どうか、壊さないで

 アスナが目を覚ましたのは、それより時を遡る。
 アスナが目を覚ましたのは昏い石牢の中であった。
 窓はなく、周囲は岩壁のようなもので囲われており、唯一光が差し込んでくるのは鉄格子の向こう側に置かれている心もとない蝋燭の明かりだった。
 気付けば自分の服は、誕生日のときに着ていた豪奢な装飾のついた黒い騎士服ではなく、白い貫頭衣だった。
 ゆったりとして、見た目だけならば病院で、傷病者が体を癒やすために着ているそれと大差ないように見える。
 しばらく周囲を見回して、アスナは石牢の向こう側に自分を見下ろしている少年がいることに気づいた。
 美しいブロンドだったのだろうが、わずかにくすんで見えたのは周囲の埃で空気が良くなかったからかもしれない。
 しかし、そのブロンドがあまりにも――本当によく見てみれば、どこにも似ている様子などなかったのに――シュナイゼルに見えた。
「……シュナ?」
 自分でも驚くほど声がかすれていた。
 おそらくはしばらく声を出していなかったからだというのはわかったが、今日はあれから何日経っているのか、アスナには全く想像もつかない。
 自分はなんで生かされているのだろう。
 ここはどこなのだろう。
 様々な疑問が頭の中で浮かんでは消える。
 かろうじて音として声を認識することができるだろう程度の声であったのにもかかわらず、少年はアスナの声を認識したらしいニコリと笑った。
 その笑顔で、その少年がシュナイゼルではないと気づいた。
 アスナは慌てて体を起こして、脇腹に痛烈な痛みを感じてうずくまった。
「ああ、駄目だよ。アスナ、無理して起きちゃ」
 少年の声が聞こえてきて、アスナはゆるゆると顔を上げた。
 柔らかな声は声変わりの来ていない少年独特のもので、アスナは顔をしかめた。
 よく見れば、そのブロンドは床に付きそうなほど長い。
「よく眠れたかな」
 少年はそう言って、首を傾げた。
 アスナは答えられなかった。
「すごく心配したんだよ。君、ひと月も眠ってるんだもん」
 ――もう覚めないかと思っちゃった。
 彼はそう言って、鉄格子を握った。
 その手は思ってよりも小さく白い。
 アスナがぼんやりとその手を見つめていたことに気づいたらしい少年は柔らかく微笑んだ。
「もしかしたら、目覚めないほうが幸せだったかもね、アスナ」
 少年の言葉の意図を知るのはこのあとだった。
 今のアスナにはわからないまま、首をかしげる。
 少年はそれだけを言うと、ひらひらと手を振ってどこかに行こうとしてしまう。
「ま、って、っ!」
 かすれた声で必死に叫んで、立ち上がろうとしてうまく足に力が入らず転んでしまった。
 少年の言う通り、ひと月も眠っていたのだとしたら仕方のないことだったが、アスナの焦りは増すばかりだった。
「ここ、どこ……」
 倒れた先で拳を握りしめた。
 ここはどこで、今はいつで――あの人は。
 シュナイゼル殿下はご無事だったのだろうか。
 最後に父が駆けてくるのが見えた。
 あの人は強いからきっと大丈夫だと思う気持ちもあるのに、漠然と言えない何かがシュナイゼルを心配していた。
 ――私がいなくなって、彼は大丈夫だろうか。
(なんて、烏滸がましいんだ、私)
 あの人は何でもできる。
 ――だから、一人になってしまう。
 誰にでも優しくできる。
 ――でも、誰にも興味がない。
 本当は早くに気づいていたのかもしれない、シュナイゼルという人間の危ういところを。
(早く、)
 アスナは懸命に痛む体を起こした。
(早く、帰らなくちゃ)
 あの場所で、シュナイゼルが待っている。
 あの白薔薇の美しい庭園の、チャペルに囲われた四阿で、今日も一人、逃げる場所を探して。
 じわり、と涙が浮かんで、ひたり、と落ちた。
 ――違う。
 アスナは涙をこすった。
(私が、シュナに会いたいだけ)
 こんな暗くて寂しくて、怖いところじゃなくて。
 大好きな人の隣にいたいだけ。
 そう思えば、行動も早くなるかとは思ったがそう思いかない。
 自分の記憶が正しければ、あの時銃弾は二発貫通した。
 あのおびただしい出血を、薄れる意識の中でしっかりと見ていたのだから、自分がそこそこ人間離れした強靭な人間なのだと自覚せざるを得なかった。
 最も、第五皇妃であるマリアンヌ・ヴィ・ブリタニアの方がより人間離れしているだろうが、アスナは彼女が――あまり好ましくなかった。
 思い出さなくてもいい人物を思い出して、アスナは顔をしかめた。
 今はそんなことは後回しだ。
 できるだけ睡眠に時間を当てて、体力を戻さなくては。
 脱走するためには、力や動きを取り戻すことも必要だ。
 ここがどこであれ、父親の名前を出せば、EUや中華連邦ではない限りは、そこから本国に戻れるはずだ。
 落ち着いて。
 今は焦っては駄目だ、と何度も自分に言い聞かせるとアスナは麻が引かれているだけの床に座り込んだ。
 痛いけれど、仕方ない。
 体を守るように蹲り、アスナはそっと目を閉じた。

 しばらく眠っていたのだろう、外からがちゃと鉄格子の鍵を開ける音が聞こえてきてアスナは再度目を開けていた。
 どれくらい眠っていたかはわからなかったが、目の前にはゆったりとした貫頭衣を身に着けており、それぞれ顔を模様の入った布で隠している。
 それらすべてが黒一色で、どことなく見慣れた光景であるかのように思えたが、シュヘンベルグ家の黒とは意味合いが違った気がした。
 男たちはしばしアスナを吟味したあとに、抑揚のない声で「立て」と言った。
 ここで逆らってもいいことはないし、逆らえるほどアスナは体力が残っているわけではなかったので素直に立ち上がった。
 激痛を訴える脇腹に顔をしかめる。
「この個体はC感応因子の要素が強い」
「事前検査ではR因子も高数値だと」
「いいか、貴重な実験体だ。もし、成功すれば――」
 自分に手錠をかけている男の後ろ側で、何人かの男たちが話しているのが聞こえた。
「自然個体でこれほどまでR因子が強い個体は珍しい」
「メーディアン家は古来、王の一族だ。突発的に王の因子が強いものが生まれてきてもおかしくはない」
 何を言っているのかまるでわからなかった。
 メーディアンというのはアスナの旧姓。
 アスナの母の実家である。
 アスナははじめから、シュヘンベルグ家の子供ではなく、メーディアン元公爵家が管理する片田舎で生まれ、五歳のときに後継者がいなかった父、クロスによって引き取られたのだ。
 メーディアン家も古くは皇族に連なる一族だったらしいが、今となっては没落貴族。
 アスナとラーズの母は双子を生む以前から病にかかっており、その治療に莫大な費用がかかる。
 その莫大な治療費と引き換えに、アスナとラーズはシュヘンベルグ家に入った。
 要するに自分たちは売られたのだ、と心の何処かで、暗い影が顔を出しては、でも、アスナは考えないようにしていた。
 母を守るためには、母が生きるためには仕方なかった。
 アスナは久しぶりに思い出した、五歳以降一度も会っていない母の顔に、存外自分が薄情な人間でなかったことに感心した。
 しかし、今は現状を案じるほうが先だ。
 どうやら、自分は彼らにとって格好の実験体という事実だけが何となくアスナに伝わってくるだけで。
 アスナは男たちに連れられるまま、石牢の外へと踏み出した。

 階段を上がっていけば、石牢とはまた別の世界が広がっていた。
 すべてオートメーション化されている、ブリタニアでもよく見るような機械仕掛けの白色の壁が広がっており、アスナは身構えた。
 こういった設備は軍の医療施設や、軍事研究所に多くあるためアスナには正直見慣れたものであった。
 だから――ここは軍の研究設備なのかと考えてしまったのだ。
 もしも、ここが軍の設備なら自分に逃げ出す術はない。
 逃げ出したとしても――連れ戻される。
 軍の設備に、父や師と仰ぐヴァルトシュタイン卿が絡んでいないわけがなかったからだ。
 わずかに震えそうになる自分の心を叱咤した。
(弱気なるな、大丈夫、大丈夫――)
 ――何が、と心の中の黒い自分が顔を出すが、アスナは目を瞑ってごまかした。
 男たちに連れられて入ったのは一つの部屋。
 たくさんの明かりがつけあれたその部屋の中央には診療台のようなベッドが一つあり、それをぐるりと取り囲むようにあらゆる機材が設置されていた。
 実験室、らしい。
 アスナは生唾を飲み込み、男に背中を押されるままその実験台に寝せられた。
 直ぐに四肢を拘束され、アスナは眩しくても無理やり天井を向かされた。
 首も固定されてしまい、完全に体の自由はなくなった。
 そこからは――あまりよく覚えていない。
 あらゆる苦痛という苦痛が一気に降り注いだのではないだろうかとおもうぐらいには、痛かったことだけは記憶の端にある。
 辛いことをシャットダウンし、思考を止める。
 人間の最も簡単な自己防衛本能だ。

 実験室にはアスナの絶叫が木霊した。
 ガラスの向こう側は少しだけ薄暗い世界が広がっており、男たちが逐一アスナの体の反応をデータ化してまとめて報告しあっている声が響く。
 ドアが開く音に一人の男が振り返った。
「どう? 調子は」
 嫋やかな青いドレス、美しい黒髪――神聖ブリタニア帝国第五皇妃、マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアその人であった。
 彼女はいつもと変わらない美しいほほ笑みを浮かべながら研究室の中にズカズカと踏み込んでいくと、実験台の上に磔にされたアスナを見て、その瞳を妖しく細めた。
「先程目覚めたばかりですが、ご指示通り実験を開始しています」
「そう。それにしても、頑丈ね。これほど激痛を与えてもまだ壊れないのね」
 マリアンヌは感心したようにつぶやいた。
 元ナイトオブシックス、閃光のマリアンヌの顔をしているその人に報告をしていた男は一瞬息を呑んだが、続きを促す彼女の瞳に気圧されて震える声で報告を続けた。
 この場に彼女に勝てるものなど一人もいない。
 一瞬で首と胴体が離れ離れになってしまうだろう。
「す、ストレスを与えるほど、個体Aの反応因子は強まっています。特に、外界を察知しようとする力……C感応因子の高まりは強く、それに引きずられるようにしてR因子も高まります。恐らくはマリアンヌ様、陛下の望むギアス保持者となりうるかと……」
 男の報告に満足したようにマリアンヌは頷いた。
「もう、皮肉よね。あれだけ手を入れたルルーシュやナナリーじゃなくて、どこぞで生まれた自然体の方がその可能性が高いなんて。――シュヘンベルグ卿も、娘は可愛かったのかしら、あの人にも黙っているなんて」
 申し分のない実験体だというのに。
 その事実が判明したのは、アスナとラーズがボワルセル士官学校で軍教練を受けた際に怪我をし、治療のために病院にかかったことが始まりだった。
 血液サンプルの一部を、病院内に潜ませていた関係者がこちらに回した結果――二人のR因子の強さがこれまでの実験体に比べて高いことがわかったのだ。
 そうともなればすぐに、とマリアンヌは動こうとしたのだが、それに待ったをかけたのがシャルル・ジ・ブリタニア本人であった。
 敬愛する兄の子供であるアスナやラーズに手をかけることに多少なりともためらいがあったのだろう。
 厳格ながら優しい人なのよね、とマリアンヌは思いながらアスナの赤い髪が跳ね上がるのを眺めた。
 そもそも、アスナの誘拐を計画したのは、マリアンヌたちではない。
 マリアンヌたちは便乗しただけなのだ。
 手に入るのはアスナでも、ラーズでも良かったが――シュナイゼルの母、エレオノールがアスナの誘拐を企てていると知った時即座に、この組織から怪しまれないように人員を出した。
 息子を完璧な人間にしたい母からすれば、アスナはさぞやシュナイゼルに群がる毒虫のように見えたことだろう。
 マリアンヌはふっと笑みを浮かべた。
 美しいが――冷たい、嘲笑だった。
 おそらくはエレオノール皇妃はアスナが死んだものと喜んでシュナイゼルに女をあてがい、彼が今後自分たちの用意したレールの上を向かっていけるようにするだろう。
 このまま行けば在学中ではあるがシュナイゼルに宰相の声がかかる。
 そうなれば、エレオノールは万々歳だろう。
 シュナイゼルが一つ、皇帝の座に近づいたのだから。

 ――そんなことしたって無駄なのにね。

 シュナイゼルはエレオノールが思うような人間とは全く別物だ。
 皇帝という座にただ興味がないだけではない。
 欲という欲、すべてを忌避して、全くの無欲になろうとしている。
 自分からなにか求めるようなことはせず、誰か、一人ではなくもっと広いなにかに求められた時に彼は動く。
 マリアンヌはそういうシュナイゼルが大嫌いだったし、おそらくはシュナイゼルも自分のことを嫌っているのだろう。
 ――そして、目の前で絶叫するこの子も。
 アスナを失ってからのシュナイゼルはわかり易いほど落胆していたが、今後どうなることやら。
 しかし、あの優秀さを野放しにしておくのは惜しい。
 遺跡のために侵略を続けることは簡単だが、そのために国が立ち行かなくなっては困るのだ。
 せいぜい役に立ってもらわなくては。
(貴方にもね、アスナ)
 アスナ自身が使い物にならなくても、アスナからとった研究データは今後、役立つはずだ。
 じゃあ、あとはよろしく。と手を振っていなくなっていくマリアンヌに男たちは、皆揃った礼を見せた。

 ――一ヶ月目はまだ、反抗する意思もあった。
 激痛に耐えながら、何とか体を起こし、逃げ出すための算段を整える。
 泣きそうになるのをなんとかこらえながら、武器さえ手に入れば自分はこんな奴らには負けない、とアスナは自分を鼓舞した。
 それでも、安く希望は打ち砕かれる。
 度重なる実験は、アスナの反抗する気を削いでいった。
 逃げ出そうとして、研究者ぐらいならアスナでもどうにかできた。
 彼らは一様に戦闘能力がなく、十五歳とはいえ、騎士候補生で、ボワルセル士官学校で主席を取り続けていたアスナにとっては研究者たちを倒すなど、造作もないことだった
 だが、そのアスナを食い止めたのは最新のシステムだった。
 アスナは研究者たちを気絶するまでにはするが、実際に命を奪う行為にはどうしてもためらいがあったので、彼らはすぐにでも復活して次の行動に移った。
 ひどいときは追い込まれて、睡眠ガスに襲われて、眠らされ、更には銃弾で足を撃ち抜かれたこともあった。
 この研究所での、彼らのスタンスは生かさず、殺さず。
 アスナを研究材料として使えればそれでいいので、最低限死んでいなければどんな怪我でも負わされた。
 それでも。
 それらはいつか、乗り越えていける気にもなったのかもしれない。
 アスナが絶望したのはそんなことではなかった。
 何度目の脱走だっただろう。
 ――目の前に、ラウンズの衣装を纏ったマリアンヌ皇妃が現れた時、アスナは硬直した。
「んもう、意外と諦めが悪いのね、貴方は」
 嫋やかなドレス姿が最近は漸く見慣れてきた頃だというのに、マリアンヌは黒い髪を結い上げて、ラウンズの正装を纏い、両手には細身の剣が握られていた。
 ――閃光のマリアンヌ。
 その人を前にして、アスナの歩みは止まり、そしてそれは考えたくもない最悪の事態が現実となった瞬間だったのだ。
 マリアンヌはいつもと同じようにニコニコと笑っているが、その瞳は全く笑っておらず、アスナは生唾を飲み込み、足元に落ちていた剣を足で弾いて手で掴んだ。
 なまくらでも無いよりマシ。
「……なぜ、マリアンヌ様が」
「あら、理由なんてもう気付くかと思ってたわ。貴方、結構頭いいでしょう?」
 カラカラと笑うマリアンヌと、険しい表情を浮かべるアスナは対照的だった。
「で? どうするの?」
 マリアンヌは肩をすくめた。
「ここから出るの? そのためには私と戦わなくちゃならないわよ?」
 質問しているような語尾の調子だが、有無言わさぬ威圧を放っている。
 かごの中へ帰りなさい。
 この先に貴方の居場所はない。
 そう言われているようで、それでもアスナは脱出を諦めきれなかった。
 ――シュナイゼルが待っている。
 その思いだけが、アスナを突き動かしていた。
「……必ず、帰るって約束したから」
「……そう」
 一瞬にして、マリアンヌ顔が冷ややかなものに変わったのは、恐らく口には出さなかった誰の部分を敏感に察知したからなのだろう。

 剣戟は、一分もかからなかった。

 交わされる剣のスピードはすでに常人のそれを遥かに上回っていた。
 剣と剣が触れた瞬間に発せられる金属音と発光だけが、二人が戦っている証拠となり、周囲には膨大な殺気が充満していた。
 ――もしも。
 もしも、アスナの怪我が全て治っている万全な状態であり、疲労も苦痛も、何もない状態であったとしたなら、この剣戟の行方は変わっていたのかもしれない。
 マリアンヌは自分と剣戟を交わす、アスナの実力を素直に認めて称賛した。
(これは、あのシュヘンベルグ卿が親ばかを発揮したくなるわけだわ)
 かつて閃光と呼ばれたマリアンヌと怪我をした状態で、一歩遅れる程度。
 ならば、この怪我が完治した状態ならば自分と互角、もしくは――と思い至ったところで、アスナの突出した剣がマリアンヌの頬をかすめて、通り過ぎていった。
(ま、治っていれば、なんてただのたられば。戦場にはいつでも万全で行けるとは限らないわ)
 マリアンヌの剣のうち、一本がアスナの剣を弾き飛ばす。
 しまった、と崩れた体制を立て直す暇もアスナは与えられずもう一本の剣の腹を銃創も完治しきらない脇腹に叩き込まれて、アスナの体は壁に向かって飛ばされ、大きな音を立てて沈んだ。
 その一分の攻防を、理解できたのはその場には誰もいなかった。
 マリアンヌは剣を払い、ため息をつく。
 これでは研究も何もあったものではない。
 ――彼女から、生きる気力を削がなくてはならない。
 死にたいと思われても困るが、このままでは外に出たいという気力が強すぎる。
 それもこれも。
 あの第二皇子だ。
(……シャルルに頼んで、シュナイゼル殿下のことを忘れるようにしなくてはならないかしらね)
 皇帝のギアスならば、それが可能だった。
 マリアンヌは倒れているアスナを放置して、踵を返そうとしたが――背中をなでた殺気にあわてて振り返り、剣を構えた。
 ――アスナが立っていた。
 壁を伝うようにして、何とか立ち上がっている。
 左腕がぶら下がっているところをみると、どうやら脱臼しているか、折れている。
「……執念深いわね」
 もう一度、と思ったがアスナはそのまま倒れた。
 ふさがりかけていた銃創は再び傷を開かせ、白い服を鮮血で染めていく。
 たまったもんじゃないわ、とマリアンヌは直ぐに皇帝に進言しに行くことになる。
 自分ですら、これならば他の人間では、執念が波に乗ったアスナの相手はいくら手負いにさせたところで無理だ。
 むしろ研究すればするほど、アスナはストレスを感じるほどに異様なほど力を発揮するようになっている。
 身体的ストレスなのか、心理ストレスなのか、それはさておき、これまでの研究で身体的ストレスがピークに達すればアスナは鉄の拘束ですら引きちぎった、と戦々恐々と語った研究者がいたことをマリアンヌは思い出した。
 自分も人間離れしていると思っていたが、彼女も同類かと思えば、少しだけその執念を称賛する気にもなれた。
 それから、直ぐにアスナは皇帝陛下に引き合わされた。
 マリアンヌに負けたと聞いていたがそれでも、アスナの目は帰ることを考えている。
 皇帝にすら噛みつかん勢いを持っていたアスナを無理やり抑え込んだのはビスマルクだった。
「先生、どうして……」
「許せ、アスナ。全ては、陛下の大義のためだ」
 ビスマルクはアスナの顔を持ち上げた。
 久しぶりに見た叔父の顔は、どこか冷めていて、しかし、どこか哀愁を感じる。
 アスナは奥歯を噛み締めた。
 今から、自分が何をされるかわからない。
 だが、すごく嫌な気配を感じる。
 嫌だ。
 やめて。
 離して。
 アスナの叫びはすべて無視される。
 ここの誰一人として、アスナの声は届かなかった。
「いやだ、シュナ……っ」
 ――助けて。
 声にならない声とともに涙がこぼれ落ちた。
 皇帝が一歩、アスナに近づいた。
「それを忘れた方が、今のお前は苦痛を忘れられるだろう」
 ――忘れる?
 アスナは大きく目を見開いた。
「忘れ、ただ、時に身を任せよ。お前の命運は決まっておる」
 ――シュナを?
 その瞳が絶望に染まり、アスナの暴れ具合が一層に強くなる。
「やめて! 奪わないでっ!」
 アスナが声を荒げた。
 涙で震え、掠れ、絶叫にも似た声だった。
「いやだっ、忘れたくないっ! やめて、私から、シュナを、奪わないでっ」

「シャルル・ジ・ブリタニアが刻む」

「嫌だっ、嫌だっ!!」
 アスナは必死で抵抗して顔をそらそうとする。
 ビスマルクが無理やり押さえつけ、それを阻止しようとする。
 いやだ、
 忘れたくない。
 あの笑顔を。
 あの声を。

『アスナ』

「偽りの過去を」

 涙で滲んだ先に、誰かがいた気がしたのに。
 呆然と、皇帝を見つめていたアスナから力が抜けたのを確認してビスマルクは漸く手を離すことができた。
 ビスマルクの拘束を亡くしたアスナの体は、ぐったりと床に沈み込んだ。

 涙が伝って落ちた。
 ――あれ。
 記憶にたくさんの霞がかかる。
 なにか、大事なものがあった気がしたのに。



「……誰に、会いたかったん、だっけ…………?」

 優しい笑顔も。
 優しい声も。
 誰のために強くなりたかったのかも。
 アスナには、もう何も思い出せなかった。
ALICE+