ある少年の焦燥

 塾の壁に貼り出された紙っぺらを、オレはどこか冷めた目で眺めていた。『全国統一小学校模試』と題されたその紙には、1位 稀咲鉄太≠ニ自分の名前が最上段に書かれている。前回も、その前も、その前の前も……オレの名前が書かれている場所はいつも同じだった。どいつもこいつも、紙っぺらに書かれた自分の名前に一喜一憂しているが、オレにはどうして連中が騒いでいるのか理解出来なかった。



「……ふーん……くっだらねぇ」



 オレの隣りに突っ立ていたヤツがボソッと呟いた。ハッとしてその顔を見ようと首を振ったが、声の主はフイッと顔を背けて去っていく。ダボダボのスウェットを着たソイツは塾の中では見た事も無いヤツだった。ソイツの名前を知ったのは、それから半年くらい経ってからだっただろうか。いつもと同じように貼り出された模試の結果。オレの名前は相変わらず掲示物の最上段に書かれている。やっぱり、何の面白みも無い……そう思ってこの場から去ろうと思った時だった。



「うわぁ……5年生の結果見た?」

「今回相当難しかったみたいだねー…」

「いつも上位にいるヤツらの名前、どこにもねーじゃん」



 5年生……オレらよりも1つ上の学年だ。何となく皆が注目している掲示物に目を向けると、確かに模擬試験のトップ5に書かれているのは見た事も無い名前ばかりだった。上の学年だとササヤマさんとイズミ君がトップの常連だったはず。上から順に名前を追っていくと、7位と10位に彼らの名前を発見した。後から聞いた話によると、この時の試験は殆どが応用問題ばかりだったらしく塾で習った範囲が悉く外れたとの事だった。



「1位の人……知らない人だね」

「毎回上位には入ってるらしいけど…」

「ああ、芹澤さんって聞いた事ある。模試だけ参加してる塾外生だよ」



 ……芹澤珠綺。2位の生徒ですら500点満点中462点と上位とは思えぬ点数なのに、彼女だけは唯一496点という常人離れした点数を叩き出していた。一体どんなヤツなんだろう。その芹澤珠綺って先輩は。そう思っていた矢先、いつだかと同じようにオレの隣りでじっと紙っぺらを眺めてるヤツが居る事に気が付いた。



「あ……芹澤さんだ」



 誰かがポツリ、と呟く。慌てて顔を上げると、襟足の長い黒髪の女がそこに突っ立っていた。オーバーサイズのスウェットを着たソイツは、よくよく顔を見ないと男と間違えちまいそうな格好をしていた。芹澤と呼ばれた女は整った顔を歪め、なんともつまらなさそうに自分の名前を見つめている。結局、芹澤珠綺の名前が模試の1位を飾ったのは後にも先にもあの1度きり。次の模試結果は再び上位常連者のササヤマとイズミの名前が連なっていた。芹澤珠綺の名前は……8位。決して悪くない点数ではあるが、過去一難しいと言われた模試で1位を取ったヤツとは思えない成績だ。そうこうしてる間に時間は過ぎ、オレの芹澤珠綺に対する関心もそれに比例するかのように徐々に薄れていった。
 芹澤という苗字に再会したのは、それから3年が経ってからの事。もうオレの頭からはすっかりその苗字の事など忘れ去っていた頃の事だった。なぜなら、その頃のオレの頭には別の男が居座っていたからだ。花垣武道……橘日向の心を一瞬にして奪っていった男。ソイツが目指した日本一の不良ヒーローになることが出来れば、花垣武道を越える事が出来れば、橘日向はオレに振り向いてくれるに違いない。芹澤の苗字を耳にしたのは、自分の持てる全ての知恵と行動を駆使して不良のデータを集めていたある日の事だった。



「テメェ芹澤……最近随分と幅利かせてるらしーじゃねぇか」

中学生おこちゃまが高校生に喧嘩売るなんて百年早ぇぞクソガキ!!」

「マイキーやドラケンとつるんでるからって粋がってんなよ?テメェみてーなチビ、一瞬だコラァッ!」



 怒号がして電柱に身を隠したオレの視線の先には、当時オレの住む地域を仕切っていたチームのトップと、黒いセーラー服を着たショートカットの女が対峙している。女にしては背が高い方だが、彼女の目の前に立ちはだかる高校生と比べるとその差は歴然だ。男はニヤニヤと笑いながら、身を屈めてセーラー服の女に顔を近付けた。



「芹澤、可愛い顔ボコボコにされたくなかったらちょっと付き合えよ」

「それか今ここでマイキーとドラケンに電話してみろや。『助けて―』って」

「ま、来た時には遅ぇけどな!」



 ゲスな笑い声に何とも不愉快な気分になる。もし、オレが花垣武道だったら……いつだったか無謀にも橘を助けに飛び出してきた花垣の姿が頭を過ぎる。いや、アイツは関係ない。オレはアイツを超える為に日本一の不良にならないといけねぇんだ。こんなトコで余計な事に首を突っ込むのは得策じゃねぇ。



「……ふーん……くっだらねぇ」



「……え?」



 数年前にも聞いたその科白。慌てて声の主の顔を見ようと身を乗り出すと、セーラー服の女はその場に飛び上がるなり両足で同時に2人の男を伸してしまった。



「は……?な、な……」

「1人で喧嘩も出来ねーヤツが何エラソーに語ってんだよ」



 ダッセぇんだよ、お前。高く振り上げた爪先が相手の顎に当たり、物の数分で辺りはシンと静まり返る。



「あー……つまんねぇ。つるっつるな脳みそによく刻んどけ。芹澤珠綺に喧嘩吹っ掛けるなら10人以上連れて来いってな」



 相変わらずの整った顔を歪めて、芹澤珠綺はそう言葉を吐き捨てた。塾で2度だけ見た事のある女と同姓同名の人間が、再びオレの目の前に現れた。オレは気持ちが高揚すると同時に落胆した。オレはどこかで、芹澤珠綺と自分は似た者同士だと思っていたんだ。難問ばかりの模試でトップを取った彼女なら、神童と呼ばれたオレの気持ちを分かってくれるかもしれない。芹澤珠綺となら、日陰者同士分かり合えるかもしれない。だが、今目の前にいるあの女はどうだ?日陰者なんてとんでもない。アイツは限りなく花垣武道に近い人間だった。この瞬間、芹澤はオレの憧れで、理想であると同時に忌むべき人間となった。
 芹澤あの女を見ていると自分がちっぽけな人間に思えてくる。アイツは頭も良くて、喧嘩も強くて、オレが現日本一の不良と認めた佐野万次郎にも最も近い存在だ。やめろ。オレを惨めにしないでくれ。



「……佐野万次郎太陽で輝く月は1つで十分だ。芹澤珠綺2つ目はいらねぇ」



 バイク事故に見立てて芹澤を殺す事は出来なかった。それなら次の手を考えるまでだ。



「オレが日本一になる為には、テメェには何がなんでも絶 死んでもらわねぇと困るんだよ……芹澤珠綺」



 今度は、確実に殺してやる。