ブリタニア皇宮――インバル宮のラウンズが待機している一室で葉巻をふかせていたクロスに声をかけてきたのはビスマルク・ヴァルトシュタインだった。
「そうだが、なにか問題でもあったか」
クロスは特段悪びれる様子は見られなかった。
「陛下は兄君であられる貴方だからこそ、任せられたのではないか」
「まあ、だろうなぁ。でも、シャルルは俺がシュナイゼルに任せるのはわかっていたと思うがな」
俺は元々、面倒なんだよ、そういうの。と大した気にする様子もなく言ってのけた男は本のページを一枚めくった。
ビスマルクが、目の前の男が読んでいる本が聖書だと気づいたのは、わずかに見えた文面からであったが、それは、クロスという男にはまったくそぐわないもののように思えた。
「シュナイゼルはすでに、宰相にと名前が上がっているし、ある程度自由にさせてやって方があの才能は生きるだろう。
――それに切り替えさせるには丁度いいからな」
「……アスナのことか。そこまで引きずっているような印象は見受けられなかったが」
「まあ、表向き。仮面のシュナイゼルはアスナが死んだ可能性を十分に理解してる。だが――アレもまだ十五歳。心と頭が完全に噛み合うなんてことはないからな」
そういいながら、クロスはソファの背もたれに腕をかけて、片足を組み上げた。
シュナイゼルに軍略を任せるために預けたのはひと月前だったが、彼は十分に成果を上げているらしい。
この分であるなら新しいエリアが開発されるまで時間はかからないことだろうし、そのエリアの内情をいかにコントロールしていくのかという点でもシュナイゼルなら問題ないだろう。
次の総督が決まるまで、きっちりと政治面を安定させて引き継ぐはずだ。
「少し多忙な方が、シュナイゼルも紛れるだろうよ」
クロスはそう言って葉巻を灰皿の上に置いた。
独特な香りが立ち込める煙はゆらゆらと空気に漂いとぐろを巻いている。
「――アスナが表舞台に帰ってくると思うのか」
ビスマルクの声に、クロスは一度動きを止めた。
そこから緩やかに笑みを浮かべて――その笑顔はどことなく悲壮な覚悟を秘めているようにも見えた――ビスマルクに向かって指をさした。
「俺の娘だぞ、ヴァルトシュタイン卿」
アレは意地でも帰ってくるさ。
そういったクロスは立ち上がり、黒いマントをはためかせた。
ラウンズのメンバーはそれぞれがそれぞれのカラーのマントを羽織っているが、クロスは黒色を好んでいた。
元々、シュヘンベルグ家の当主は黒を纏うことを義務としていることもあるのだろうが、クロスという個人が黒を好んでいたし、ビスマルクの白いマントと対になって面白いだろう、と子供のように笑っていた。
そのマントがまるで翼のように広がると、男は悪魔か、それとも天から堕とされた天使のように見える。
「今日は――娘の葬儀でな。らしく、振る舞わねばならん」
クロスは笑った。
黒い翼は静かに閉じていき、男を人間としてみせた。
「シュナイゼル様、お時間です」
シュナイゼルは従者に声をかけられて、机から顔を上げた。
まとめられている書類はあらゆる軍部の情報の羅列されたものであり、ここ数週間で考えた軍略であり、実際に採用されるかは統合幕僚府で判断されることになる。
シュナイゼル第二皇子という肩書は十分に考慮されることだろうが、無理のない軍運用を心がけ、更には勝利を収められる配置・戦略・対応を考えなくてはならなかった。
一人で作業に没頭していたのは、ちょうどいい気晴らしのようにもなったが――今日はあっという間にやってきてしまった。
コーネリアもこの日のために軍から一時的に戻ってくるらしい。
シュナイゼルは従者に促されるままに喪服へと袖を通した。
――黒は、いつも彼女が着ていた服だった。
黒と赤。
彼女を彩る最も美しい色だと思った。
赤い髪が風になびくのを見れば、心が踊った。
黒い騎士服のようなスラリとした衣装は、決して女性らしさを忘れず、大きなフリルが愛らしかった。
あの日、最後にみた彼女も――黒と赤に彩られていて、美しかった。
シュナイゼルは静かに、微笑んだ。
今日、彼女はなにもない棺桶の埋葬とともに、死んだことになる。
鐘の音が響き、すすり泣く声が聞こえる。
宮殿付きの、国教会の一番大きな教会で、遺体のない葬儀が始まった頃には、黒い雲が青い空を覆い隠しており、静かに雨が振り始めていた。
参列者たちは一様に黒い服を身につけており、従者たちはそれぞれの主人たちの傘を預かり、教会の台座の上には黒い棺桶が鎮座していた。
潜めた噂の声や、泣き声、異様な沈黙が音になったかのように突き刺さってくるのを感じながら、ラーズは白い薔薇の花をそっと棺桶の上に置いた。
棺桶の中にはなにもない。
そもそも、アスナの遺体はない。
行方不明ではあり、その生存は絶望的であったとしてもアスナの遺体がそこにあるわけではないこの葬儀は実に形式であり、簡易的なものであった。
それでも、アスナが関わりを持ってきた皇族や貴族達が参列すればそれなりの人数になったので、国教会の一番大きな教会は思ったよりも人がいた。
ラーズはそれらの人よりも前に白い薔薇の花を置くことが許され、なにもないはずの棺桶をそっと眺めて、黙祷を捧げた。
普通、葬儀に置かれるのは白い百合の花であるはずだが、シュヘンベルグ家では薔薇の花が好まれていることが多いからなのか、棺桶の中にもびっしりと白い薔薇がいれられており、棺桶の一点――城の中にポツリと浮かぶ、八重の赤薔薇がアスナの代わりというわけだった。
実はシュヘンベルグ家の当主やその後継者の葬儀でこれは珍しくないことだったのだ。
シュヘンベルグ家が背負うナイトオブサーティーの役柄は決して楽ではなく、平坦な道でもない。
それ故に、遺体が上がってこないことも多にしてある。
そのときにはこうやって、白薔薇の花弁の中にポツリと紅い薔薇を浮かべて、遺体の代わりにしていた伝統だ。
ラーズが白いバラを眺めて思ったのは、シュナイゼルのことだった。
なんだか、この棺桶はシュナイゼルみたいだ、と彼は考えてしまったのだ。
何故かは、正直わからなかった。
白い花弁の中に浮かぶ紅い薔薇がアスナなら――白い薔薇の花弁をシュナイゼルだと連想してしまったのは、彼女たちの日頃の関係が原因だったのか。
ラーズは静かに首を横に振って、姉のいない棺桶に一礼した。
そして、振り返ると、いつもの白い服ではなく、黒い喪服に身を包んだ第二皇子が従者にエスコートされながら自分の後ろにいたことに気づいた。
ラーズの青と緑の瞳が、シュナイゼルのすみれ色の瞳とかち合って、互いにしばしそのままだった。
なにか、言葉をかわすわけではなかったし、ラーズはその視線がいたたまれなくなり、不意に目をそらしてしまったのだ。
なんだか、負けたような気がしてとても悔しかったが、献花へと向かうシュナイゼルの邪魔をするのはあまりにもマナー違反だったため、ラーズは道を開けた。
シュナイゼルは好きじゃなかった。
いつだってニコニコとしていて、腹の中が読めなくて、でも紳士的で優しくて、誰にでも別け隔てがなくて――怖かったのだ、ラーズには。
そのくせ、アスナに向けている笑顔は――自分と変わらない少年のように見えて、姉もまたそんなシュナイゼルに全幅の信頼を向けていた。
シュナイゼルに黒が似合わない、とラーズは思いながら献花をするその背中を眺めた。
イメージとして白の印象が強くて、違和感があった。
シュナイゼルは静かで、しかし優美な動作で献花を終え、棺桶へ礼を済ませると直ぐに踵を返してしまった。
あまりにもあっさりしすぎではないかと思ったが、そこにアスナがいるわけではなかったし、シュナイゼルはどちらかといえばアスナの捜索を続行するようにと嘆願する側の人間だったので、こんな葬儀になど本当は出席したくなかったのかもしれない。
ただ、第二皇子の立場でそんなことをすれば何を言われるかもわからない。
アスナと懇意にしていたということは皆が知っていることだったので、形だけでも参加しようと思ったのかもしれない、とラーズは途方もなく考えた。
別に何もすることがないから、ラーズは考えることにすべてを費やしていた。
姉がいなくなった時、一番近くにいたのは恐らくシュナイゼルで、世論はシュナイゼルが狙われていたのではないかと報じた。
人々は美しく聡明で、いずれはブリタニアを支えてゆくだろう至宝であるシュナイゼル殿下を守り通した英雄としてアスナを讃えた。
彼女の死は無駄ではなかった、と報じたテレビもあったが流石にシュヘンベルグ大公爵から抗議が入ったようですぐに番組の内容は差し替えられていた。
そこで自分の前に影ができた。
――シュナイゼルだった。
幼馴染で、姉がいくら親しくしていたとはいえど、ラーズとシュナイゼルはそこまで懇意にしていたわけではなく、ラーズは不意に身を固めてしまい、礼を執るのを忘れてしまった。
後ろにいた従者に声をかけられて、自分があまりにも失礼な態度であるか気づき、慌てて礼を執ろうとして――シュナイゼルが手で制した。
いつもどおり穏やかな表情を浮かべていた彼は目に見えてわかるほど心痛そうに目を細めてラーズを見ていた。
何がいいたいのか、何となく分かる。
「――似ているね」
「……双子ですから」
恐らく、互いがきっちりと接点を持ったのはこれが初めてだったとラーズは記憶している。
ちょくちょく稽古を抜け出してはこの皇子に会いに行っているのだと知ったときは構われなくなってしまったことがすごく寂しくて姉のあとをついていって、シュナイゼルを眺めていたことはあったが――実際に話すのはこれが初めてだったと言ってもおかしくない。
奇妙な関係だと思う。
シュナイゼルはそれだけをいうと、それ以上特に用事はなかったらしい、従者に促されるままに離れていくのを眺めて、わずかに彼が棺桶に振り返ったのに気づいた。
――その表情は、あまりにも泣き出しそうな顔をしていたのがラーズにはとても意外なものに映った。
軽い棺桶はビスマルクを始めとした数名の騎士達によって持ち上げられ、墓の前に土葬される。
外は雨が降っていたが予定通りに執り行われるらしい。
ラーズたちは促されるままに外に出ていき、土葬の様子を見守る。
そこにはアスナがいないとわかっていても、何となく体が重たく感じられ、ひどく憂鬱だった。
――葬儀で献花するときも、挨拶をするときも凛々しく振る舞っていたコーネリアがたまらず泣き出したのがラーズの視界の端に映った。
シュナイゼルがそれに気づいたのか、ハンカチを差し出している。
「申し訳ありません、兄上」と涙がこらえられなくなったコーネリアが声を震わせながら謝るのに首を横に振り、シュナイゼルはそっとコーネリアの手にハンカチを握らせた。
ラーズはそれを眺めて、再び空へ視線を移した。
どんよりと重たい黒い雲から滴り落ちてくる透明な雫は誰かの涙なのかもしれない、と思う。
しかし、アスナは雨が大好きだったので、アスナの葬儀と銘を打った今日にはふさわしいものなのだろう。
ラーズは不意に隣に立っているシュナイゼルを見た。
シュナイゼルは付き人に傘を傾けられながら、静かにアスナの棺桶が土葬されていくのを眺めていた。
その表情はいつにも増して無表情だったが、ラーズと視線がかち合うと、アスナの死を悼んでいる人間として、痛ましいほど悲しい笑顔を浮かべてみせた。
(まるで、アスナと一緒にシュナイゼルの心まで埋葬されてしまったみたいだ)
ラーズはふと、思った。
シュナイゼルは元々、笑顔のたえない麗しい第二皇子であったのは知られている。
だが、アスナに向けられた柔らかな笑顔と、テレビで映るシュナイゼルの笑顔が全くの別物だとラーズが気づいたのはいつだったか。
姉であるアスナもまた、シュナイゼルに対してはラーズに向ける笑顔とはまた違う柔らかな笑みを浮かべる。
――それが、とても羨ましかったのだ。
双子の姉に恋をしているということはないし、それくらいの弁えはラーズにだってあったが、そういう姉の笑顔がすごく美しかったのだ。
それを見ることができるのが、シュナイゼルだったというのが悔しくて、いつも突っかかってしまったが――こうなってしまうと、ひどく悲しかった。
比翼の鳥は――雄と雌が揃っていないと、残された片方はみるみる弱っていってしまい、いずれ死んでしまうのだという、という言葉を思い出した。
シュナイゼルは心を殺してしまったように思う。
いや、もしかしたら、元々彼はそうしてきたのかもしれない。
ああ。
ラーズはそこで気づいた。
(あの白い花びらがシュナイゼルに見えたのは、これがシュナイゼルの心だったからか)
今、埋葬されているのはアスナではない。
アスナの形をした、シュナイゼルの心が埋葬されているのだとラーズは気づいてしまった。
そう思ってしまえば全てに納得がいき、この葬儀の痛烈な違和感もすとんと落ちてなくなってしまった。
比翼の鳥、とかそういうレベルではなく、アスナという人間はシュナイゼルの心の唯一だったのかもしれない。
だから、白い花弁の中に浮かぶ八重の赤い薔薇が埋められることはシュナイゼルにとって耐え難いことだったのだと思う。
シュナイゼルは唯一を亡くした。
ラーズもまた唯一の半身を亡くした。
その事実だけは誰にも揺るがないものとして足場を固めてしまい、ラーズは今すぐにでもここから逃げ出したくなってしまった。
死んでない、と心が叫んでいるのに、その心が今、シュナイゼルの目の前で埋められていってしまっている。
その事実をシュナイゼルはどう受け止めているのか、ラーズには皆目見当がつかなかった。
ラーズは無意識のうちに拳が強く握り込まれていたのだろう、手のひらから血が伝って落ちた。
引き裂かれた皮膚の痛みがじわじわと自覚できるようになってくると、自然と涙がこぼれてきた。
最悪だ。
本当に最悪だ。
手からこぼれた血と、瞳から溢れてきた涙がみっともなくて、ラーズはとんでもなく悔しかった。
きっと賢いシュナイゼルなら、心がどれだけアスナの生存を望んでいたとしても、頭では彼女の生存がどれほど望みの薄いことか理解してしまっているのだろうと思ったら、泣かずにはいられなかった。
姉を失った悲しみも、ラーズの中にはたしかに在った。
でも、それ以上に今は、目の前で土葬されているものの正体があまりにも悲しくて、苦しかった。
唇をかみしめて、あの棺桶に土が被せられていくのを見ていられなくなって顔を伏せれば、父の大きな手がラーズの頭に乗せられた。
もしかしたら、父は気づいているのかもしれない。
今、目の前で埋められているのは娘の遺体の代わりではないと。
白い薔薇の花弁に守られた赤い薔薇の棺桶は雨に濡れて湿った土を被せられてどんどんと見えなくなっていく。
見えなくなっていけば行くほどに、隣に立っているシュナイゼルの感情が見えなくなっていくような気がした。
土葬が終わるまで、まるで目をそらそうとしなかったシュナイゼルはやっぱり無表情で、悲しそうとも、つらそうともラーズには読み取ることができなかった。
シュナイゼルは手を握りしめている様子も、唇を噛み締めている様子も、泣いている様子も、怒っている様子も、なにもない――ただの無だった。
棺桶が土に覆われていくのを見ると、急速に何かが冷めていくような感覚がしてシュナイゼルは笑うこともできなくなっていた。
コーネリアが隣でついにこらえきれなくなって泣いた。
堰を切ったように泣き出すコーネリアが正直羨ましく感じたが、同時に何か冷めたところでシュナイゼルは眺めており、ハンカチを差し出したのも殆ど社交辞令に等しかった。
ユーフェミアやナナリーが声を上げて泣いて、ルルーシュにすがっているのが見えた。
ルルーシュは必死に涙をこらえていたようだったが、聡明な紫水晶の瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
それでも、二人の前では泣くわけにはいかないと、唇を噛み締めている。
――自然と、涙は出てこなかった。
(だって、あそこにアスナはいないじゃないか)
泣く理由がわからなかった。
あの花のように美しく笑う彼女の遺体がそこにあるわけじゃない。
アスナが生きていないとしても――と思考したところで、シュナイゼルは誰にも気付かれないように嘲笑した。
(なんだ、私はもう理解してしまっているじゃないか)
アスナはほぼ、生きていないだろう。
生きていても、ここに戻ってくることなどありえない。
自覚してしまえばあっさりだったというのに、シュナイゼルはちりちりと心臓の奥が痛んだような気がして、そこにはもうなにもないはずなのに手を当てて握りしめた。
少しだけ。
ほんの少しだけ息苦しくて、耐えかねて口から息を吐き出した。
雨の中、傘を差して笑っていたアスナを思い出した。
ハイドレインジア(紫陽花)の花が咲く庭園に雨の中、赴いていっては――遠い日本では雨の振る時期に咲くんだよ、と楽しそうに笑った。
やはり、傘も黒かったが実はこそりと彼女は薄紫色の傘を持っていたことをシュナイゼルは知っている。
父たちにばれないように持ち出したそれに二人で入って、庭園を歩いたこともあった。
彼女は雨が好きだった。
(雨はすべてを隠してくれるから)
あまり外に出るのが好きではなかった彼女は雨の日だけは外に出ることを好んだ。
(雨の音の中では、相手の声が澄んで聞こえるから)
傘の向こう側で笑った君の笑顔が。
焼き付いていて離れない。
シュナイゼルは従者に傘を閉じるように言った。
従者は濡れてしまいます、と慌てて言い募ったが、シュナイゼルは首を横に振った。
雨は、シュナイゼルのブロンドを濡らして、落ちる。
――棺桶は完全に埋められた。
* * *
雨に濡れた体をシャワーで暖め、シュナイゼルが漸く寝室に戻ってきたのは夜も深く、濃くなった頃合いだった。
窓を叩く雨の音は次第に強まってきており、雨が収まる気配は一向になく、このまま行けば明日予定されていた新しい薔薇の品種発表会への参加も皇室の警備全般を取り仕切る帝国特務局より中止か延期の話が入るだろうとシュナイゼルは考えながら手触りの良いタオルで頭を拭いた。
すでに使用人たちはすべて下げており、部屋にはシュナイゼル一人となっていたせいもあって、強い雨足の音は妙に大きく響いている。
それが気になって集中が途切れるとか、イライラするといったことはシュナイゼルにはなかったが――今日は何をするにしても気分が乗らない。
ナイトガウンのまま椅子に腰掛けた。
なにかしようと思ったわけではないが、まだベッドに入って眠る気にもなれなかった。
前にもこうやって眠る気になれないときはどうしていたかと考えて、シュナイゼルは適当に本棚から本を引き出してきた。
政治概論である。
今、最もシュナイゼルが求められている分野であり、シュナイゼル自身も自分の適格を認めている分野であった。
勉強するに越したことはない。
常に誰かに求められる存在であるのが皇族なのだから、どんな状況になっても対応できるようになっておかなくてはならない。
シュナイゼルが周りから――少なからず、母を支援している貴族たちから――求められているのは完璧な第二皇子だと一番理解しているのは、シュナイゼルだ。
誰に言われるまでもない。
幼い頃から、物心がつく前から大人たちはシュナイゼルに期待した。
それをシュナイゼルは悪いとは思わない。
第一皇子オデュッセウス・ウ・ブリタニアはあの苛烈な皇帝からよくも生まれ落ちたものだと思われるほどに穏やかで、掛け値なしに優しい人であった。
その優しい人柄はすでに国民からの人気も高かったが、優しいだけの人物が皇帝になれるはずもなく。
第二皇子であり、第二皇位継承者であるシュナイゼルに比べれば確かに皇位継承権は上位であったし、唯一シュナイゼルより上に立っている人物であったが、何分にせよ凡庸な人であった。
その優しさは美点であるとシュナイゼルは思う。
だが、周りの貴族やシュナイゼルの母エレオノールはそれこそ、愚かだと罵った。
弱肉強食を掲げる父のもとではあまりにも兄は無力な存在なのだろう。
そういった経緯もあってか、シュナイゼルの卓越した頭脳は早いうちから日の目を見た。
母の期待がエスカレートしていくのも無理はなかったし、元々、シュナイゼルは自分の欲求が強い人間ではなく、他者の期待に答えていくのにためらいがなかったこともそれを助長した。
その美しい容姿と卓越した頭脳はまたたく間に宮殿に知れ渡り、人々はシュナイゼルこそが次のブリタニアを支える人間だと彼を称賛した。
その期待と賞賛はこれからもシュナイゼルについて回ることだったが、シュナイゼルは概ねそれを嫌っていない。
――興味がなかった。
興味を持てるほどのことではなく、ただ、それは皇族であり、第二皇子としての義務だとシュナイゼルは考えていた。
父――皇帝シャルルは中華連邦の内政が崩れかけたことを機に、内政よりも先に他国の侵略へと目が向いた。
侵略したそれらをエリアとして、属領とすることはいいが、何分、侵略の規模が大きすぎる。
これではいずれ破綻することが目に見える。
武力によって侵略された国は、ブリタニアへの憎しみをつのらせ、いずれ、ブリタニアを滅ぼすために力を蓄えることだろう。
それらもすべて利用し、エリアから利潤を得、ブリタニア本国を潤わしていく人材が今、すぐにでも国政に求められている。
それに自分の名前があがっているのなら、そうなるべきなのだろう。
『皆に優しい世界がいいなぁ』
そう言って微笑んだ、彼女の顔がちらついた。
アスナは薔薇園の四阿で、シュナイゼルにそう語った。
「皆に優しい世界、か。君らしいね」
実現不可能だろうと、シュナイゼルはどこか頭の奥で冷めた考えを持っていた。
人は、絶望的なまでにわかりあえない。
わかりあえないからこそ、世界では絶え間なく誰かが争い、傷つき――。
「だって、シュナイゼルが傷つくのはいやだもん」
アスナはそう言ってはにかんだ。
「大好きな人が傷つくのはとっても悲しいから。私、シュナが笑ってるのが大好き。でも、それって無理して笑ってほしいんじゃなくて――」
アスナは傷んでいる薔薇の花を摘み取ってかごの中へ入れた。
その優しい瞳で、美しい白薔薇を映し、まるで尊ぶように繊細な手付きで触れた。
「シュナが心から幸せだなって思える時に笑ってほしいの」
――人は、その感情を愛おしいと呼ぶのだろう。
「私はそんなに笑ってないかな?」
「んー……違うんだ、きっと。シュナは皆の期待に応えられちゃうし、何でもできるし、すごいから、笑っていたほうが円滑に進むって知ってるって感じ」
アスナはそう言うと、シュナイゼルに向き合った。
「大人って、皆嘘つきだから。私も良く、表では褒められるけど、裏ではこそこそ言われるの」
困ったように笑って、シュナイゼルの手を握った。
「君の考える優しい世界は、嘘のない世界?」
シュナイゼルはその手を握り返して、笑いかけた。
細い指は手袋に包まれ、その白い肌は隠されている。
だが、かすかに、アスナのぬくもりが感じられる。
違うと笑う彼女。
「シュナイゼルや私が人前で仮面を外しても、怒らない世界かな」
「そうなったら、私も君も楽だね」
そこで、気がついた。
アスナのいう「皆」というものが、シュナイゼルとアスナだけだったことに。
それくらい、シュナイゼルとアスナは小さな世界生きていたのかもしれない。
もしかしたら、アスナのいう皆の意味には本当はもっと広い意味があって、わかりやすいようにシュナイゼルと自分だけを引き合いに出したのかもしれない。
だが、少なからずあの世界には二人きりだっただろうとシュナイゼルは思う。
アスナがいない世界で、そんなことに正直価値は感じない。
アスナがいなくなった時点で、シュナイゼルが仮面を外せる場所はなくなってしまった。
ただのシュナイゼルを必要とする人はいなくなった。
それでも。
それでも、誰かに優しい世界をアスナが望んだとするならば――
(私は、それを叶えなくてはならない)
――こんこん。
シュナイゼルの思考を遮ったノックの音に、今まで自分が思考にふけっていて何も読書が進んでいなかったことに気づいたシュナイゼルは現実に戻ってきた。
すでに使用人たちも下げていたため、この部屋まで入ってくる人間はいないはずだった。
シュナイゼルは静かに椅子から扉の方を見つめて、少し喉が乾いたような感覚がしながら小さく、どうぞ、と言った。
雨の音が響いているとはいえ、静寂な室内。
声は扉の向こう側の人物にも届いたらしい、ドアは少し控えめに開かれ、廊下についている明かりが僅かに薄暗い部屋の中に入り込んでくる。
入ってきたのは女性だった。
シュナイゼルには見覚えのない人であったが、彼女は遠目でもわかるほど上質なシルクの薄手の足元まで覆うネグリジェを身に着けており、柔らかでつややかな黒髪は肩にかかり、彼女がシュナイゼルに向かってお辞儀をしたとき、まるで絹糸が音を立てるかのようにさらさらと流れていった。
「お初にお目にかかります、シュナイゼル殿下」
まるで駒鳥が鳴くような可憐な声だった。
彼女はニコリと笑うと、静々とした動作でシュナイゼルが座っている椅子に歩み寄ってきた。
ああ、なるほど。
(そういうことですか、母上)
皇族の、しかも皇位継承権が上位の男子ともなれば、当たり前とも言えることだが――自分の次の世代を作るために、性交渉は必要な教養だった。
ある一定程度の年齢になれば、そういう女性が回されることもあるというのは何となく察していることだったが、これまでアスナが傍にいたせいで、考えることもなくなっていた。
そもそも――アスナが自分の隣にいることを疑わなかった。
だが、母たちの考えは違ったということだろう。
元からシュヘンベルグ家の令嬢とはいえ、剣を握り、血のように赤い髪をしている不吉な双子の片割れであるアスナを嫌っていた母たちのことだ、こういった機会をずっと狙っていたのかもしれない。
いや、もしかしたら――。
こういう機会を作り出したのは、母なのかもしれない。
シュナイゼルの中で開けてはならない、気づいてはならない何かの扉を開けてしまったような気分になった。
だが、目の前の女性はそんなことも気付かず、シュナイゼルの前に膝をついた。
目の前の人はシュナイゼルよりも幾分か年上の、そういう手管を教えるための女性であるから、柔らかく優しく微笑む。
――それが、私の義務なのだと。
シュナイゼルは寝台に手を引かれ連れて行かれると、女性の細いしなやかな手でナイトガウンをゆったりと脱がされる。
抵抗はしなかった。
ただ、流されるようにシーツの中に沈めば、何も考えなくて済むかと一瞬は思った。
女性の指や、唇がシュナイゼルの体に触れる。
柔らかく、良い香りのする女体は成熟した大人のもので。
香った、香水の匂いに、シュナイゼルは吐き気がした。
明確な嫌悪感は拭えないが、一つも顔に出すことはしなかった。
初めてであるシュナイゼルをリードするように動く女性は全く気づいていないようだった。
これから、こういうことも増えるのだろう。
母やその周りから与えられる一晩だけの女性たちと過ごす夜が、確実に増えることをシュナイゼルは悟った。
(違う)
握られた指は女性らしく細く、柔らかい。
爪は美しいネイルで着飾られ、闇の中でもわかるほど。
(この指じゃない)
触れてほしいと思ったのは、もっと乾燥していた手だった。
いつでも、剣を握って、傷だらけになり、冬になればあかぎれで指先が割れていて、見ているこっちが痛くなる手。
そんな手が愛おしかった。
重ねられた唇は柔らかく、潤んでいた。
甘く香る柔らかな唇が重なり、何度も角度を変えて繰り返されるキスにシュナイゼルは目を閉じることはなかった。
ただ、これは義務による行為だと、割り切っていた。
皮膚の熱が、伝う汗が、過ぎ去るのをただ待つ。
女の嬌声が耳につき、わずかに顔をしかめてしまったが、快楽にこらえる顔のように見えたらしく、何かを言われることはなく、ただ、うわ言のように殿下、殿下、と猫なで声でシュナイゼルを呼ぶ声が聞こえた。
他人事のように思えた。
頭や心と、体は全く別物のように切り離され、男としての性に逆らわず、快楽を享受しているのがただ、ひたすらに気持ちが悪かった。
そもそも、シュナイゼルはそういうことに淡白だったのも原因かもしれない。
シュナイゼルの父、シャルルには百八人の皇妃がおり、それらの醜い争いを間近で見てきたせいもあるかもしれないが、女性にうつつを抜かす気持ちはいまいち、理解できず、また、性的なことにも殆ど興味がなかった。
誰かが潔癖症なのでは、というが、今、まさしくそうかもしれないとシュナイゼルは思った。
父親への形にならない嫌悪感が、こうしてはっきりと形にされると心がついてこないかとも思ったが、妙なほどに自分自身は冷淡にそれを受け入れていて――つい笑ってしまった。
(……そうか、こんなものか)
失望、に近い感覚だったかもしれない。
シュナイゼルは響いた嬌声を少し乖離した意識で聞きながら、欲を吐き出した。
役割を終えた女性を余韻に浸る間もなく優しく、しかし冷たく引き離すとシュナイゼルはバスルームへと向かった。
そこにはすでに従者たちが待ち構えており、彼らは今日のことを知っていたのだと悟る。
シュナイゼルは一瞬目を伏せたあと、何事もなかったかのように「すまなかったね」とすでに役割を終えて休んでいるはずの従者へ声をかけた。
「シュナイゼル様、その」
「母上からの命令だろう? ――大丈夫だよ」
シュナイゼルはにこりと笑って、一人で大丈夫だという意味合いも込めてそう言うと、従者からタオルを受け取って、脱衣所から姿を消した。
シャワールームに入り、熱い雨が降り注ぐのを感じながら頭を壁に預けた。
「……アスナ」
シャワーの音にかき消されそうになるほど小さな声でその名前を呼んでみても、届きはしない。
熱い雨に溶けて、消えて、排水口へと流れていってしまうそれを眺めながらシュナイゼルは髪をかきあげて、首を振った。
アスナの紅い髪や蒼と緑色の瞳が、もしもそういう場面になれば、どう踊ったのだろう。