと生きているんだきみは。不老だという噂は本当なのかい?」
わたしに許されているのは、見ることだけ。嫌みのひとつでも言ってやりたいが、気持ちの悪い手で頬を撫でられ、ただひたすらに我慢するしか出来なかった。
「紹介するよ、ミーナだ。」
彼が、車イスに乗せた何かを見せた。私に、よく見えるようにと、床に寝そべる私を壁に凭れかけさせるように起き上がらせてまで見せたかったもの。
『───っ』
思わず、息をのんだ。激しい吐き気が込み上げてくる。この、男は、狂っている。
「ミーナは、12歳にして重い病気でね。医者の私にも治療法がわからなかったんだ。けれど、ある日。マフィアから買い取ったとある血筋の臓器を、ひとつ移植した。そうしたら喋ったんだよ、ミーナが。」
私の、腕から繋がるチューブは、車イスに乗るモノに繋がっている。
「あれから、躍起になって僕は様々な臓器をミーナに与えた。脳はとある研究者から。子宮と目は、美しい女マフィアから。けれど、ミーナはね、元気にならないんだ。根本が違う、いくら他の臓器に変えたって、心臓がだめなんだって。」
震える腕で、チューブを引きちぎった。止血さえ出来ない私の腕からは、絶え間なく血が流れていく。大丈夫、針さえ抜いてしまえば。こんな小さな傷跡、直ぐに治る。
「そんなときだ、銃弾に心臓を撃たれても死なない女がいるって知ったのは。そう、君だよ。北山澪。」
傷口が治ることを悟られないよう、ワンピースの裾を千切り止血のように巻いた。震える腕で巻くには、時間がかかりすぎる。それなのに、目の前の男は、私がチューブを抜いても、止血をしても止める気配はない。
「肋骨で銃弾が心臓に届かなかった、なんて。そんなことはない。苦労したよ、君をヴァリアーから出すことも。どうすればいいんだって。
そんなときさ、ヴァリアーが子宮を頂いたあの女のファミリーから依頼され、僕を疑っていると知ったんだ。まさか、きみが単身で乗り込んで来るのは知らなかったけれど。」
車イスに乗るモノに、男はキスを落とした。そして、どこからか取り出したメスを、こちらに見せながら一歩、一歩と近付いてくる。
「君には感謝するよ。ありがとう、恐がることはない。きみの心臓は、ミーナの中で生き続けるのだから。」
『…あはは、無理だよ。』
喉が、渇いて痛い。
「何?」
『心臓?とれるもんならとってみろ。私のはとうの昔にアイツらに預けているんでね。』
空洞の胸に手を当てる。とくん。と立派に鼓動する癖に、開けばないのだから。不思議なものだ。…大丈夫、手足の感覚が戻ってきた。あんな医者、メスを取り上げて太股にでも突き刺してやろう。それだけで、いい気がする。
「何を言い出すかと思えば。アイツら、そうか、ヴァリアーか。」
『そう、ヴァリアーだよ。言っておくけれど、私を殺したところでソレ、生き返んないから。』
「ミーナは生き返る。」
『現実見ろよ、おじさん。明らか死んでるし。』
腐敗した箇所を、いくら補っても死んだ者は生き返らない。そんな。当たり前のことすらわからなくなったのか、この人は。
「生き、返る。」
「なら殺してやるよ。」
部屋を囲むように、赤い炎があがった。それと同時に、肩を担がれるようにだれかに抱えられた。
「ゔお゙ぉい!!まさかこんな事に巻き込まれてるとはなぁ!!」
「スクアーロ、見たところ澪は貧血なんだからあまり動かさない方がいいよ。」
「き、貴様ら…なぜ、…ああ!ミーナ!」
嵐の炎に包まれ、ミーナと呼ばれる少女は崩れていく。目も手も足も、内蔵も。全てが他者から奪ったもの、どうしてそこまでして、彼は。
「呆気ねーの。つまんね。」
ふと、感じた違和感。今にも部屋を出ていこうとするスクアーロの腕から抜け出して、駆け出した。雷属性の炎が見える。そうして男が匣に炎を注入し、出てきたソレは一直線にベルへと向かっていく。
「澪!?」
鎌鼬のような鋭さは空を裂き、私の体を切りつけた。吹き上がる鮮血に、思わず天井を仰ぐように倒れこむ。
きっと、彼なら避けれたんだろう。けれど、私は、こんな形でしか守れないから。
蚊の鳴く声のように「死ぬな。」と、金髪に隠れた二つの目が揺れながら呟いた。そんなこと、あり得ないのに。そんな気がした。
こいつの、時折見せる野性的な勘が嫌いだ。
敵の気持ちに沿って考える、その思考回路のせいで、何度、オレはこいつを殺すのだろう。
自分の血でもないのに、こいつの血を見ると可笑しくなりそうだ。目の前で、小さな体全てを使いオレの代わりに受けた傷に、意識を奪われるこいつを、受け止めるときには、指輪から炎が出ている。
その炎が、部屋全てを焼き尽くすのは一瞬だった。スクアーロが、自らの炎で身を守らなければいけないほど、オレには手加減も、余裕もない。
「…死ぬな。」
頼むから、死に急ぐな。
次はもう本当に目が覚めないんじゃないか。今までのは全て奇跡で、本当は死ぬんじゃないかって、何度思っただろうか。
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