ある少年の放課後

「そこ、違う」

「あ?どこだよ」

「何で2≠右辺に移項したのに+≠フまんまなんだよ。左辺から右辺に移項したら符号は変わんだろーが」

「お、そーか」



 乱暴に消しゴムをかける場地さんに、珠綺さんは続けて「ちなみにその問題、代入法じゃなくて加減法で解けって書いてあるからそもそもが間違ってる」とダメ出しした。



「はぁ!?ならもっと早く言えよ」

「代入法なら出来んのかって思ったんだよ」



 そう言って、珠綺さんはオレが買ってきたハーゲンダッツのセロハンをペリッと剥がした。



「はぁー……もう留年ダブれないって言ってたのはどこの誰だっけ?」

「うっせぇ。赤点だからって留年しない奴らだって居んだろーが」

「それ以前に普通は義務教育で留年なんてしねーんだよバカ」



 場地さんは物凄い眼光で珠綺さんを睨み付ける。そこらの不良でも小便漏らしてもおかしくないシチュエーションだが、珠綺さんは特に気にする様子もなくアイスを頬張りながら「さっさと全部消せ」とごもご喋った。



「オレは別にお前に教えてくれって頼んでねーぞ。千冬、勝手な事してんじゃねぇよ」

「す、スンマセン……オレも今回のテストは出来が悪くて。オレらの周りで勉強出来るのって珠綺さんしか思いつかなかったんス」

「千冬が謝る事じゃないだろ。喧嘩三昧でろくに試験勉強してなかった場地バカが悪いんだから」

「んだとコラァ!」

「うっせぇなぁ。怒鳴る暇があんならさっさと問題解け。第一、何でお前のカテキョ代を千冬が支払ってんだよ。帰りに追加でハーゲンダッツ請求すっから」

「くっそ……」



 ブツブツと文句を言いながらも、場地さんは再び補習問題に向き合い始める。珠綺さんはそんな場地さんの前の席に跨り、肩肘をついてスプーン咥えていた。珠綺さんとは去年の春、場地さんと仲良くなって早々に場地さんを通じて知り合った。何でも場地さんとは小さい頃同じ道場に通っていたらしく、あのマイキー君とも腐れ縁なんだとか。



「今回は2つの式のうち4y≠ェ被ってるだろ?だから2つの式を引き算するとx≠フ値が分かる」

「ほぅ…」

「あとはどっちかの式にx≠フ値を代入するとー…」

「おおー…」



 何だかんだ言って、珠綺さんはとても面倒見が良い人だ。今回もダメ元で連絡したが、一言二言文句を言いつつ「ハーゲンダッツな」と安い給料で補習の手伝いを了承してくれた。



「千冬ー」

「は、はいっ!」

「コレ、残り食べてくんない?」

「………は?」

「場地がバカすぎて食べる暇が無さそうでさ。せっかくのハーゲンダッツ、溶けちゃうと勿体無いじゃん?」

「え、いや、でも……」

「あ、マカダミア嫌いだった?」

「嫌!全然っ!」

「良かった。美味いよな、マカダミア」



 「せっかく買ってくれたのにごめんな」とオレの手にひんやりとしたカップが乗せられた。




「食べかけを押し付けんなよ」

「誰のせいで食えねーと思ってんだ。しっかり帰りにコンビニ寄ってもらうから」

「チッ…がめついヤツ」

「………」



 途端に珠綺さんは無言になり、何やらカバンから携帯を取り出してカメラを起動した。



カシャッ



「珠綺!テメェ何撮ってやがる!」

「補習で苦戦する場地バカ。この写真みんなに回されたくなきゃ大人しく残りの問題終わらせるんだな」



 ツンと高い鼻に小さな口。今はダルそうに座っているが、普段はビー玉をはめ込んだのかと思う程に丸く大きな瞳をしている。場地さんと同じ黒髪なのに、癖っ毛の違いなのか彼女の髪はいつ見てもツヤツヤと光っていた。何が言いたいかというと、オレは今まで珠綺さんより綺麗な人を見た事が無い。口はちょっと(いや、大分か?)悪いが、それもこの人の魅力の一つなんだろう。相手にどう見られても構わないという彼女の言動は、男のオレから見ても素直にカッコイイと思った。場地さんと珠綺さんの横顔を見ながら、渡されたアイスを掬って口に運ぶ。甘っ……。この暑さですでに若干溶けかけだからか、いつもよりも随分と甘ったるい気がした。



ブブッ…ブブッ…



「珠綺、鳴ってる」

「んー?」



 場地さんのテストの答案を長い顔で睨みつけていた珠綺さんは生返事のまま親指で携帯を開く。げっ、19点……見ちゃいけないモンを見た気がした。



「もしもしー?」



 手にした紙っぺらから視線を逸らす事無く通話を始めた珠綺さん。オレらが居るのに出るって事は、相手は多分東卍の誰かなのだろう。



「今?場地の学校。千冬に頼まれて補習手伝ってる」

「おい!それ言うな!」

「誰も場地のって言ってないじゃん……あ」



 絶対にわざとだ。ギャーギャー騒ぐ場地さんに舌を出し、珠綺さんはわざとらしく耳を塞いで席を立つ。彼女が耳に当てた携帯からは複数人の笑い声が漏れていた。



「これ終わったら場地に乗せてもらってそっち行くよ。え、迎えに来る?いいよ、何時になるか分かんねぇし」



 廊下の方へ歩きながら、去り際に場地さんの解いている問題を覗き込んでトンッと一点を指差した。どうやら間違っているらしい。場地さんはムッと顔を顰めつつ、彼女の指摘した箇所に消しゴムを当てた。



「チッ……アイツ、マイキーに余計な事言わねーだろうなぁ…」

「あー…多分、大丈夫じゃないッスかね」



 あ、やっぱり電話の相手はマイキー君か。さっきよりもドロドロに溶けたアイスを掬う。コレ、カップから直接の飲んだ方が早いよな、絶対。



「千冬ぅ」

「はい?」

「お前、ぜってぇマイキーには言うなよ」

「え?あ、補習の事ッスか?」



 そう言えば、場地さんは顔を上げて「バカか?」と訝しげな表情でオレを見つめた。



「ちげぇよ。ソレ」

「ソレ……って、コレ?」

「そー、ソレ」



 手にしていたカップを軽く持ち上げると、場地さんはコクリ、と頷く。



「マイキーにバレたら確実に面倒な事になる」



 マイキー、昔からかなり独占欲強ぇから。と場地さん。何の事かと暫く考え、場地さんが言いたい事を理解した瞬間一気に顔が熱くなった。



「え、あ……あ、オレ……ッ」

「……ま、バレたら骨くらい拾ってやるよ」

「場地ー、終わったぁ?」



 場地さんの言葉に上手く返事が出来ないまま、電話を終えた珠綺さんが戻ってきた。先程と同じように場地さんの回答を覗き込み、「あ、そうそう。そのままそっちを代入して…」と椅子に跨り解説を始める。そんな彼女の説明を、場地さんは真剣な顔で頷きながら聞いていた。場地さん、ああ見えて真面目なとこがあるから。



「マイキー来るって?」

「あ、さっきの?断ったよ。総長が集会に遅れちゃマズイだろ?」

「あ?それ、オレの事バカにしてんのか?」

「よく気付いたな。褒めてやるよ」



 本当、昔馴染みとは言えよく場地さんにあんな悪態を吐けるなぁと感心する。今にも殴りかかりそうな場地さんに対して、珠綺さんはクツクツと笑いながらカーディガンの左ポケットから取り出した物を彼の頬に押し付けた。



「冷たッ!」

「ソレでも飲んでさっさと終わらせろよ、後が詰まってんだから。」

「おお、サンキュー……って何だコレ」

「いちごミルク。疲れた時は甘いものって言うじゃん?」

「あ゛ぁ!?こんな甘ったるいモン飲めるか!」

「あ゛ぁ!?人の好意を何だと思ってんだテメェ!」



 珠綺さんはパックにストローを挿し込むと、無理矢理に場地さんの口にそれを咥えさせる。



「オラ!飲めっ!」

「ん゛んっ!ぶっ……!ゴホッ!」

「珠綺さん!場地さん死んじまう!!」



 慌てて止めに入ると、口の周りがピンクに染まった場地さんが肩で息をしながら珠綺さんを睨み付けていた。



「……珠綺…覚えてろよ…」

「さっさと終わらせてくれないと忘れちゃうかもな」



 言いながら珠綺さんは右ポケットから取り出した新しい紙パックにプスッ、とストローで穴を開けている。



「ん」

「え?」

「アイス、溶けて甘ったるくなってたんじゃない?」



 珠綺さんが手にしているのをよく見ると、シンプルなパッケージに緑茶≠ニ書かれていた。



「先輩想いな出来た後輩にご褒美」



 ニィッと笑う珠綺さんは、どこか場地さんに似ていた。



「あ、ありがとうございます」



 受け取ると彼女はうんうん、と頷いて再び場地さんの補習を手伝い始める。左手に温くなったカップ、右手に冷えた緑茶。やる事の無いオレはとりあえず近くの席に座って白い汁と化したアイスだったモノを飲み干した。



「うわっ……ゲロ甘…ッ」