二年前の春

「惣くん、おはよう」

 無事に仲直りができた恋人は下駄箱で靴を履き替えている最中、オレに気付くと振り返って声をかけた。おう、と手を上げて同様におはよう、と返すとオレが靴を履き替えるまで近くで待っていた暮は当たり前のように一緒に教室まで上がっていく。良かった、仲直りできて。
「ねえ、惣くん、昨日の宿題の……」
「……あー、そんな出てたか?」
「やっぱり忘れてた? わからないところあって……私に教えるがてらちゃちゃっと……」
「仕方ねえなぁ」
 ありがとう、と笑う暮にオレはつい顔がほころぶ。ここ一週間ぐらい怖い顔か落ち込んでる顔の暮しか見てないのもあってすごい癒される。オレが余計なことを考えてるとわかったのか暮は少し居心地悪げに視線を下げた。三年の教室に上がるまで、さほど時間はかからない。四階にある一年の教室や、三階の二年の教室とは違って三年の教室は近いし、上がる階段も他の学年とは違う。まあ、校舎の構造上仕方のないことだし、近いに越したことはない。生徒会室もそれなりに近いから重宝している。移動が便利だ。
 暮をじっと見ていると、あの頃はこんなふうになるなんて思ってなかったな、と思った。
 あの頃というのはオレと暮が開明に入学した頃の話だ。

 ――あの頃は、正直、接点なんてまるでなかったんだ。



* * *



 開明に入学したての頃、オレは初日から反省文を書かされることをしでかしたのだが――当時は校則にとても厳しい学校だった。服装、髪型(色も含め)、指定のものを使用しているかなどなど……どれだけ厳しくすれば気が済むんだというところまで厳しかった。オレはそれがとんでもなく面白くなかった、厳しいということを告げた担任に対して「適当でいいだろ」と言ったことで反省文だ。別段高校生らしい反省文を書くのに苦労する、なんてことはなかったしどうってことはないがその悪評は瞬く間に学年中に知れ渡っていたらしい。
 廊下を通る度、誰かに見られている感覚はずっとあった。

 まあ、そんな最中に迎えたのが――一学年の春に必ずあるイベント。オリエンテーリングだった。クラスごとにはこだわらず、クラス別ではなく班ごとで行動して、クラスは問わず友人を作ったり、クラス対向で何かをして結束を深めたりする開明の一年生のイベントだ。正直、オレには面倒くさい話だったが、出席しなければならない行事だったんで、無難にでた。
 ――想像に難くないと思うが。オレと暮はそこで出会った。
 だからといって、同じ班だったわけでもなければ、同じクラスだったわけでもない。本当に偶然だ。
「おっと」
「わっ」
 ぶつかったのが女子だったのは声でわかった。些か低めの声で可愛げにかける声だと――その当時はそう思ったんだ。飯ごう炊飯用の薪を抱えていた暮――当時は佐登という名字すら知らなかったわけだが――はぶつかって転んでしまった拍子にその薪が落ちていってしまい慌てて集めなおしていた。
「悪い、大丈夫か?」
「……平気です」
 はっきり通る声なのに、わざと小さく話しているようにオレには思えた。というよりも、手に持ってる薪の量が一人の女子で運ぶような量ではなかったが、暮はそれらを慌てて抱え直すと逃げるように走っていった。後に聞いた話だがその時はオレが初日から反省文を書いたという話を耳にしていてとんでもなく怖い生徒なんじゃないかと思われていたらしい。
 逃げていった暮を見ながら、暗いやつだな、と思ったのは記憶に新しい。
 特筆して言うなら地味。黒縁メガネに癖の掛かった黒髪で顔を隠していた。目つきは決していいとはいえず、猫背気味で――地味。本当に地味だった。ああいうやつもいるんだな、と思いながらオレは自分の班に戻っていったのを覚えている。
 それだけだ。
 本当にそれだけの初対面ともいい難い出会いだった。

 ――クラスも違う、部活も違う、委員会も違う。
 そりゃ接点なんて作れるわけでもなくて、オレも実際もう一度暮を見かけるまで、正直暮の事は忘れてた。次に見かけたのは何だったか、一人でクラスの掃除をしていた暮の姿をたまたま見かけたときだった。普通クラスの何人かで分担すべきことを暮が一人でやっていた。明確に押し付けられたらしい暮見た目通り、周りの押しに弱いのか一人で黙々としていた。
 何でか、目が止まった。
 途中で投げ出したって怒られるわけでも――いや文句は言われるだろうが、所詮は押し付けた奴らが悪いのに。暮は一人で黙々と掃除をしていた。オレは手伝うわけでもなく、何か声をかけるわけでもなく、一人でやっている暮を見ているだけだった。
(……一人なのか)
 感想はただそれだけだった。

 次に暮を見かけたのは図書室でのことだった。その年、暮は図書委員が当たっていてたまたまオレが図書室に来た時一人で放課後の係をやっていた。これに関して言えば、委員で受け持ちが決まっていてその時相方だった委員が遅くなっていて暮が一人で作業していたということをその場で知るが、返却されたたくさんの学校図書を一人で仕分けして棚に戻すための準備をしている暮に、やっぱり押し付けられたと思うのは妥当な流れだった。
「貸出ですか?」
 本を持っていたオレに声をかけてきた。あ、ああ、と少し困惑した返事になってしまった。本を手渡すと後ろの貸出カードを引き抜いて、貸出カードには借りた人の名前を。生徒用のカードには借りた本の名前を書いて、オレに本を改めて手渡してきた。
「返却は基本的に一週間です。忘れずに返却して下さい」
 淡々と。決められた言葉のようにそれらをいい切った暮はもう用は済んだと言わんばかりに本の仕分けに戻っていく。
「一人なのか?」
 手伝おうか、というニュアンスはなかったが、純粋に聞いてしまった。前も一人だったよな、とはいえなかったが。暮は顔を上げて、周りをきょろりと見渡した。いや、お前以外にいないだろう、と思ったのは図書室がオレと暮以外に無人だったからだろう。放課後の図書室にしては珍しかったな、と今思えば、そう思える。
 暮は首を横に振った。
「一人、委員が日直だったから。もう少しで来るはずです」
「……じゃあ、仕分けもその委員を待てばいいだろう」
 二人でやった方が早いんじゃねえの。
 暮はああ、と言った表情で目を見開いて、でも、と続けた。
「先にやっておけば早く済むから」
 まあ、そりゃそうだろうけど。一人で全部やりそうだよ、お前、といいかけてやめた。図書室への用事はそれで済んだし、とオレは少し薄情だったかも知れないがくるりと踵を返して図書室から出ていった。その入れ違いにぱたぱたと走ってきた少し気の弱そうな小柄な男子が入っていって「ごめんね、佐登さん!」と言った。――オレは初めて、暮が佐登という名前だと知った。


 勉強は上の下。国語系はとんでもなく点数がいいのに、他の教科が平均かそれを若干超えるか程度のせいで総合成績はそこそこ。体育の授業はてんでダメ。授業中にみえた限り、走りも球技もまるでいいところなし。走ればいつもビリだった。友達は多い方ではなく、話しているのを見かけたのは女子生徒一人だけ。ほかからはからかわれているのか、本人はひどく疲れたような表情をした。
 委員会でもクラスでも一人で何かをやっていることが多くて、何かと仕事を押し付けられているようにみえた。イヤと言えない性格なのか、良く一人で残っているのをオレは何度も見かけた。
 ――ここまで、見えるところで暮のことを追っている自分がいて、うわ、と思った。
(なにやってんだよ……)
 別段好みの女子というわけではないし、たくさん話しをしたことがあるわけでもない。気になるのか――と言われれば気になるが、その感情が何なのかいまいちよくわからない。興味、そうだ、興味だ。

「佐登ちゃーん」

 その名前が聞こえるとミチルとの会話中不意に視線を廊下に向けた。暮は少し小走りで自分を呼んだ生徒に近づくと少し笑った。
(あ、笑った)
 佐登を見かけてから四ヶ月あまり――。
 オレが暮の笑顔(といってもちょっと口元が動いただけだったかもしれないが)を見かけたのは結構時間がかかった。表情はあまり動かないタイプらしい。ちょっとだけかわいいな、と思ったのはその時の秘密だ。
「ねぇ、安形」
 ミチルに声をかけられて漸く意識をそちらに戻した。
「何か気になる子でもいるの?」
「別にそんなんじゃねーよ」
 昔からモテるミチルはオレの恋愛ごとに首を突っ込む気満々なのがすぐにわかった。なんだかややこしいことになりそうだ、とオレは余計なことを話すつもりはなかったが、ミチルの方もオレの話を聴く気がないのか話を勝手に進めていく。こういうところのある、中学時代からの友人だ。
「なんだかわけもわからないけど、その子の事が気になる」
 ――気になる。
「笑顔がいいなと思った」
 ――少しだけな。
「気がつくと、その子の事考えてる」
 ――……最近、そうかもな。

「二つ以上当てはまったら、恋だよ安形」

 何言ってんだ、ミチルのヤツ。
 とか思った。
 ――その日の放課後やはりオレは担任に呼び出されていて(授業態度がほめられたものではなかったからだ)帰りが少しだけ遅くなった。昼頃はきれいな青空だったはずなのに、昇降口に出てみれば鉛色の雲が辺りを覆っていて、ざぁざぁと音を立てて雨が降っていた。
「……まじかよ」
 ついに口に出た。
 雨が降るなんて誰も思ってねぇだろう。朝も昼もちゃんと晴れてたんだよ。担任に呼び出されたこともあって、つい、ついてねぇなと悪態ついたときに、茶色の折り畳み傘が差し出された。は、と思って隣を見てみれば、黒い傘を持った暮がそこにいた。
「……よかったら」
「オレに?」
「……私、置き傘と折りたたみ、あるから。……明日、傘置き場に置いといてくれたらいいから」
 暮はそれだけいうと黒い傘を差して、歩きだしていた。オレの向かう方向とは逆。お礼を言う暇も、いらないという暇もなく。確かにこれだけ雨が降っていると、夏でも風邪を引きそうだと思った。渡された茶色の折りたたみ傘を少し強く握ると、一気に頬が熱くなったのを感じた。
(……あれ)
 まじか。

 ――目で追ってしまう。
 ――笑顔がいいなと思う。
 ――つい、その子のことを考えてしまう。

(心臓、うるせぇ)
 茶色の折り畳み傘を広げて、自分の家の方向へと歩きながら雨の音に紛れない自分の心臓の音がやけにうるさかった気がして。家に帰れば、雨は大丈夫だった?と心配する母さんに、傘借りたから、と玄関にある折りたたみは借り物だと教えた。ちゃんと返しなさいよ、とおそらくはミチルあたりから借りたんだろうと思っているようだったから敢えて何も言わなかった。

 次の日、傘は直接返そうと暮のクラスに行ったら、今日は風邪で休みだと言われて――


* * *



「惣くん?」
「え?」
 目の前に暮がいた。ああ、忘れてた。
「……聞いてなかったの?」
「悪い。もう一回」
「だから、次の日曜日は惣くんの予定に一緒に行きたいな、って」
 帰り道。あの日とは違う夕焼けがきれいな放課後だった。オレは家とは逆方向に向かって――暮の家の前まで送るためにこの道を歩いている。ちなみに、オレの予定というのは近所のじいさんばあさんのゲームの相手だ。一つに勝てば次の予定を入れてくるから基本的に二週間先まで埋まってるオレの予定に暮は一言も文句を言ったことがない。じじばばっ子なんだ、と笑う暮はオレにくっついてきて、オレがゲームしてるのを眺めながらその近くにいるじいさんばあさんからゲームを習ったり、お菓子をもらったりと、可愛がってもらっている。
「いいのか?」
「うん。好きなんだ、惣くんとそうやって一日過ごすの」
 最近だと、夕食はオレの家で食べるのがお決まりになってきている。最初のうちは夕食前に家に送り届けていたが、とある時それを母さんに見つかって、なんで言わなかったのよ、と怒られ、なし崩し的に暮のことを家族に紹介し――そうやってオレの予定に付き合った後はオレの家で夕食を取ってからオレが送って帰るというパターンになっている。どうやら家族には暮は受け入れられているようで安心している。
「んじゃあ、母さんに言っておく」
「お夕飯ごちそうになるのが申し訳ないんだよなぁ……」
「お泊りにはいつくるのかしら〜、だとよ」
「うう……」
 まだ、泊まりは難易度が高いだろうな、と思いつつ暮の頭を撫でる。
 本当にあの頃はこんな風になれるだなんて、想像してなかった。――クラスも違ったし、やっぱり接点はなかった。二年になって、クラスがおなじになった時は柄にもなくガッツポーズをして、その日の生徒会でミチルの肩を前後に揺さぶって喜びを伝えた。
「あ、惣くんの邪魔になるなら……」
「邪魔じゃねえよ。オレが邪魔にしたことねえだろ?」
 繋いでいる手をぎゅうと握ると、暮はぽっ、と顔を赤くした。ここ数日、喧嘩の後の仲直り週間と言わんばかりに校内でもイチャイチャしていたが未だに暮は照れて顔を赤くする。慣れてくれないか、という思いもあるが、慣れずに顔を赤くして照れる暮もいいと思っているから困る。どうしたものか。
「じゃあ、いつもの時間にな。土曜日もいいんだぞ?」
「土曜は志穏と約束があるから」
「そっか」
 家の近くまで来て、オレは暮の手を離した。じゃあ、と言って暮が家の中に入るまで見守ろうかと思っていたが、暮が少しだけオレの手を引いた。ん? と少しだけ屈んで顔を近づけると、暮からキスをしてくれた。一瞬触れただけですぐに離れていったし、してすぐに暮は逃げ出してしまった。耳まで真っ赤にして。

(……やべぇ、ニヤける)

 手で口元を抑える。これ、どうにかしないと家に帰ったら色々言われそうだな、とオレはまた逆方向に向かって歩き出した。
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