絶対不可侵領域

 安形惣司郎には彼女がいる。
 佐登暮という同じクラスの女子だ。あまりクラスで目立つ方ではないだろう。去年まではクラスの大半が彼女のことをあまり詳しくは知らないという状態であり、安形だって、きっかけが無ければもしかしたら彼女の存在に気づかなかったかもしれない。
 姿を初めて見かけたのは一年の夏。
 名前を知ったのは、一年生の冬。
 同じクラスに初めてなったのは二年の春。
 自分の後ろの席に座る彼女をじと、眺めているとやはり居心地の悪そうな顔。付き合って既に半年は経っているのに未だに慣れてくれない彼女にはかわいさも感じるが、少しばかり物足りない。もっと、と求めているのが自分ばかりのようで少し焦る。――まあ、そんなのおくびにも出すつもりはないが。
「暮」
 名前を呼ぶと少しだけ顔を上げて、何? と聞いてくる佐登の顔が好きなのだ。


「惣くん、それ、おいしい?」
 それ、と向けられた指の先には新しく校舎の自販機に入ったパックジュースだ。ミックスジュースで、まあありきたりな味だ。飲んでみるか、とストローを差し出すと、一瞬固まって顔を赤くする。まあ、その反応は安形の予想通りの反応でそのままで待っているとおずおずとストローを咥えた。ちゅーと吸って、目を輝かせる。
「結構好きかな」
「俺には少し甘いんだよな……飲むか?」
「え、いや、でも」
「正直、飽きてきてる」
 渡すと少し不服そうにしているが佐登は仕方ないなぁ、と言いながらパックを手に持った。昼休みは教室でクラスメイトと食べるか、それとも他のクラスのメンバーと別の場所で食べるかと別れる。安形は佐登と食べるか、生徒会室に行くかのどちらかだ。後者のときは佐登が休みか、親友である碇と他の部室に出かけている時だ。
 佐登は基本的には弁当だ。購買で売ってるパンも好きで、好きなパンが入荷する木曜日だけはお弁当は持ってこない。
「卵焼き食べる?」
「お、いいのか?」
 差し出された卵焼きは弁当の蓋に上げられそうになるが、まった、というと手が止まる。あー、と口を開けると佐登はわずかに視線を彷徨わせたが、すぐに口に卵焼きを運んでくれた。もぐ、と卵焼きを食べると出汁の味がする。佐登の家は卵焼きは甘いものではなく、出汁のものが基本らしい。
「ん、うまい」
「そっか」
 少しだけ綻んだ顔。どうやら、今日の卵焼きは自分で作ったものだったようだ。言ってくれればもっと褒めるのにな、と思いつつ嬉しそうにしている佐登のその頭を撫でる。わ、わ、と驚いて、照れてと表情の移り変わりは忙しいが自分が昔、佐登を見かけた時は彼女はあまり表情の変わらない人だった。これも自分と関わっている変化か、と思うとたまらなく、嬉しく感じる。
「惣くん、生徒会はいいの?」
「ん? 昼休みだしなー……まあ、後で昼寝くらいには行くかもだけど」
「生徒会室は昼寝するところなの?」
 ちゃんと仕事しなくちゃだめだよ、と佐登らしい真面目な言葉が聞かれてきて、それでも安形が仕事はしないんだろうと知っているからそれ以上強くは言ってこない。弁当が空になって、佐登は誰が見ているというわけでもないのに、手を合わせてごちそうさまでした、というと弁当箱を閉じた。
 安形もそれに倣って弁当をしまうと、クラスのメンバーがちらちらといなくなっていくのがわかる。体育館か――今日は晴れているから校庭にでも行くのだろう。佐登はアグレッシブなタイプではないので、このまま教室に残ってノートを開くか、本を読むか。それか、幼馴染たちのところへ行くか、親友の碇と新聞部の部室へ行くかだ。佐登は今日は後者の選択を取るつもりはなかったのだろう、席に座ったままだ。ノートを机の中から引き出す。よくある、罫線の引かれたリングノートだ。
「文芸部のか?」
「うん。……あんまり見られると恥ずかしいけど」
「俺は好きだぜ、暮の小説」
 佐登は文芸部員だ。三年の部員が少ないため、なし崩し的に部長に去年の秋になったが部長らしい仕事はあんまりないよ、と話していたのを安形は覚えている。まあ、小説や評論、短歌など所謂文芸と呼ばれる作品を創作するのが文芸部の大きな活動なので、部室棟の部室は常に開放していて部員たちも好きなように活動するのが伝統らしい。佐登も厳しいタイプではないし――どうやら部室に行きづらい理由があるようで、週一くらいでしか部室には顔を出していないらしい。
「今回のお話は?」
「んー、まだあまりまとまって無くて。プロット練ってるところ」
 確かにノートには走り書きの文字が乱雑にあるだけだ。内容がまとまってないときにはよくこうなるらしく、ここから自分の欲しい情報を引っ張ってくるのが大変だがやめられない、と苦笑する。
「なあ、暮ってこういう原稿、どのくらい掛かるんだ?」
「え? 長さにもよるけど……文芸部の部誌用の原稿は二ヶ月かけるし、ちょっとした短編だったら一日……?」
「文章ってそんな簡単にかけねえだろうよ」
「いやいや、慣れたらできるようになるんだって」
 こういうことは慣れだよ。
 佐登は困ったように笑い、ノートに走り書きを続ける。そうしている時の佐登の表情は楽しそうで、充実しているようにみえる。
「惣くんだって、反省文ならすぐ書けるでしょう」
「いや、それとこれとは違ぇだろ」
「同じだよ。文章だもん」
 慣れたらいくらでも言葉が出てくるようになるし、言葉を知ればたくさん広がるし――って現文の先生が言ってた、と佐登は笑う。なるほど、そんなものか、と安形は佐登のノートに視線を落とす。ざっくばらんにこうやってまとめておくと、文章の書き進めは違うのだろうなぁと思う。今、模試で行っている小論文だってある程度まとめてから書き出したほうが楽だ。
 それを眺めながら安形は立ち上がった。佐登は自然とそれを目線で追う。
「惣くん?」
 ――退屈だった? といいたげな目で見上げてくるので、頭を撫でる。
「購買行って飲み物とお菓子買ってくる。――なんかあったほうがいいだろ?」
 そう言って手を振ると佐登は目をぱちぱちさせて、ありがとう、と言う。そのまま教室から出ると購買に向かって階段を降りていく。


 放課後。
 生徒会もある程度区切りをつけると安形は立ち上がった。生徒会庶務の榛葉が安形を見て、困ったように笑った。
「佐登ちゃんの迎えに行くの、安形」
「おう」
 ここ半年ほど、ずっと安形は生徒会が終われば、教室で待っているか既に校門の前にいるであろう佐登を迎えに行くのが恒例になっている。榛葉もさすがに見慣れてきたが、安形に彼女ができたと聞いた時は一体何の冗談だろうと思った。――すぐに飽きて女の子の方を泣かせたりしないだろうか、と心配もしたものだが、今となっては杞憂のように感じる。
「今度、俺に佐登ちゃん紹介してよ」
「かっかっかっ、絶対イヤだ」
「いやなのかよ」
 いい笑顔で答える安形に榛葉は苦笑する。すると安形の携帯がメールの着信音を鳴らす。すぐに取り出して携帯を確認すると、今日は校門にいるってよ、と言って安形は手を振って生徒会室から出ていく。バッグを肩からかけて、生徒会室前の階段から校門を目指して降りていくのも、生徒会に入ってからずっと繰り返していることだが、少しだけ心が弾む。
 佐登と一緒に帰り始めたのは去年の秋も終わる頃だ。付き合ってから少し経った頃。
 初めて一緒に帰ろうと誘った時は、本人に明かすつもりは微塵もないが安形も少しだけ緊張していた。碇と登下校していたのは知っていたし、もしかしたら断られるかもしれないと。驚いた顔をした佐登はしばし悩んだ後、いつもどおり目をそらしながら頷いた。
 それから何度も一緒に帰っている。最初のうちは互いが駅で別れる道筋なのでそこまでだったが、今は家の前まで送るようにしている。そのほうが長い時間一緒にいられる。佐登は遠慮するが、自分がしたいだけだからと押し切って一緒に帰る。
 靴を履いて外に出れば、佐登が柱に寄りかかって待っていた。安形に気付くと、顔を上げた。
「おつかれ、生徒会長」
「つっても仕事してんのは椿だけどな」
 かっかっかっ、と笑う安形に佐登は少し呆れたように肩をすくめるが、そのまま一緒に歩き始める。
 夕暮れのオレンジ色の空を、太陽とは反対の方向に。佐登は安形の隣を歩きながら、ふと野放しにされている安形の手へ視線を送る。
(……手、つなぎ、たいなぁ)
 他愛のない会話に答えながら、佐登は下を向いた。ちょっとだけ距離を縮めるように安形の傍へ寄るとその手の甲に手をそっと押し当てる。
 ぴた、と会話が止まり、佐登へ視線を向けた安形は笑った。そして、気づかないフリだ。こっちから手を繋いでもいいがそれでは面白くない。安形はそのまま話を続ける。佐登は安形のその様子に、う、と表情を歪めてどうしようかしばし考えて、安形の手を掴んだ。
「ん? どうした、佐登」
「……手、繋いでも、いい?」
「おう」
 ぎゅう、と握った手は暖かい。とんでもなく心臓がうるさい。こんなに心臓の音は本来うるさくないはずだ。耳元でバクバクと鳴っているような感覚がしていたたまれないが、手を繋ぐのは嫌いじゃない。普通に付き合っている男女ならこれくらいは普通なのだから、と言い聞かせて、手を繋ぐ。
「手をつなぐのはいいんだけどな」
「え?」
「手をつなぐと、暮、緊張して俺の話し聞いてくれないからな〜」
 ニヤニヤと笑いながらこっちを見てくる安形に佐登はそれまで我慢していたと言うのに一気に顔が赤くなった。赤面症ではなかったはずだが、顔が熱くてたまらない。
「し、仕方ないじゃん、緊張するし……」
「手、繋ぐの初めてじゃないだろ? あんまり緊張すんなよ」
 そのとおりです、と佐登は何も言い返せない。手を繋ぐのは決して初めてではないし、何度も繋いでいる。それでも緊張するのは仕方ないと思いたい。思わせてほしい。そりゃ、早く慣れてこれくらいは普通にできるようになりたいとは思うのだが。
「学校でも繋ぐか?」
「そ、それは!!」
「かっかっかっ、冗談だ」
 いやーいい反応だ、と楽しそうな安形に半分は冗談じゃなかったな、と佐登は頬を膨らませた。
「お前があんまりそんな調子だとなー……手が出しづらくてなぁ」
 びく、と佐登の肩が震える。
 すると頬に触れる唇の感触に、佐登は今までにないほど俊敏な動きをして安形から離れた。その顔は夕日のせいとは言えないほど真っ赤だ。
「かっかっかっ」
「な、なななな、いや、え、ま、まって、あの、いや、惣くん!?」
「さー帰るかー」
「待って、話を聞いて!? な、何で、突然!!」
 さっさと歩いて行く安形を追いかける。
 顔を赤くして、俯く。安形の顔はしばらく見られそうにないというか、見たくない。もう、頬が熱い。冷やしたい。
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