静かに降った雨

 佐登は雨が好きだ。
 しとしとと降る雨を窓から眺めているのが好きだった。子供の頃、体が弱くて寝ている時にできることは窓の外を眺めたりそういうことばかりだったから、というのもあるだろう。雨は余計な音を吸ってくれていくような気がして好きだった。雨の音だけが響いてきて、すごく穏やかな気分になれるから。
 雨が降っていれば他の子供達が外で遊んでいる音が聞こえなくて寂しい思いをしなくて済むから。雨の日に体調を崩していると幼馴染が折り紙とか本をたくさん持って遊びに来てくれるから。

 雨が降っている間だけ、自分は他の子供達と同じようにお部屋で遊んでいられるから。

 開明学園も冬制服の時期が終わり、夏制服の時期がやってきた。雨がしとしとと降ってくる梅雨の時期。佐登はお気に入りの深い緑の傘を差していつも通り通学路を歩く。歩く人、すれ違う人それぞれがそれぞれの傘を差して歩いていてきっと上から見たら綺麗だろうなと思いながら自分も同じように歩いて行く。隣を歩く幼馴染は雨が降ると髪型が、と天然パーマ特有の悩みがあるのか気にしながら黒い傘を差している。
「毎日、毎日雨ばっかり降りやがってよー」
 まったく、憂鬱になんぜ。
 幼馴染の嘆きに、くす、と笑って佐登はそうだね、と返事を返す。雨は藤崎の嘆きを無視してまだまだ降り止む気配もなくしとしとと降り続けている。鉛色の雲が厚く、空に広がっているからしばらく青空は拝めそうになかった。
「お前、そろそろ体調崩す時期なんだから、気をつけろよ。薄着すんなよ」
「佑ちゃんは私のなんなの、ねえ」
 心配症な幼馴染はたとえ夏服になってもカーディガンを着ている幼馴染をみやって、昔のことをふと思い出した。
 子供ながらに覚えているが、佐登が救急車で運ばれたときには何度も母と見舞いに行ったものだった。病室で点滴につながれていて、具合悪そうに横になっている佐登の姿は中々目に焼き付いていて忘れられない。あの時は確か食べ物のアレルギーが出たときだった。アナフィラキシーショックにはならなかったものの、体が相当弱っていたこともあって吐くわ、発疹が出るわ、咳が止まらないわの大騒ぎだったと、昔のことを母に聞いたときの言葉だった。
 そんな体の弱い幼馴染はなんでか、周りに心配をかけたくないのか体調が悪いことを黙っていようとする。いや、体調のことだけじゃないが――自分で解決しようとして、ずっと堪えるように黙っている。彼女の精神にも肉体にも影響が出た頃にはもう手遅れになっていることが多くて、風邪をこじらせて学校を休むなんて、実は今でもざらにあることだ。
「お前もそろそろオレ以外に頼る男見つけろよなー」
「……うん、そうね」

 幼馴染に一つだけ言えていないことがある。
 昔から何かと心配してくれる優しい幼馴染だ。信頼もしているし、よい友人だと思っているし、家族のようなものだとずっと思っている。彼も彼なりに自分に色々話してくれているし、部室に受け入れてくれるし、楽しいことに巻き込んで楽しませてもくれる。
 ――彼氏ができたことだけは、伝えられずに居る。
(いや、うん、佑ちゃんならなんだかんだと祝福してくれそうなんだけど……なんだろう、惣くんと佑ちゃんの相性が悪い気がしてならないんだよね)
 決してこれはどちらが悪いという問題ではなくて、なんとなくの予感だ。安形惣司郎という男は基本的に性格のいい男ではない。そして、頭もあるのでその頭脳をフル活用して色々しでかす男だからして、どうにも藤崎と鉢合わせた時にどうなるのか想像が付きづらいというか……そもそも二年の秋に付き合いだしたときにはこんなに長く付き合っているとは思わなくて、言い出しづらいままここまで来てしまったのだ。

 今更言い出しづらい、という本音をさておき、やっぱり伝えておくべきなのだろうか、と考えていると頬に触れた感触にびく、と全身が強張った。
「油断大敵〜」
「そ、そそそそ、惣くん!!??」
 どうやら頬にキスされたらしい。目の前でにやにやと笑いながらこちらを見ている安形に佐登は動揺して声を上げたが彼はその反応すら楽しんでいるようだった。何考えてたんだよ、と安形は笑いながら佐登の机に対して平行に並べた椅子に深く腰掛けて言った。
「あ、いや……」
「オレが目の前に居るのに、別のこと考えてんだもんなー、オレ、寂しいなー」
「ごめんて」
 少しすねたようにした安形を宥めるようによしよし、と髪の毛を撫でる。
「雨、やまないなーって……」
「どうせ別のこと考えてたんだろうけど、そういうことにしておいてやるか。……天気予報だと、今週いっぱいは雨らしいぜ」
 安形が窓へ視線を向けた。来週は晴れるというわけではないのだろうが、梅雨前線が居なくなってくれない限りこの雨は続くのだ。少し憂鬱そうな安形に佐登はそうだね、と呟いた。佐登は存外雨が続くのは嫌いではないが、外が寒いのは困る。この時期は少し体調を崩しやすい時期なので、雨が降って気温が下がるとすごく困る。まあ、少しずつ暑くなってきているので、湿度が高くてジメジメするのも困るが。
「暮、クレープ食べにいくか」
「行く!」
「雨降ってるけど、夕方小降りらしいし。行こうぜ」
 放課後、寄り道ができるのも学生の特権だ。佐登が目を輝かせたのを見て、安形はふと笑った。食べ物で釣っているようにも思えるがまあ、こうでもしないと一緒に帰ることに緊張されてしまうので仕方ない。そういうウブなところも気に入ってはいるから敢えて改善させようという気もない。
「カスタード……いちご……」
「はいはい。ホント好きだな」
「はっ、バナナとチョコ……」
 何を食べようか、と思案している佐登はやっぱり表情が和らいでいる。
(やっぱ……好きだなぁ)
 だから告白したんだが、だから付き合っているのだが。
 惣くんは何食べるの、という佐登にそうだなー、甘くねえのがいいなー、と答えて笑った。



 ――幼馴染は急に女っぽくなったな、と思う。
 スカートは短くなったし、髪型も気を使うようになった。少しだけ表情が明るくなったし、なんだか友達が増えたようなきがする。理由はなんでか分からない。高校に入ってからも全然変わろうとしなかった幼馴染が急に変わったのは少しだけ驚いたが、スケット団の部室に居る時は全然変わらないから気にしてなかった。
「今日、部室には顔出さず帰るね」
「おー。気をつけてな」
 どうせ、志穏さんと放課後遊びに行くんだろ、と思った。大抵部室に顔を出さない時はそういうことだ。雨が降っているがまあたまにはありだろう、と送り出した。いつもよりも上機嫌なのか、スキップでもしだしそうな背中は楽しそうで。高校での数少ない友達である碇との寄り道を楽しみにしているように見える。


「おう、暮。悪いな」
「生徒会、よかったの?」
 椿が居るから大丈夫だろ、会議は出てきたしな、という安形は傘立てから傘を手に取る。昼頃に比べ天気予報通りに小ぶりになった雨だ。もう少ししたら傘もいらなくなりそうだな、と思いながら空を見上げる。
「もう少しで止みそうなのにな」
「……まあ、止まないものだよ。梅雨だもん」
 傘を広げて二人並んで歩く。いつもなら手もつなげるが、傘を広げていてはそれもできなさそうだ、と佐登は少しばかり残念に感じる。雨は好きだが、好きな人ができて初めて、雨の日を残念だと思った。いつもよりも少しだけ開いた距離はいつものようにドキドキしてクラクラしそうになることもないが、同時に少しだけ寂しく感じる。
 雨が降っていても運動部は室内トレーニングしているのだろう、この早めの時間に帰る生徒はまばらだった。
「なぁ、暮」
「うん?」
「…………そっち行っていいか」
「……うん?」
 意味を図りかねた。
 そっちに行っていいか、ということは近くに来てもいいかということだろうが――あいにくと二つの傘を並べて歩いていると言うほど近くには来れないはずだ。それは確かに、佐登もいつもよりも安形と距離が空いて少しさみしいな、という思いはあるがどうするのか、と想像がつかなくて首を傾げるばかりだった。
 すると安形が自分の傘を閉じて、佐登が握っている傘の柄をつかむようにして持ち上げると佐登の傘の中に入ってきた。――所謂相合傘というヤツだ。
「……えっと」
「なんか傘さしてると遠くてな。」
 ――手も握れねえし。
 傘はあっさりと安形に奪われた。身長的に安形の方がずっと高いので安形が持ったほうが体を屈めなくて済むだろうとすんなりと傘を渡したこともあったが。
(あ、れ……?)
 近い。
 いつもよりもずっと近い。
 手を繋いで歩くことだってあるし、抱きしめられることもある。こんな相合傘だって少女漫画の定番シチュエーションだから何度も見たことがあるが――実際に自分がしてみるといつもよりもずっと距離が近い。まあ当たり前だ。体が濡れないようにと互いに傘に入っていて、その一つの傘の範囲は決まっている。自然と距離が近くなるのだ。だからこそ、少女漫画の主人公たちはドキドキするのだろうし――と思ったところで、ぐいと引き寄せられた。
「濡れるぞ。あんま、遠ざかると」
「……う、うん」
 その後からは肩が触れ合う位置だ。手を繋いで歩いてもこんな近い距離になるのは中々ないから、緊張する。寂しいとか思ってた先程の自分を怒りたい。だめだ、あの位置が一番平穏だった、と思う。存外普通に歩いている安形をちらりと見上げてみた。――やっぱり、緊張しているのは自分だけかな、と思ってみたところで、ふと、彼の耳が赤くなっているのが見えた。
「……あ、」
「ん? どうした?」
 声音は何も変わっていないが、安形はこちらを見ようとしなかった。そして、その耳はやっぱり赤い。なんだ、と佐登は嬉しそうに笑った。――すごくドキドキするのは一緒だったらしい。
「惣くん」
「……ん?」
「クレープ屋まで、少し、遠回りがいいな」
 お互いの顔は見れそうにない。安形は目を見開いて、そして、自分の顔が赤いのがバレたかもしれない、と思って片手で口元を抑えた後、小さくつぶやいた。

「オレもそう思ってた」
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