ある少女の間違い探し

 身内が身内なだけに、同い年ながら喧嘩が強いという彼女の名前はちょくちょく耳にする機会があった。最初はとてもささやかな噂で、複数人の男子を相手に返り討ちにしただとか、他校に喧嘩友達がいるとかその程度だったと思う。噂に尾鰭が付き始めたのは多分、彼女が自分の通っていた小学校の上級生を伸したって話が出てから。身長は2メートルくらいあるらしい、両親はどちらも現役の格闘選手、高校生をタコ殴りにして病院送りにした事がある、等々。勿論全部を信じていたワケでは無いけど、男子顔負けな強さを誇る芹澤珠綺という少女にアタシは憧れに近い感情を抱いていたんだと思う。



「へー、お前姉貴もいたんだな」

「アレ?言ってなかったっけ?」

「聞いてねぇ。お前口開けば三ツ谷の話しかしねーじゃん」

「だって!タカちゃんカッコイイんだもん!」



 この頃既に女子に対して苦手意識を持ってた八戒が芹澤珠綺を連れて来たって聞いた時は凄い驚いたけど、玄関先で対面した珠綺の見た目に合点がいった。襟足の長いショートヘアにスカジャンとGパン姿の彼女は一見すると男子に見えなくも無い。ただ、アタシが想像していた芹澤珠綺の姿とは何もかもが大きくかけ離れていた。身長は女子の平均身長より少し高いくらいでどう見ても2メートルには足りてないし、格好は男子みたいだけど身体付きは華奢で恐ろしく整った顔をしている。本気で同姓同名の別人かと疑ったくらいだ。



「柚葉、珠綺ってば酷ぇんだぜ!タカちゃんに紹介してもらって早々に回し蹴りしてきやがってよー!」

「アレはウチの下僕の仇ってヤツだ。回し蹴り1つでチャラにしてやるって言ってんだから安いモンだろ」

「オレ脳震盪起こしかけたんだけどッ!」



 せっかく別人で片付けようとしたのに……。八戒を回し蹴りしたって?この細っちいな女が?兄貴には到底及ばないにしても、体格に恵まれた八戒はそれなりに喧嘩が強かったはずだ。弟を疑いたいワケじゃないけど、どうしてもアタシには目の前の華奢な人物が噂の猛者と同一人物だとは信じる事が出来なかった。



「で?忘れモン取りに来たんだろ?三ツ谷待ってるしさっさと取って来いよ」

「そうだった!」



 頭の整理が追い付かないアタシを他所に、八戒は珠綺の言葉を聞いて自分の部屋へ駈け込んでいく。……さて、アタシはこの後どうしたものか。(自称)芹澤珠綺をこんなトコで立ちっ放しにさせるのもなんだけど、家に上げたタイミングで兄貴が帰って来たら絶対に面倒な事になる。それに赤の他人とはいえ、こんな華奢な奴が成す術無く兄貴に殴る飛ばされるのを見るのはゴメンだ。いっそのことアタシも自分の部屋に引っ込んでしまおうかとも考えたけど、アタシに何か用でもあるのかビー玉みたいな目でじぃっと見つめられてどうも身動きが取りづらい。



「……あのさ」

「え?」



 先に口を開いたのは珠綺だった。



「お前、八戒の姉貴なんだよな?」

「……そうだけど」

「……弟って、可愛いモンか?」

「ハァ?」



 何を聞いてくるのかと思えば。怪訝そうに顔を顰めたアタシに、珠綺は尚も聞いてくる。



「三ツ谷ンちにも妹がいてさ、アイツすげぇ可愛がってんだ。……弟とか妹って、そんなに可愛いモンなのか?」

「当たり前だろ。アイツを守ってやれるのはアタシしかいないんだ。可愛くないはずがないだろうが」



 そう返すと珠綺はパチパチと何度か瞬きをして、やがて感心したように「ふぅん」と鼻を鳴らした。



「やっぱそういうモンなんだな。真一郎君も似たような事言ってたし」



 「そっかそっか」と1人で頷き自己完結している珠綺はアタシにとっては不可思議で仕方が無い。



「学校の連中に聞いてた八戒と三ツ谷に紹介された八戒とで全然イメージが違ってたからずっと不思議だったんだよ」

「八戒のイメージ?」

「私の連れが何人か八戒にボコボコにされた事があってさ。まぁ、それはアイツらが喧嘩吹っ掛けてったのが悪いからなんだけど。アイツらから聞いた話だと八戒は理不尽に強ぇ聞かん坊ってイメージだったんだ」



 まぁ、強ち間違いではない。長年兄貴にられてきた八戒にとって、全てを解決する手段は暴力∴齣だけだったんだから。



「私は八戒が変わったのってに三ツ谷のお節介スキルが高ぇだけかと思ってたけどー…違ったんだな」

「ハァ?アンタさっきから何が言いたいわけ?」

「そう喧嘩腰になんなよ、短気だな」



 ワケの分からない質問してきて、1人で納得して、それで勝手に語り始める……。そんな変な奴に対して顔を顰めるのは仕方の無い事だと思う。だけど珠綺はそんなアタシの態度なんてまるで気にする様子も無く言葉を続けた。



「八戒に聞いたら、三ツ谷に『暴力は守る為に使え』って教えられたんだと。それってさ、八戒アイツが守る≠チて事がどういう意味か分かったから納得したって事だろ?」



 やっぱり、アタシには彼女が言ってる事がさっぱり理解出来なかった。表情で思考を悟られたのか、珠綺は「物分かりが悪ぃな」って盛大に溜息を吐いて首を横に振る。溜息吐きたいのはアタシの方なんだけど。



「だから、お前が良い見本だったって事だろ?自分が守られてるって自覚があったから、アイツは今あんなヘラヘラ笑う事が出来たんだ」

「アタシが…八戒の…?」



 急にそんな事言われても、「ハイ、そうですか」なんて素直に頷く事は出来ない。アタシが八戒にしてやれたのは、愛情という名の理不尽な兄貴の暴力から庇ってやる事だけ。しかも今となってはそれすらきちんと熟せずにいる。兄貴に意見する事すら出来ないアタシが、八戒の何の役に立ったと言うんだろう……。



「……アタシが見本になるはず無いだろ。だって、アタシは何も出来なかったんだから…」

「それはお前が決める事じゃなくて八戒が決める事だろ。アイツ、バカだけどバカなりにお前の事考えてると思うよ。だから、私をココに連れて来たんじゃないかな?」

「それ、どういう……」



 詳しく聞こうとすると、タイミング悪くバタバタとした足音が戻って来る。



「珠綺ー!あった!明日までの算数の宿題!」

「…お前、それ私に教えろとか言わねぇよな……?」

「勿論そのつもりだけど」

「却下。ルナとマナの相手しなきゃいけねーのにお前の面倒まで見るなんて私には荷が重すぎる」



 慌てる八戒を後目に、珠綺は踵を返してその場から立ち去ろうとする。咄嗟に呼び止めようと身を乗り出すと、彼女はそれを知っていたかのように振り返ってひらひらとアタシに向かって手を振った。



またな・・・、柚葉」

「あ、ウン。また……」



 思わず釣られて手を振り返すと、見間違いでなければ珠綺の口角が僅かに上がった気がした。





* * *





 この部屋に来るのはこれで5、6回目だと思うけど、いつ来てもこの部屋に私物らしい私物が増える事は無い。毎回見かけるドアノブの札が『DO NOT DISTURB』なのにこの部屋が綺麗なままなのは、生活感が全くと言って良い程無いからだと思う。キャリーケースに積まれた数着の私服とベッドに放り投げられた携帯電話、それからデスクに置かれた数冊の文庫本とサイドテーブルの……。やる事も無くて室内を見回していると、さっきまで聞こえていたシャワーの音がピタッと止んだ。



「……何だ、柚葉来てたのか」



 碌に髪も拭かないまま、肩にタオルを掛けただけの姿で出てきた友人の姿に少しだけ眩暈を覚えた。



「またそんな格好で出てきやがって…」

「別にいーだろ、この部屋に出入りすんのはお前くらいなんだから」

「そういう問題じゃない」

「じゃあどういう問題だよ」



 わしわしと乱暴に髪を拭きながら珠綺は平然とした顔でアタシの前を通り過ぎ、キャリーケースに積んでいた下着をひょいと摘まみ上げる。



「突っ立ってないで適当に座れよ。お茶でいい?」

「うん、アリガト」



 ケトルのスイッチを入れて、アメニティのティーパックとインスタントコーヒーを手に取る。何気ない動作だけどアタシには違和感だらけだ。



「珠綺、コーヒー飲めるようになったの?」

「ん?……ああ、訓練みたいなモンだよ。飲めるに越した事ねぇだろ」



 缶コーヒーは…まだ無理だけど。そう言った珠綺は何とも不服そうだったけど、コーヒー牛乳しか飲めなかった珠綺がコーヒーの匂いを立たせている事だけでも随分な進歩な気がする。ただ、手放しで喜べないのはその理由のせい。



「そうだ、忘れる前に金庫から出しとけよ。昨日の回収分」

「……うん、分かってる」

「番号は前のと一緒だから」



 珠綺が意図するモノはホテルに備え付けてある簡易金庫の中に入っている。金属製の扉を開くと中には分厚い封筒が3つ置いてあって、確認までにその内の1つを手に取って中を開くと着物姿のオッサンの絵と目が合った。



「どうしてああいう場所って出てくんのがコーヒーばっかなんだろうな。しかもブラック。せめて砂糖とミルクくらいは付けて欲しいよ」



 サイドテーブルにアタシの分のお茶を置いて、珠綺はズズッとコーヒーを啜る。「あちぃ!」って舌を出してふぅふぅと冷ます姿はどう見ても歳相当にしか見えないのにね。



「……珠綺、もう止めた方がいいよ。アタシの代わりに回収に行くなんて……大寿にバレたらどうなるか分かったもんじゃない」

「バレなきゃいーんだよ。相手方だってイチイチ回収に来た女子中学生の顔なんて覚えてねーだろ。制服着て、マスクして、ルーズ履いてりゃみんな一緒。一応回収に行くのは大寿の妹って伝わってるわけだから向こうも変に手は出せねぇ」



 それに、と珠綺はニヤリと笑みを浮かべる。



「アイツらこっちが中学生だと思っていらん情報まで流してくれる。九井と話していて情報は金になるって事を良く学んだよ。使う使わないは別として、情報は集めておいて損はねぇ。今後の為にもな」



 珠綺は仕方なく黒龍に入ったんじゃない。黒龍を利用する為にココにいる。だって兄貴への支払いが出来ないって言うならこんなホテルに連泊出来るはずがないし、今後の為と言って必要以上の情報を収集しているのも可笑しい。珠綺がその理由を話してくれるなんて思ってないけど凡そ予想はついてる。コイツがこんなに必死になるのは、きっと佐野万次郎≠ェ絡んでるからだろう。



「……あ、柚葉携帯取って」

「ハイハイ」

「ん、サンキュー」



 相変わらず下着姿のまま、珠綺はマグカップ片手にポチポチと携帯をいじり始める。暫くの間無表情で画面を見てるだけだったけど、ある時ピタリとその手が止まった。じぃっと画面を睨みつけ、それから徐に受話口を耳に付けて何かを聞くと表情が益々渋くなる。



「……柚葉、それ飲んだらすぐ帰れ」

「え、何だよ急に…」

「三ツ谷が大寿に会いに向かってるらしい。今日マイキーが隊長格らを呼び出して八戒の処遇について話し合うって言ってたから、大方それ絡みだろうな」

「アンタ、そんなのどっから…」

「んー?ヒミツ」



 やっぱり、珠綺はヘラっと笑うだけで何も教えてくれない。



「柚葉、もしお前が私のしてる事を『自分のせい』なんて思ってるならそれは余計なお世話だ。私は私がやりたいようにやってるだけ。私はお前を利用しただけ。だから、お前が気にする事なんて何もねぇんだ」



「ごめんな」と言って手を振る友人に、私は何も返す事が出来なかった。エレベーターに乗り込みながら、次あの部屋を訪れた時の事を考える。きっと私服の種類も、飾り気のない携帯も、積まれた文庫本も何も変わらないんだろう。でも、少しずつあの部屋の中で変化が訪れているのは事実だ。いつからあの部屋のサイドテーブルには睡眠薬が置かれるようになったんだろう?あんなに大切にしてた手の甲に痣を作るなんて何があったんだろう?それに、珠綺が佐野万次郎≠マイキー′トびするなんて今まで聞いた事無かったはずなのに……。友人がそうまでして成し遂げたいという事を応援したい気もしつつ、誰かに止めて欲しいとも思う。



「……『ごめん』はアタシのセリフだ、バカ」



 アタシじゃあの子を助けられない。だって、あの子を止められるのはきっと1人だけなんだから。