時間は有限

 時間は有限。
 退屈に過ごそうが、有意義に過ごそうが一分は一分。その長さは変わらず、価値も変わらない。特に高校生というモラトリアムに与えられた時間は三年間。日数にして1095日しかない。あっという間に過ごす日々はあまりにも長く感じるはずで、佐登も当然のように長く、有限とは思えないくらいに長く感じていた。

 そんな気分で迎えた高校三年生の春はたまらなく当たり前の、当たり障りのない朝だった。
 いつも通りの時間、目覚ましが鳴る前に目が開いてしまって少しだけもったいないそんな気分にさせられてしまって佐登はたまらず布団の中に潜り込んで、枕で自分の顔を隠した。もう少しだけ、と思っても目覚ましが無情にも鳴り響いてしまって――仕方なしにベッドから足を出した。春先、少しだけ肌寒いような朝の空気に、暖かな布団から出た直後はぶるりと身を震わせた。
 できれば学校に行きたくない。寝ていたい、なんて普通の学生のようなそんなことを思いながら学校のカバンへ手を伸ばす。教科書類も全部入っているし、忘れ物もなさそうだ。春休みの宿題も昨日、なんとか終わらせてカバンの中に放り込んであるから問題もない。

「ちょっとー、暮ー? 今日から学校なんだから、起きなさいよ」

 聞こえてきた母親の声。はーい、と適当に返事を返しながら、クローゼットを開いて二年近く袖を通した制服を取り出した。ワイシャツは昨日アイロンを掛けたばかりでぴしっとしているし、リボンも綺麗にアイロンをかけておいた。新学期、新しいことが起きることを期待するなんて今更馬鹿げているような気がするけど、春に少しだけ期待してしまうのは仕方のないことなのだ。
 シャツに袖を通して、リボンを止める。
 制服の上着は着ずにリビングへ出ると、テレビからニュースの流れる音がする。焼けたトースト、ベーコンエッグの匂い。ダイニングのテーブルには父が座っており、新聞を見ている。台所には母がお弁当を作っているようで、その背中が見える。
「ほら、早く座って食べちゃって。学校、遅れるわよ」
「はいはい」
 促されて漸く佐登は椅子に腰掛けた。トーストにはたっぷりとバターを塗って、口に運ぶ。
「今日から学校か。三年生だな」
「うん」
「……頑張れよ」
「うん。大丈夫だよ、佑ちゃんもいるし」
 祐助くんか、と父は少しだけ新聞から顔を上げた。祐助くん、というのは同じマンションの同じ階、隣の部屋に住んでいる藤崎さん宅の祐助くんだ。年が一歳しか変わらず、幼い頃から小学校も中学校も一緒で、昨年同じ開明学園に入学してきたということもあってか、変わらず仲良くさせてもらっている所謂幼馴染というやつである。
 父はその祐助くんに信頼を置いている。
「もーー、貴方、祐助くんのことばっかり。いい加減彼氏の一人でも連れてきなさいよ!」
 母は祐助くんを気に入っているようだが、少々ご不満らしい。う、とトーストを喉につまらせかけて牛乳を慌てて飲み干して、トーストを流した。突然何いってんの、と反論して睨むと、お弁当の包みを二つ分、テーブルに並べられた。一つは父の、もう一つは佐登のものだ。
「か、彼氏とか……」
「高校生でしょう? それくらいいたっておかしくないでしょ」
「もー、うるさいなぁ。ごちそうさま、行ってきます!」
 この手の会話は苦手だった。
 逃げ出すようにお弁当を掴んで、慌てて部屋に戻ってスクールバッグの中に詰めると駆け出すように家から飛び出した。いってらっしゃい、と後ろから二人分の声が聞こえてきたので、お気に入りの星マークが特徴のハイカットスニーカーのかかとを直しながらリビングに向かって行ってきます、と声を上げた。


「あ」
「お」

「「おはよう」」
 ドアを開けてみれば丁度、会ったのは噂の幼馴染――藤崎祐助だ。相変わらず制服は着崩されていて、彼らしい個性に溢れた服装だ。それに比べて自分は制服の着こなしに全くの個性がどこにでも居るような地味な女子生徒だ。
「ちゃんと宿題終わったの?」
「終わらせたっての! お前は、俺の母ちゃんかよ」
 ありふれた幼馴染の会話。どうせ学校まで同じ道なのだから敢えて速度を変えてみたり、無言になるほど仲が悪いわけでもなく、かといってべたべたしているようなほど仲がいいというわけでもない。ゲームとか共通の話題とかがあれば盛り上がったり、お互いの家を行き来するような、そんな普通の幼馴染だ。藤崎はちらりと佐登をみやった。そして、一言――。
「なぁ、スカート、短くねぇ?」
「へ!?」
 足元へ向いた視線。
 指定のソックスは膝下だが、スカートは膝上だ。つい春休み前までは膝下だったはずのスカート丈だったのに、と藤崎はまじまじと眺めてしまった。どことなく髪の毛も短く、今までとは少し違う感じで切りそろえられているような気がしてきた。
「何だよ、急に色気づきやがって」
 気色悪い、とは言わなかったがそれを全面に押し出した顔に佐登はむぅと顔を顰めた。
「悪いの? 私だって女の子なんだし……いいじゃない」
「いや、それは悪いって言ってねぇんだけど……」
 なんか、すげぇ違和感。
 藤崎はそう言うと一歩先に歩き出した。あ、置いて行かないでよ、と佐登は追いかけて藤崎のすぐ後ろを歩く。子供の頃からあまり変わらない光景だ。お姉さんだけど、正直頼りないところもある佐登をいつも引っ張っていくのは行動力のある藤崎の方だった。それは小学校でも、中学校でも――そして、高校生でも変わらないだろう。
「何、お前、好きなやついんの?」
「相変わらずデリカシーないなぁ。あのね、私も高校生なんだってば――好きな人くらい……」
「はぁ!? いんの!?」
「例え話!! 例え話だからね!?」
 大声を上げてくるのでつい大声を上げてしまった。すると、背中側からぽん、と叩かれて慌てて振り返った。同じ制服を着た女の子――友達の碇志穏だ。
「うわ、志穏、おはよ」
「おはよう〜、佐登ちゃん、ボッスン」
「おはよう、志穏さん」
 碇は佐登に笑いかける。高校からできた友人だがもう長い付き合いの友人であるかのように接してくれる彼女には正直佐登は感謝している。クラスで孤立しがちだったが、彼女のお陰で完全に一人ということもなく過ごせている。登校のルートが似ているのか、こうやって途中で会えるし、帰りも寄り道ができるので結構一緒になることも多いのだ。
 途中から三人になり、会話もより弾む。
「いやー、来たね。クラス替えの時期だよ」
「あー……今年は、うん、期待したいな」
 佐登が少しばかり遠い目をして肩を落とす。
「何、嫌いな奴がいんの?」
「何いってんの、ボッスン。乙女の悩みといえば、好きな人と一緒のクラスになれるか、でしょう?」
「やっぱりお前好きなやついんの!?」
「話を蒸し返さないの!!!」
 ――開明高校は春。桜が満開の、新学期が始まったのだ。


 三年B組、去年は二年B組だったので、新しいクラスが発表されるまでは暫定的に去年と同じクラスの三年の教室に入る。碇とは去年も、その前も同じクラスだった。いつものようにドアを開けて中に入れば結構な生徒が揃っていた。流石に一年も一緒にいるクラスだ、クラスの大半とは顔見知りだし、それなりに話をする生徒も多い。適当に挨拶を交わして、席に着く。一つ前の席には男子生徒。
「おはよう、暮」
 笑顔で話しかけてきたのは安形惣司郎だ。この学校の生徒会長にして、IQ160を超える天才だ。――そして、二年の秋、佐登に告白してきた佐登の――彼氏だ。
「おはよう」
 ぎこちなくなかっただろうか。
 普通に挨拶できているだろうか、と少し考えながらカバンを机の横にフックに掛ける。席につくと安形が振り返って来る。いつの間にか碇の姿はなく、彼女の席の方へ視線を向ければいい笑顔で手を振っている。どうやら、頑張れということらしい。悲しい。
「なぁ、暮、次のクラスも一緒だといいな?」
 楽しそうに笑う安形に佐登は一瞬たじろいだ。本当に顔がいい。校内でも有数のイケメンと言われるだけはあるというか……と思いながら、その中に恋人への贔屓目も入っていることに佐登は気付けず、目をそらした。
「……惣くん、と同じクラスだと心臓保たなさそうだから、いやだ」
「ドキドキする?」
「わかってていってるから、そういうところ嫌い」
「悪い、悪い」
 机に片肘をついた安形が笑いながら謝る。その謝罪に本気というわけでもなく、佐登の嫌いも本気ではないと分かっているらしい安形はじと佐登を見つめる。見つめられると居心地が悪くなるのが常で、佐登は所在なさげに視線を時折安形へ向けながら、キョロキョロと見るべきところを探している。
(あー、わかりやすいなぁ)
 髪の毛が顔にかかったのを佐登が指で少しだけどけて、耳にかける。困ったように時折視線を向けてくるが敢えて取り合わない。次第に照れてきたのか、佐登の耳が赤くなってきた。ああ、流石にそろそろ怒られるなと思った頃合いで、丁度教室のドアが開いた。ほら、座れよ、と担任が入ってきたところで時間切れだなと安形が前を向き直ってくれたので、佐登はふう、と息をついた。
(し、心臓、止まるかと思った)
 はぁ、とため息を付いて、心臓を抑える。付き合いだして既に半年ほど経っているが未だに慣れない、というか慣れられない。会話する度にドキドキするのはいい加減控えたいところだが、仕方がないということにしておこう。これだっていずれは慣れることだ――と思いたい。
「それじゃ、皆さっさと知りたいだろ。クラス分け発表すんぞー」
 せめてクラスだけでも別れてくれたら、気持ち楽に過ごせるかな、と思っているが現実は残酷である。
 三年A組。
 佐登の新しいクラスには碇も居るが――安形も一緒だった。
「願いは叶わず、だな」
 楽しそうなことで、と佐登は内心悪態をつくが、安形はこういう男だと知っていたし、まあ、同じクラスで嫌だと言うことはないのだ。なんだかんだと言って、安形と同じクラスなのは嬉しい。恋人と同じクラスで嬉しくないはずがないのだから、安形のニヤケ面もそれらをわかって上での表情だ。
 悔しいが、好きなのはバレてる。いや、付き合っているのだからそもそも佐登も安形のことが好きなのであって。
「最後の一年もよろしくな、暮」
「うん」
 最後の年を少しでも長く一緒にいられるならそれはとても幸福なことなのだ。
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