アスナがいなくなった、という事実はまたたく間に情報が広がっていく。
シュヘンベルグ家やラウンズが手を尽くしていたようだが、情報の拡散は留まらなかった。
そもそも、アスナはシュナイゼルの婚約者という立場だった事もあって、各TV局はこぞって、シュヘンベルグ家のこの失態を報じた。
シュナイゼルも、婚約者の捜索を切に訴えた。
切なげに目を細め、自分を守り通してくれた、勇ましい婚約者がひどい目にあっていると思ったら――と言葉をつまらせた美しい第二皇子はテレビ映えし、その映像はしばらくの間、テレビで流されることとなった。
が、それでも、一つの情報も入らないまま、二ヶ月が過ぎた。
その事実が、アスナの生存は絶望的だという空気を、皇宮全体にもたらした。
もちろん、シュナイゼルやクロスたちがアスナの生存を諦めるわけがなかったが、捜索をするためには軍部や警察を動かす必要性もあり、これほど情報が集まらない中で、最大値を投入し続けることが、無理に近くなっていた。
こればかりは、どれほど大きな権限を持っていても難しいことで、アスナがいなくなってよかったと思った貴族たちが影で、職権乱用だと口にしていることが、シュナイゼルには腹立たしかった。
その間にボワルセル士官学校では卒業式が行われ、主席であったアスナが行方不明になったことから、次席だったコーネリアが主席として卒業した。
ラーズも卒業を機に、ブリタニア軍に所属することとなり、月の末から早速配備があるということで、彼はバタバタと駆け回っている。
気付けば、コメンテーターの話しはその場の皇族が誰一人として被害を受けなくてよかったという話にすり替わっており、アスナは皇族を守り誘拐された英雄とまで言われている始末。
それらを耳にする度にコーネリアは反論し、ラーズは怒り、ユフィやナナリーは泣いた。
アスナは自分が狙われていたはずなのに。
そもそも、このシュヘンベルグ家で起こった誘拐にはいくつかの疑問が残っている。
シュヘンベルグ家は帝都ペンドラゴン、セントダーウィン通りにあるれっきとした離宮の一つに居を構えている。
すなわち、皇族の許可がなくては通ることのできないところにある城に彼らのような者が立ち入ったのはおかしいことだった。
貴族たちの中には「皇族の中の誰かが、手を引いたのだろう」という始末。
しかし、シュナイゼルもそうとしか考えられなかった。
誰かが手引きしなければ、シュヘンベルグ家の離宮――ライブラ離宮であんな不手際が起こるはずがなく。
シュナイゼルは後に自らが調べて知ったことであったが、非常用電源が壊されており、通常電源もサーバーがダウンしていて復旧に時間がかかっていた。
あの白煙は煙のみが発生する装置が会場の四隅に仕掛けられており、暗転と同時に起動するようにシステムが組まれていたらしい。
明確に計画的な犯行であり、シュヘンベルグ家に近いものがいなければ不可能だっただろう。
現在、シュヘンベルグ家では使用人たちを含め、ラーズもクロスも事情聴取を受けている。
もしかしたら、その使用人は紛れ込んでいただけで、とっくに姿を消しているだけかもしれない。
それほど、警備が緩かったなどと誰も思わないが――シュヘンベルグ家にとっては双子の誕生日パーティーはお祭り騒ぎに近く、外部からも使用人の応援を頼むのでありえない話ではなかった。
皇帝陛下臨席のパーティーで起こったことだったため、ことが大きくなっているが、皇帝陛下は事情聴取が済み次第クロス・ラーズを含めたシュヘンベルグ家の謹慎を解いた。
あっさりとした謹慎の解放に多くの貴族たちからは陰口を叩かれたが、クロスはどこ吹く風だ。
もしかしたら、皇帝やクロス、ビスマルクあたりはアスナの誘拐についてなにか掴んでいる可能性もあったが、シュナイゼルには何一つ、その情報が伝わってくることはない。
アスナの存在はまるで霧のように消えてしまった。
シュナイゼルの前から、皆の前から、あっさりと消えてしまった彼女を捜索する手、案ずる声が少しずつ消えていくのを、ただ一人、シュナイゼルだけは感じ取っていた。
シュナイゼルの気がかりは――愛したあの人が忘れ去られてしまうこと、ただそれだけだった。
* * *
――シュナイゼルは、薔薇園にいた。
ノーザンブリア寄宿舎は現在サマーバケーション真っ最中であり、寮に留まる理由もなかったシュナイゼルはブリタニア皇宮へ戻ってきていた。
薔薇園はアスナがいた頃のまま、シュヘンベルグ家から警備が出されており、シュナイゼルの姿を見ると皆、少し悲痛そうな顔を浮かべたあと、敬礼をした。
四阿の薔薇は夏の日差しを浴びて、先程誰かが水をまいたのだろう花弁に残っている水滴が光を反射して輝いている。
世界と個人の心は比例しないとシュナイゼルも理解していたが、流石にやりきれなかった。
――シュナイゼルはその感情の行き場を失ったのだ。
シュナイゼルの感情を受け止めてくれていた人が目の前から消えてしまって、すでに二ヶ月。
自分でもどうしていいかわからないままだ。
誰かに話すこともできず、ただ、離宮にいることもできずに薔薇園まで来てしまった。
(ここにくれば、君に会える気がしたのに)
そこは無人だった。
何も変わっていないその場所は無人のまま、美しい薔薇を咲き誇らせていた。
当然といえば、当然なのに、やりきれない気持ちが行き場をなくしていて、ただただ、胸が苦しかった。
ふと、気付けば、シュナイゼルはアスナが自分に背を向けて立っていたことを思い出して、わずかに唇を噛み締めた。
彼女の腕は、足はもしかしたら、あの時震えていたかもしれないのに、と思い返してはあの手を離してしまった後悔ばかりに心を痛めていた。
大多数の者が、すでにアスナを死んだものと考えていた。
二ヶ月、まるで音沙汰がないこと。
誘拐された時致命傷にもなりうる傷があり、なおかつ芝生に残っていた出血量が致死量に達しそうだったこと。
が、大きな原因である。
シュナイゼルも客観的に見れば、アスナは死んだものだと考えるだろうし、こうしてやりきれない心とは裏腹に頭だけは冷静にアスナが戻ってこないことを理解しようとしていた。
心と頭が噛み合わず、追いつかず。
ただ、フラフラと誘われるようにしてシュナイゼルは四阿へと足を進めた。
六月の頃に比べて、花の付き方は変わったが――今もなお綺麗に薄桃色の薔薇が咲くチャペルは美しかった。
四阿の中は、外の暑さとは違って心地よい涼しさがあり、アスナはここが好きだった。
緑の香りが、心地よいと笑う。
冷たい紅茶を持ってきて、読書をし、チェスをし、話をした場所にシュナイゼルは一人で腰掛けていた。
「やっぱり、ここか」
聞こえた声に顔を上げてみれば、珍しくラウンズの礼装を着ている伯父の姿が四阿の入口にあった。
その後ろには背の高いガラスのグラスにたっぷりと氷の入った紅茶を持っている執事――オズワルドの姿。
「いいか?」
「……どうぞ」
シュナイゼルはいつものように微笑んで、伯父に対面を勧めた。
クロスは四阿の中に入ってくると対面側に腰掛けて、オズワルドがレースのコースターの上に紅茶をそれぞれ置いていくのを眺めた。
オズワルドは紅茶だけ出し終わると静かに一礼した。
「アスナのことで、何かありましたか」
「……うん? 何、お前とお茶がしたかっただけだよ」
クロスはそう言って美しい模様の描かれている陶器製ミルクピッチャーを掴んだ。
それをアイスティーの中へと入れてくるくるとかき混ぜる。
まだらなその模様を描いているうちに、クロスはストローを咥えて、一口それを飲んだ。
「枢密院はアスナの捜索を取りやめるそうですね」
シュナイゼルはストローで紅茶と氷を混ぜながらつぶやいた。
クロスは動きを止め、シュナイゼルを見る。
表情から感情は伺えなかった。
「……誰から聞いた?」
「否定なさらないのですか?」
シュナイゼルは恐ろしいまでに美しい笑みを浮かべる。
「母上が残念がりながら話しておりましたよ。――なんて、惜しい子をなくしたのでしょう、なんて、」
――白々しい、と冷たくつぶやいたその唇で、シュナイゼルは紅茶を飲む。
少し濃い目に淹れられているそれは、シュナイゼルも何度も飲んだことがある味とそのままだ。
何も変わっていないはずなのに、何もかもが変わっている。
――あのときは確かに美味しいと感じたはずの紅茶がなんだか味気ないもののように感じた。
「それで? 次はアスナの葬儀ですか?」
「……秋口にはな。枢密院はアスナの捜索を取りやめるが、俺のラウンズの権限であくまでもMIA(戦時不明者)と同じ扱いにする」
「何も変わっていませんよ。――それはアスナを死んだものとみなすということではありませんか」
シュナイゼルはそのロイヤルパープルの瞳でクロスを見て、言い放った。
「はっきりとおっしゃったらどうです。――アスナは死んだから諦めろ、探すなと」
「……そう、やさぐれるな。気持ちはわかるが」
クロスは困ったように笑う。
愛する人を突然失ったことに心と頭がまるでついてきていないのは明らかだった。
誰もそんなシュナイゼルの心情を無視して、アスナは死んだだの、いなくなって寂しいなどと思ってもいないことを周りが口にするものだから。
シュナイゼルは第二皇子としての体面を捨てられない。
本当は今すぐにでも、怒鳴り散らして、アスナを探せと命じることだって不可能ではないのに――シュナイゼルのギリギリの理性がそれを押し留めている。
いや、もしかしたら――頭の中では理解しているのかもしれない。
アスナはもういない、諦めろと心とは乖離した冷静な頭がシュナイゼルにそう告げていたのかもしれない。
――そう考えると、この少年は非常に哀れだとクロスは思う。
自分の感情の吐き出し方も知らないままでは、感情を潰しているのと一緒だ。
それでなくても、感情の動きに乏しいと感じることもあるシュナイゼルだ。
それはより一層顕著なものになるのだろう、とクロスは思う。
だから、少しだけ、哀れな少年にサービスのつもりだった。
「シュナイゼル、アスナは生きているよ、恐らく」
その言葉に、初めて、シュナイゼルの仮面が揺らいだ気がした。
美しいすみれ色の瞳を大きく見開いて、クロスを見つめているシュナイゼルにクロスはどこまでも優しい笑みを浮かべていた。
シュナイゼルは落ち着きを取り戻したのか、再び仮面の奥に感情を引っ込めてしまうと、穏やかな笑みを浮かべた。
「気休めですか」
「どう捉えるかはお前次第だ。――だが、生きていたとしても今のお前には捜索する力もなにもないが」
クロスは紅茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。
「この国には皇子、皇女が山程いる。――シャルルには百八人の皇妃がいたからな」
そういいながら、四阿の外。
美しい陽光を浴びる薔薇の花たちを眺める。
「だが、ものになる皇子や皇女は多くないだろう。オデュッセウスは優しい為政者にはなるだろうが、皇帝の器ではない」
もしも、オデュッセウス派の人間がいたら大変なことになっていたのではないかなとシュナイゼルは頭の端で考える。
「シュナイゼル、この国は、シャルルは弱肉強食を――力を国是としている。なら、お前がアスナを手に入れたいと思うならやることは一つだけだ」
そう言って、クロスはジャケットの内側から黒い封筒を取り出した。
「俺を利用しろ。使えるものをすべて使って力をつけろ。
――そうすれば、アスナへの手がかりだっていずれ、お前の手元に来る」
それは俺からのプレゼントだ、とクロスはいうと四阿から出ていった。
彼の気配や足音が完全に消えるまで、シュナイゼルはただ薔薇園を眺めていた。
からり、と紅茶の中に入っていた氷が音を立てたことで、漸く現実に戻ってきたような気分となり、黒い封筒を手にとった。
シュヘンベルグ大公爵の蝋封がされたそれを開ける。
そこには一通の手紙が入っていた。
手紙は簡単に言えば、仕事の話である。
EU方面への進軍計画書の作成に関すること、方制定に関することなど多岐にわたるが、突き詰めて言えば宰相――帝王制のブリタニアにとっては、政治面でのトップに当たる――の仕事内容とほぼ同一なものだった。
伯父の言いたいことはなんとなく、察せられた。
(伯父上は私に宰相になれ、とおっしゃっているのだろうか)
力こそ国是。
その力のあり方は様々だろう。
今、シュナイゼルが持ちうる力でアスナに関する情報を多く得ようとするなら、確かに――宰相の地位につくのが最も近い気がした。
シュナイゼルの優秀さはすでに内外にも知れ渡っているし、学業の途中だが実力を示せば、シャルルはシュナイゼルを宰相へと任命することもいとわないだろう。
(……アスナなら、なんて言ったかな)
手紙を握りしめて、シュナイゼルは考える。
彼女なら、なんて言ってくれただろう。
今まで、二ヶ月会わないなんて、当たり前にあったことだったのに――。
今はただ、苦しかった。
いつか、この苦しさも忘れてしまうのだろうか。
アスナが傍にいないことに、慣れてしまうのだろうか。
アスナがいない日常を当たり前だと思ってしまう日が来るのだろうか。
もしかしたら――アスナ以外の女性が自分の隣に立つ日が来てしまうのだろうか。
そう考えると、少しだけ恐ろしかった。
四阿はいくら日陰になるとはいっても、周囲の気温は高く寒いなんてことは決してありえないはずなのに、全身が凍えるように冷たい気がした。
――固く握った手に添えられる手はそこにはない。
アスナがいない四阿に夕暮れ時までいたあと、シュナイゼルはおとなしく、自分の母が待っている離宮へと戻っていった。
侍従たちはシュナイゼルが帰ってきたことにほっとしたような表情を見せる。
あまりにも帰りが遅くて心配したのだろう。
最終的にはアスナが連れ去られたとはいえ、皇宮内で誘拐時間があったばかりだ。
使用人たちの心配も頷ける話だ。
それに、シュナイゼルが逃げるはずがない、逃げられるはずがない。
シュナイゼルは一度部屋に戻ることを侍従たちに告げて、長い回廊を歩き、部屋へと向かった。
夕暮れは、昔から好きではなかった。
――彼女と別れなくてはならなかったから。
(夕日の赤は、鮮烈までに君を思い出させる)
お別れの時、いつも寂しそうな笑顔で見送ってくれる彼女を思い出した。
(泣いていないだろうか)
意外と寂しがり屋で、泣き虫だった。
(怖い思いをしていないだろうか)
本当は誰よりも弱いのに。
(痛い思いをしていないだろうか)
強がっているけれど、本当は痛いのが嫌いだった。
騎士であろうと、シュナイゼルの前ではいつも笑っていてくれた。
シュナイゼルは目を細めた。
――死んでいると、自分の中の自分が言う。
アスナは生きてなどいない、あの出血量、正しい治療を受けなければ直ぐに死ぬ。
連れ去られた先で、アスナが生かされている保証などどこにもない。
もしかしたら、ひどい暴行や拷問、尋問を受けていることだってありえるのだ。
頭ではちゃんと理解している。
恐らく、体も理解している。
――ただ、ひたすらに心がついていかない。
理解をしても、納得しようとしない。
(こんなことでは駄目だというのに)
一人のことに執着しているようでは駄目だ。
自分はもう、誰からも求められる完璧な第二皇子シュナイゼルでなければならないのだから。
(だって、仮面を外してくれる人はもういない)
穏やかに笑って、手を伸ばしてくれて、愛おしんでくれたあの人はもう――。
「シュナイゼル、ここにいましたか」
シュナイゼルの思考はそこで途切れた。
「はい、母上」
現れたのはエレオノールだ。
美しい金の髪は、美しい宝石の髪飾りで彩られており、薄めのヴァイオレットカラーのドレスは母の儚い印象によく合うものであろう。
昔、アスナがシュナイゼルに「シュナは、母君に似たのですね」と笑顔で話してくれたのを思い出した。
――確かに、似ているのだろう。
その姿を見た途端、シュナイゼルは彼女が望む息子の仮面をかぶって、優しく微笑んでみせた。
「なにかございましたか」
「……いえ、大したことでは」
扇で口元を隠しながら、母は言いよどんだようだった。
この状況で息子が笑っていることが少しばかり信じられないという表情のようにも見えたが、母や周りの貴族たちが自分に新しい縁談を持ってこようとしていることにシュナイゼルはすでに気づいていた。
「アスナはMIA扱いになるそうです。大々的な捜索はもうされないとのことですよ、母上」
シュナイゼルがそう言うと、母の肩が一瞬震えた。
「そうですか」
声の震えなどは一切見られず、母はいつもと同じ表情をしていた。
「仕方ありません。出血量も多かったですし、何より誘拐されてから二ヶ月、何の情報もありませんから」
シュナイゼルは母の求める息子であろうと決めた。
それが一番邪魔をされない方法で間違いないだろう。
「それと、伯父上から仕事を賜りました。軍計画について私なりの見解と、白ロシア戦線での戦略を立ててほしいということでしたので――しばらく忙しくなりそうです」
「……それは、精一杯励みなさい」
「はい、もちろんです」
シュナイゼルはにこりと笑った。
エレオノールはシュナイゼルの元へ歩み寄ってくると、その肩にそっと手をおいた。
もう片方の手はシュナイゼルの白い頬を優しく撫でる。
愛おしむように。
優しく、柔らかく、母の白い手がシュナイゼルの頬をなでていく。
「貴方は私の息子です。――わかっていますね」
その目は果たして息子に向けられる瞳だっただろうか。
確かに女としての色を灯すその瞳が、シュナイゼルは――恐らく嫌いだった。
それでも、シュナイゼルは仮面をつける。
壮絶なまでに美しい笑みをその顔に浮かべて、母の手にそっと自分の手を重ねた。
「わかっていますよ、母上」