クロスは研究室の向こう側からガラスを通して見る娘の変貌ぶりに痛々しげに目を細めつつ、そういった。
見る影もない。
あれは、呼吸しているだけのものだ。
生きていると誰が言える。
「まさかあんな廃人になるなんて、思わなかったわ」
マリアンヌは腰に手を当てて、言った。
クロスは嫋やかながらにとんでもないことを口にする皇妃に苦笑しながらも、ただ、引きずられるだけの娘へ視線を向けた。
アスナはシュナイゼルを忘れた。
シャルルが持つギアス――過去を書き換えるギアスによって、シュナイゼルと出会ったその過去そのものが書き換えられた結果によるものだ。
そもそも、アスナをおとなしくさせる手段がそれしかなかった現実も否めない。
アスナはシュナイゼルという存在がある限り、帰るために全力を尽くしただろうと、クロスは思う。
アスナが生きている可能性はずっと理解していたし、この組織――ギアス嚮団に連れて行かれたことも気づいてはいたが、実際に皇帝の勅令でアスナを見ることができるようになったのは、アスナが行方不明になってからすでに半年以上は経過してからのことであった。
虚ろな人形になったアスナが何を考えているのかクロスには全くわからない。
虚空を見つめるだけの瞳には何も映らない。
絶望も、希望も、怒りも、悲しみも。
すべての感情がなくなってしまったかのようで、クロスはふと笑ってしまった。
「ラーズがな」
独り言のようにつぶやく。
マリアンヌの瞳が、クロスへと向けられた。
「アスナの葬儀の時に言うんだよ。――まるで、アスナの葬儀じゃなくて、シュナイゼルの心の葬儀みたいだ」
何のことだ、とマリアンヌは顔をしかめた。
「あの棺桶にはシュナイゼルの心が入ってたんだとよ」
――俺たちは、それを埋めた。
あの時埋められた棺桶には何も入っていなかったはずだが、確かにあれからシュナイゼルは心を亡くしてしまったかのようだった。
相変わらずすべての人に平等に優しいだろう。
だが、それは裏を返せば、全てのものに興味をなくしてしまったように見えた。
痛々しいまでにシュナイゼルは「個」を棄てた。
周りの人間はシュナイゼルが変わったなどと口にしないから、おそらくは気のせいなのかもしれなかったが――あのシュナイゼルは見ていて恐ろしい。
いずれ、力をつけたらなにかやらかすのではないか、と思うくらいには。
それでも、周囲に対して優しく完璧で優秀な第二皇子であり続ける彼に何か一つでも、吉報をと思っていた。
そして、アスナの消息を掴んで来てみれば。
アスナはギアスによって記憶を書き換えられ、シュナイゼルを忘れ、ただの人形と成り果てた。
(……お前らは互いが揃ってないと、心をなくすんだな)
率直な感想だった。
アスナの葬儀で、アスナが帰ってこないとしればシュナイゼルはその棺桶とともに心を埋めてしまった。
シュナイゼルという存在一つを忘れてしまうとアスナはうつろな人間と成り果てた。
互いへの思いのベクトルがよく似通っている。
クロスはひとつため息を吐き出した。
「あら、もっと文句を言われるかと思ったわ」
「……あれらをシュヘンベルグ家の後継者にすると決めた時点で、俺も、シアナもこういう結末も覚悟してたからな」
いずれ、あれらはギアスの歪に巻き込まれる。
しかし少しでも、その命運を助けてやれるならとシュヘンベルグ家につれてきたのだが――逆効果だったかな、とクロスは嘲笑して、背を向けた。
「彼女への実験は続けるわよ」
「それがシャルルの――皇帝陛下の勅令なら好きなように」
クロスはそう言って手をひらひらと降った。
アスナはあれから、されるがままだった。
心には何かがいた。
されるがままであろうとする頭と体がいるのに、それを良しとしない心がたしかにそこにあった。
心が残ったままでは、実験が辛かった。
痛いし、苦しいし、救いがない。
こんなもの、棄ててしまえ。
自分の中の誰かがいうのに、棄てられない。
誰かに会いたかった記憶はかすかにアスナに残っていた。
強い、感情。
今の自分では動くことのない、強い感情の振れ幅が大きかったのだろう。
アスナの脳裏に、わずかにこびりついている――生きたいという意思。
今、それだけがアスナを生かしていた。
うつろになりながら、なにか、突き動かされるようにしてアスナは生きていた。
痛みと絶望。
それだけの世界で、アスナはなにかにしがみついている。
それが、何かは思い出せないのに。
思い出そうとしても思い出せないのに。
思い出そうとすれば、涙が止まらない。
必死で、それを手繰り寄せて、声にならない名前を何度も何度も呼ぼうとしては失敗した。
『アスナ』
誰かに呼ばれているような気がして、アスナはそっと目を開けた。
それが誰かはわからない。
美しいブロンドが、白い薔薇の花弁が舞う中、佇んでいるのが見えた。
(ああ――行かなくては)
必死で手を伸ばす。
でも、その手は届かなくて。
今すぐにでも傍に行きたいのに、その声が聞きたいのに、抱きしめたいのに。
(行かなくちゃ)
声は届かない。
手は届かない。
あれが誰だか思い出せない。
それが、とても悲しくて涙が溢れてきた。
悔しくもなにもない。
ただ、本当に悲しかった。
「―――――!」
名前は出てこない。
いくら叫んでも、声は形にならずに消えていった。
「おい」
誰かの声が聞こえた。
「おい、お前」
女性の声だった。
アスナの意識はそこで浮上して、ぼんやりと目を開けた。
アスナの視界には――乳白色の世界に、わずかに緑色が広がっているのがわかった。
「生きていたか」
どこか話し方が淡白なその人の瞳は美しい黄金色だった。
「こんなところで寝ていては風邪を引くぞ」
風邪、と言われて、アスナは漸く自分が廊下の隅でうずくまって寝ていたことに気がついた。
体が思ったよりも冷えているのか、自覚してみると底冷えするような気分がして、アスナは身を震わせた。
膝を抱えていた腕を手で擦って温めようとするがそれも気休めでしかなかった。
アスナが目を細めて、必死にその目の前にいる人を見ようとしていることにその人は気づいたらしい、アスナの目の前で手を振った。
しかし、目がついてこない。
「お前、目が……?」
「…………一ヶ月前に、目の機能が止まったって言われた」
漸く絞り出した。
声は、この数ヶ月ほとんど出したことはなかった。
目が見えないことは辛いことだとわかるが、アスナはあまり気にしていなかった。
すでにそれに価値を見出していない。
目が見えても辛いことばかりだ。
ならば、目を閉じていたほうが人は、幸福なのかもしれない。
そんなアスナの思考を察したように、目の前の女性は顔をしかめた。
「嚮団の人間か? いや、違うな、実験体か」
「…………うん」
アスナは頷いた。
自分はモルモットだ。
ギアスという言葉は度々耳にした。
ギアス――誓約。
自分にはその適性があるのだと誰かが言ったが、視力を失った時、ギアスの発現は難しいのではないかと誰かが言った。
未だ、自分が何かをされたという印象はないが、もしかしたら、もうその力が与えられているのかもしれない。
アスナはよろめきながら立ち上がった。
生きる希望はないのに、生きろと頭が叫んでいる。
この矛盾を誰が説明してくれるのかはわからない。
――それでも、アスナは生きている。
生かされている。
アスナは緩やかに笑った。
生きている以上、人は歩みを止めることはできないのだから。
それが今、アスナを生きていると言わせているたった一つの事柄だった。
全てのことに無感動になり、唯々諾々と実験体であることを受け入れ、それでもなお――アスナの意思は前だけを見ていた。
その理由も、何もかもがわからないのに。
ただ、歩みを止めることができないまま、人形になりきれないまま、アスナは無表情ながらに、目を細めた。
「楽になりたくはないのか」
――きっと、すべてを捨てたら楽になれる。
今、かろうじて持っているこの明日への意思を投げ出したら心も体も楽になれるはずだった。
何も考えなくて済む。
――そうやって、人は楽な方へと進んでいこうとする。
目の前の人の言葉がわからないわけではなかった。
楽になろうと思えば、今、ここで、この執着を投げ出してしまうだけでよかった。
でも、それはできなかった。
(どうしてだろう、こんなに苦しいのに)
思い出せないことが悔しい、苦しい。
実験体として何も考えない日々がくれば、こんなに苦しい思いなんて、痛い思いなんてしなくて済むのに。
漸く絞り出した、アスナの声は素直だった。
「楽に、なりたい」
「では、どうして?」
美しい緑の髪をなびかせて、目の前の人はアスナを鋭く見つめた。
きっと、その瞳は嘘を許さない瞳だとアスナは気づいた。
「いかなくちゃ」
「…………」
「私は、いかなくちゃ」
――あの、白薔薇の咲き誇る場所へ。
たとえ、思い出せなかったとしても。
たとえ、誰もそこにいなかったとしても。
何かを取りこぼしてしまった私の真実が、そこにあるような気がするから。
少女は何も言わなかった。
アスナの薄くにごりながらも、僅かな光を失っていない瞳を見ながら、しばらくして、ため息を付いた。
「お前はあいつに似て強情だな?」
「……?」
アスナは首を傾げた。
ため息を付きながら、呆れながらもその人は確かに笑っていた。
わずかにアスナのほうが、背が高いせいで、少女は少しだけ背伸びをしてアスナの頭をその白くて細い指でなでた。
少し硬い、赤い髪を指でそっと梳いてから優しく抱きしめた。
「お前はそのままでいい。きっと、その先に道があるさ」
だから。
立ち止まるな。
その人はそう言って、アスナを離して、手を振っていた。
「じゃあな」
それだけ言い残して、その人はいなくなってしまった。
アスナはわけも分からず、少しだけ途方に暮れたあと、ちょっとだけ楽になった心が暖かい気がして久しぶりに頬を緩めた。
(まだ)
目を瞑り、胸の前で拳を握りしめた。
(まだ、私は歩いていける)
歩いていけるのなら、大丈夫。
たとえ、この路が茨だらけのものであったとしても。
足が傷だらけになっても、構わなかった。
* * *
ひたり。
冷たい影がそっと迫ってくるような感覚にアスナはそっと目を開けた。
夜半だとわかったのは研究所の明かりそのものが薄暗くなっていたからだ。
さすがの大人たちも夜までは研究に明け暮れていたわけではなかったので、照明が落とされているときは大人たちも眠っている頃合いだった。
ふと、寒気がしたのだ。
大したことではなかったのかもしれないけれど、薄い貫頭衣のような、白い布切れしか着ていなかったから余計に寒く感じられた。
――いつものことであるはずなのに、今日の寒さは少しだけ異様だった気がする。
腕をさすりながら、アスナは見えない目をすっと細めた。
そんな、小さな違和感は大きな歪を生んだ。
アスナはわずかに体を屈ませながら、廊下に積まれている沢山の荷物の中に紛れるようにして白い壁を伝い、歩いていった。
薄暗い中には、大人が二人。
いつもの黒いゆったりとした貫頭衣に身を包んだ男たちは目以外のすべてを隠しており、正直な所誰が誰か、アスナには判別がつかないのだが――二人は話しているようだった。
目が見えなくなり、他の感覚が鋭くなったことはある意味僥倖だったのかもしれない。
少し離れた所で足を止めたアスナだったが、彼らの話す声は静寂も助けてしっかりと耳に入ってきた。
「――本国では、皇帝妃のお一人がお隠れになられたらしい」
「事故か?」
「……いや、自殺だったらしい」
お隠れになる、という言葉を皇族に使ったのなら、結論は一つしかなかった。
――……皇妃が亡くなった。
皇族が亡くなるというのはそれだけで大事件だ。
ここもとりあえずはブリタニアの、しかもマリアンヌが関わってくるような組織であったためか、そういう事件も信者たちの中では話されているようだ。
単なる世界情勢の話で済むのなら、それに越したことはなかったのだが、アスナはわずかに頭が痛む感覚がした。
「どの皇妃か?」
「第二皇妃殿下だったそうだ。
第二皇妃。
開けてはならない扉に一歩近づいた気分だった。
痛烈な頭の痛さとともに、なにか体が早鐘を鳴らすように
心臓の鼓動がうるさくなった。
呼吸が早くなりそうになるのを、口で塞いで抑えた。
「第二皇妃というと――あの、賢良と言われる第二皇子の」
駄目だ。
ここから離れろ。
心臓がバクバクとうるさいくらいだ。
体の中に耳でもついたのかと言わんばかりに心臓の音が耳の真横から聞こえてくる。
足が震える。
「そう。シュナイゼル殿下の、母后だ」
ぷちん。
心臓の大きな血管でも切れたかな、と思うくらい見事にその音が聞こえてきて――次の瞬間に、アスナはなにか辻褄が合うような、何かのピースがハマった。
『アスナ』
そう、自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえてきた気がした。
ピースがハマって、一番先に思い出したのは、その笑顔だった。
緩やかで、穏やかで、白薔薇の花びらが隠していたそのすみれ色の瞳がアスナを捉えた瞬間に、霞がかっていたそのすべてを思い出した。
――従兄弟で。
――幼馴染で。
――婚約者で。
――世界で一番大好きだった人、シュナイゼル。
思い出した瞬間、誰かの絶叫が聞こえてきた。
あまりにも、喉が乾く。
叫んでいる声が自分の声だと、気づいたときには先程まで話していた男たちがこちらに向かってきて、どうした、何があった、とうるさくまくしたてる。
――行かなくては。
頭の中の誰かがアスナに向かって、はっきりと告げていた。
行かなくては。
ここから行かなくては。
あれから、あれからどれ位経ってしまったのだろう。
母后が自殺だなんて。
あの方は大丈夫だろうか。
アスナの頭はありとあらゆる思考で支配されて、甦った記憶を整理する暇もなかった。
ただ、腕を掴まれたところで、気づいた。
ここからあの人のところに戻るためには、こいつらは明確に邪魔をする。
何度も何度も、捕らえては檻の中に戻してきた目の前の男たちは――邪魔だ。
そう思うと、自然と体は動いていた。
当たり前であるかのように――アレだけためらっていたはずの行為を体はあっさりと受け入れていた。
近くにあった、少しだけ尖った石が最初の凶器だった。
ためらいもなく頸動脈を切り裂いたそれはあっという間に血に染まってしまう。
しばし、無感動に黙ってしまった男たちを眺めていたアスナだったが、少しだけ冷静になってくると、あたりに散乱した鉄の匂いに目を見開いて驚いた。
「……え…………?」
――多分、初めて人を殺した。
少しだけ、手が震えた。
あっさりと二人、自分の手で殺した感触はあまりにも、生ぬるい鉄の匂いのする液体で染められた手が心地悪かった。
はっ、はっ、と荒くなっていく呼吸に心臓を抑えた。
服は、すでに男たちの返り血で赤く染まっていた。
「……あ、ああ…………ああ……っ」
足が震えた。
超えてはならない一線を明確に超えた瞬間だった。
今まで、アスナが踏み越えようとしなかった殺しという一線を確かに踏み越えてしまったその感触は、胃液がせり上がってくる気色悪さとともに、外に吐き出してしまえたら良かった。
だが、アスナは立ち止まるわけに行かなかった。
泣きそうになるのを、必死でこらえながら、アスナはふらふらとする足に力を入れた。
この時点で、もはや戻れない所まで来てしまったのだ。
ならば、最後まで完遂するしかなかった。
「何だ、何事だ!」
増えた男たちの足音と声。
薬品の匂いを漂わせる男たちの匂い。
アスナは、心から感情を消した。
――そうでなければ、この剣を振るってはいられなかっただろうと思う。
『騎士ってのは、当然殺戮者だ』
そうやって語る、父の姿を思い出した。
いつも不真面目そうにしているくせに、黒色のリバリーズを身にまとっているその人はとても誇らしげだったのをアスナは覚えている。
「さつりくしゃ」
「わかってない、って顔だな」
まだ剣を始めたばかりの子供にするような話ではなかったのかもしれない、とクロスは考えながらもアスナの赤い髪をなでた。
「お前はもしかしたら、シュナイゼルに嫁ぐかもしれないから関係ないかもしれないが」
と、前置きをした。
今の所それは殆ど決定事項のようなものだ。
段取りにいくつかの変化が出るかもしれないが、アスナとシュナイゼルがともに二十を過ぎたら結婚する、というのは少なからず皇帝とこの父の間では決定事項なのではないだろうかとアスナは思っている。
「それでも、俺達の血筋は騎士になる。お前も、選択肢として士官学校がある。――もしかしたら、シュナイゼルが嫌がるかもしれないが」
父は頭を撫でる手を止めなかった。
すごく悲しげに。
「騎士とは、主のために殺戮を繰り返す者のことだ。その国にとっては英雄だったとしても、だ。――だが、お前は少しばかり優しすぎたな」
お前に、騎士という名の免罪符は重すぎる。
殺戮を正当化するための名前はお前には似合わない。
父がいいたかったことを今更になってアスナは理解した。
どれだけ美しい言葉で飾り立てたとしても、騎士は殺人者だった。
騎士となり、シュナイゼルを守り、そして、いつか彼のもとに嫁ぐという自らの考えがどれほど甘いものだったのかと知る。
三人目の殺しは、無感動になろうと必死だった。
流れ出る血の感触も、溢れ出る痛みも、声にならずに消えていった叫び声も、全て、全て飲み込んだ。
そこには謝罪も贖罪もあってはならない。
なぜならば、これは、エゴだから。
とんでもない、利己主義の衝動だったからだ。
(……シュナ、シュナイゼル)
あなたの笑顔が見たいだけ。
震える手で、剣を握り締めた。
戦うことは簡単だった。
剣を振るだけでいい。
これまでだってずっとそうやって戦ってきたし、どんな相手にも負け無しだった。
――ああ、こんなにも違うものなのか。
アスナは静かに心を閉じた。
思考はすべて戦闘にだけ、振り分け、相手を殺すための最低限の動きのために使う。
己の体を剣に。
己の意思を刃に。
――我が身は、戦いのため。
* * *
救いのない景色だと誰かが嘲笑った。
まさしくそのとおりであると嘲笑したのは紅い髪の一人の少女であった。
少女の足元は鮮血で染まり、その歩みのごとに――白かったはずの床は赤くなる。
ひたり、ひたりと進む、その足には淀みは見られなかった。
少女は人目を引く容姿をしている。
幼さと色気が同居する憂いを含んだ表情をする整った顔に、エメラルドとサファイアをはめ込んだ大きな瞳が飾られている。
小さく形の整った唇はうっすらと朱をさしているような色合いをしており、真白な肌によく似合う。
しかし、整った顔を両断するかのような左目に入った禍々しい傷跡からは血が少しずつ滲んでいき、白い肌に赤い化粧を施して床を汚した。
恐らく少女は真っ白い服を着ていたはずである。
彼女の足元に転がる無数の人間だったものたちと同じ服である。
貫頭衣のような、白い服は、どれもこれも赤く染まっている。
見る限りの――嗅ぐ限りの鉄の匂いに、少女は思い切り顔をしかめた。
鉄の匂いの原因は足元で倒れ伏している者たちである。
彼らは傷の箇所こそそれぞれ違うが一撃で絶命できるように剣が貫き通された跡がある。
一人は心臓を、もうひとりは腹を、もうひとりは喉を、更にもうひとりは――とたちまち数えるのが億劫になるほどの数を絶命足らしめてまだ少女の歩みは止まりそうにない。
少女は独りだった。
たまらなく、独りは寂しかったが、少女は独りだった。
いや、独りになろうとしていた。
少女の前に躍り出た一人の男が、絶叫を上げることもなく地に伏していった。
一瞬の剣のきらめきすら、倒れていった男には見えなかっただろう。
――剣はすでに紅い錆を帯びているように見えた。
だが、それが人の血であることは近くに寄って見ればわかることだった。
もうすぐ使い物にならなくなりそうな、その剣で少女は一瞬にして男の頸動脈を切り裂いた。
ほんの数時間前までは人の死に、少なからず恐怖を感じていた少女であったことは間違いなかった。
人の死に無感動になどなれるはずもない、心優しいはずの少女は自分が切り裂いた男には見向きもしなかった。
人血を滴らせた剣を石畳の床に引きずらせるように歩く少女の歩みはしっかりとしているのにも関わらず亡霊か怨霊の類の、見るだけで人の意欲を根こそぎ奪っていくような雰囲気を醸し出している。
歩く、災厄そのものであった。
少女の瞳は血に滾らせたようなものではなく、どこか虚ろで、物悲しげな――何も映していない瞳だった。
髪の毛から一筋、血が溶け出して、落ちていく。
元々紅い髪は紅い血を浴びて、固くなりその艷やかな雰囲気は消え失せている。
少女は今、目的もあてもなく歩き続けている自覚があった。
どこに向かえばいいのか、わからないのだ。
とりあえず、とりあえず今は――ここにいる全ての人間を殺し尽くさなくては。
そうしなくては、と一つの笑顔が頭に浮かんで、消えた。
流血の最中に少女は穏やかに笑ってみせた。
似つかわしくないその笑顔は、思い出に浸る寂しさも滲ませている。
眼の前に立ちふさがる無数の人間を一刀のもとに斬り伏せ、さらなる流血を持ってその血を洗い流そうとしていた。
血で血を洗い流す矛盾に嘲笑した。
本当に、自分は人を殺してしまったのだと、一つ自覚がつくと何もかもが変わってしまったかのようだった。
目的のために流血という手段を厭わない。
――騎士の本質とは殺人者である。
誰の言葉だったか、と少女は思い出しながら、一歩、また一歩と進んでいこうとする。
その歩みにはやはりよどみのようなものなど存在しておらず。
たった一つだけのエゴを突き通す身勝手さも、全て受け入れた上で彼女は進んでいた。
自分の醜悪さも、全て、受け入れて――彼女はすべてのものに等しく終わりを告げた。
殺し尽くさなくては道がないことを知っていた。
目の前に命乞いをする幼い子供がいても、その子供をかばうようにして立ちふさがった年若い女も関係がなかった。
刃のもとにすべてを切り尽くして、流血ですべてを染めて、それでもなお立ち止まれなかった。
「……シュナ」
小さくつぶやいた名前に返事などない。
彼はここにはいない――いや、いてはならない。
この流血の惨事は彼には相応しくない。
自嘲した。
目が見えなくなってよかった、と心から思った。
もしも、目が見えていたとするなら自分はこの惨事を許せなかっただろうから。
少女の足がふと、止まった。
今までとは違う気配を感じ取って背中に悪寒が通り過ぎず留まった。
まだ十代も後半に差し掛かったばかりであろう少女はおそらく持って戦いにおける天才であったのだろう。
戦闘の天才とは危機を察することのできるもの。
今、自分の元に訪れた悪寒に関わってはならぬと全身が警鐘を鳴らす。
引き返せ、と足が勝手に動こうとする。
ごくり、と生唾を飲み込んだ音だけが人の生ける気配が何一つない廊下に響き渡る。
逃げ出したい気持ちを、拳を握りしめて、堪えたのはおそらく少女の意地ではなく、人をこれだけ殺し、数多の流血を持って達しようとしていた「願望」があったからである。
――一人の少年の笑顔が、少女の頭にこびりついて離れない。
彼の笑顔を思い出す度に、少女は生きなくてはと震える足を叱咤して一歩、一歩と足を進めた。
その都度、流血が起こり、その足元を血に染めても。
彼の声を思い出す度に、帰らなくてはと心を一つ潰して冷酷になろうと努めた。
それまで何一つ亡くしていたその人のことを思い出した瞬間にその衝動は起こった。
――会いたい。
――会いたい。
――会いたい。
その衝動は抗えない激情となって、最初は二人。
その次は独り、また独り。――更にはどんどんと人が増えていって見るも絶えない血の池ができていく。
冷徹と、冷酷の所業は決して残忍なものではなかった。
彼女はおおよその人間を一撃で絶命させ、恐らくは苦しむ間もなく、人によっては死んだことにすら気付かなかったものもいたことだろう。
嬲ることも、痛めつけることも、辱めることも決してせず、彼女は自身の目的のために殺していく彼らに一定程度の敬意を払い、剣を振るった。
時折、抵抗してくる者もいたが少女の剣の腕はすでに大人の騎士たちよりも遥かに優れ、彼女と三合も打ち合える者はいなかった。
そもそも、ここは研究員の割合が多く、戦闘員は極少数だったのが彼女の衝動的な行動を成功へとより近付けたのだろう。
やはり、少女は足を止めなかった。
進んだ先はこれまでの近代文明がもたらした機械仕掛けの壁ではなく、旧石器時代に作られたかのような遺跡。
少女はぼんやりと首を漂わせて、周囲を見回す真似事をしてみせるが、実際に見えるわけではなく――雰囲気で空間の広さを感じ取っていた。
今までとは風の流れと匂いが異なり――ここが一点、外に続いていることだけがわかる。
一歩。
少女が足を進めたところで一つの気配を感じた。
遺跡の階段に、独り腰掛けている人物だ。
あまり感じたことのない気配――人であるかどうかも、少女には判別がつかず顔をしかめた。
――美しい少年であった。
美しい金髪は緩やかな癖がついており、麗しの紫の瞳はどことなく少女が思い浮かべる少年の面影を感じさせ、人ではない雰囲気がなければ目の見えない彼女は錯覚してしまったかもしれない。
彼は少女を見定めるとさも嬉しそうに立ち上がり、ぱちぱちと手を叩いた。
称賛の拍手であっただろうが、少女からすれば場違いめいた道化の拍手である。
警戒心を解くことなく、一刀でいつでも彼を殺せるようにするために少女は少年を睨みつけた。
すると、彼は階段をゆっくりと下って、笑った。
――まるで、無垢な少年のように。
「ああ、いいんだよ。もう、君は戦わなくていいんだ」
少年は血に濡れた少女をみやってそういう。
髪の一本から、足の指先まで血に濡れた少女はまさしく死神の様相そのものであっただろうが少年は柔らかく微笑みかけた。
なぜだろう、似ていないはずの声なのに、頭にこびりついたたった一人の笑顔の少年と錯覚しそうになる。
一瞬の油断を生むとまだ年若く戦闘の経験が薄い少女は気付かずに首を振って幻影を払った。
そんな少女にも彼は動揺一つせず、むしろそれまで以上に柔らかさを持って言った。
「"シュナイゼル"に会いたいのだろう?」
その名前を聞いた瞬間に今まで鋭く細められていた瞳が大きく開かれ、光を失いかけていた顔は光を取り戻した。
数多の命を絶命させた死神は一人の少女のごとく、その大きな瞳に大粒の涙を貯めて、少年を見た。
――アスナは漸く、ここで戻ってきた。
それは絶望の中に大きな希望を見出したかのようで、地獄の中にたった一本の蜘蛛の糸を掴み取ろうとする醜悪ささえも持ち合わせていた。
剣を握る血に染まった手がぎりぎりと音を立てて握り込まれる。
爪が皮膚を突き破り、初めて返り血以外の血がアスナを濡らして、新しい血はぽたり、と床へと落ちた。
「シュナ、…………シュナイゼル……っ」
初めてアスナが口を開いた。
死神であったその人は今、人間に戻った。
しかし、乾いた唇から発せられるその言葉は妄執と信念を同居させたような変わった声音をしていた。
全身から力が抜けてしまったのか、アスナは膝から崩れ落ちてしまい、漸く大地に剣を落とし、手をついた。
絶望と、希望と――様々な感情が混在した瞳は涙で揺らいだ。
狂言めいた言い回しではあるがそれが決して演技ではない本物の言い方であることを少年はにんまりと笑みを深めて認めると数度頷いて見せてアスナへの歩みを進める。
そう、少年にとってはこの名前こそ最大の切り札であった。
少年はしかして、考える。
――なんと罪深い呪いだろうか、と。
純粋で無垢で、将来純白のドレスがひどく似合っただろうアスナはシュナイゼルという少年のためにここまでの流血を極め、自身の目的のために数多の命を犠牲にしてみせた。
これを呪いと呼ばずなんと呼ぶのだ。
世界には多種多様の呪いが存在するが、人間が齎す呪いでこれほど醜悪で――楽しいものは存在しないだろう。
まるで喜劇だ。
――愛。
有史以来人は、それに振り回され、それに呪われ、それのもとで生きている。
なんて愉快な生き物なのだろう。
そして、それが、今目の前にいる少女を人間足らしめているものだと思うと、少年の笑いはこみ上げてきて止まらない。
今にも歌い出し、踊りだしそうな気分をより一層に抑えて、少年は膝をついた少女へそっと手を伸ばす。
「君の、シュナイゼルは無事だよ――アスナ」
少女はアスナと呼ばれ、顔を上げた。
何故、彼が自分の名前を知っているのか合点がいかなかったが少年はなんだかアスナの知識の外の術かなにかを知っているのかもしれない。
この世界はアスナの知らないことばかりでできているのだろう。
少なからず――アスナはこうやって人殺しをするときの感触を知らなかったように。
騎士でありながら、人を殺さず、などという理屈が通らないことを今、彼女は知ったのだ。
するり、と少年の小さな白い手がアスナの血に濡れた頬をなぞり、固まりつつあった血をなぞって剥がしとった。
涙でわずかに濡れていた頬は血をなぞれば僅かに線を引いていく。
美しい血化粧。
――彼女には赤が似合う。
そう。
血のように美しい朱が。
「ああ、ああ、かわいいアスナ。彼は今も君の帰りを待っている。心配だろう? あの薄暗い宮廷の中、数多の人間の欲にさらされる愛しの君が――」
その言葉は発せられるよりも早くその剣が鞘走り、少年を両断した。
薄暗い宮廷。
そうだ。
数多の人間の欲望に晒された彼の人が今、どうしているのか。
優しく優秀で、でも本当は何も持ちえない人。
すべてを持っているがゆえに、シュナイゼルという男はすべてを持っていなかった。
自分の感情すら曖昧なあの人があんな欲望まみれのところでどうしているのかと思えば、アスナの心は痛くてたまらなかった。
そばにいても自分がなにかできたということは思わない。
それほどアスナはうぬぼれてはいない。
――でも。
そうであったとしても、その事情を知っているものがそばにいるのといないのとではわけが違う。
この男と問答をしている暇など存在するはずもなく、シュナイゼルの名前に動揺して思慮が足りていなかったことに気付く。
この先に向かわなくてはとアスナは立ち上がって少年の死体を踏み越えて進んだ。
たった一人の我が君のためにと剣を振るう有史以来の騎士たちの気持ちがたった今アスナは理解できた気分だった。
たとえ何があったとしても、自分は自分の定めた主人のために生き抜いて、戦い抜いて、殺戮を肯定し、強くあらねばならない。
――それが主人の望まないことであったとしても。
その先に何が待っているのかなど、その時は気づきもしないのだ。
いつだって人間は物事が起こってからその未来の結末を知る。
少なからずこのときのアスナはそうであった。
この先の未来に、おそらく幸せな結末など訪れないのだろうなと静かに自分が踏み越えてきた屍の数を数えながら思ったのだ。
幼い少女が夢見ていたような白い美しい未来はない。
アスナは力なく笑った。
きっと、これから自分が歩いていく道は血と鋼と、殺戮の青春で間違いがない。
後悔はするつもりはないが、少しだけ――本当に少しだけ寂しいもののように感じられた。
もう、戻れないけれど。
不思議な鳥が羽ばたいたような紋章が浮かぶ、石の扉にそっと手を伸ばす。
――この先に愛しのあの人がいることを願ってしまった。
あの人にもう一度だけ、会いたい。
あの人の声が聞きたい。
たった唯一、血に濡れることを拒んだ豪奢な黄金のロケットペンダントが彼女の首元でそっと揺れた。
扉の先に広がった世界は黄金の空をしている。
数多の雲が浮かび、それまでアスナがいた研究所とは比べ物にならないほどの美しい光景が広がっていて――絶句した。
流血とは一切無縁の世界が広がっているのはあまりにも衝撃的で、しかも、それがただの研究所から出られたのだ。
目的であった外ではなかったが、アスナの足は確かに止まった。
その先に誰かが立っているのが見えた。
その人物は――ほう、と低く声を唸らせて振り返る。
それはアスナにとって見覚えのある人物であり、少しばかり安堵と恐怖が心の中で同居させる人物である。
「――叔父上」
漸くまともな言葉が発せられるようになった頃、アスナは自然と跪いていた。
その自然な動作に男はなにかを言うことはなく、ただ其れが当然であるという具合に振る舞った。
不遜な出で立ちをしているその大きな男をアスナは見て、質問をぶつけようとしても何を言うべきなのか逡巡していると後ろから足音が聞こえてきた。
「言っただろう、シャルル。彼女なら必ず、ここに来られると」
「ええ、兄さんの言うとおりになりましたな」
普段とは微塵も想像がつかない優しい声音と丁寧な言葉づかいで話しかけたのはアスナの向こう側。
慌てて気配を探ってみれば、一人、階段を上がってくる音が聞こえてきた。
振り返った先にいたのは先程アスナが一刀に斬り伏せたはずの少年であった。
彼の服からは夥しいほどの出血があったと分かるほどであるのに、彼の声はひどく明るくまるで流血などなかったかのような振る舞いであった。
剣を構えようとしてアスナの頭上から声が降ってくる。
「アスナよ、このブリタニア皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアを前に剣を抜くか。不敬であるぞ、弁えよ」
その威圧を含められた声にアスナは射竦められ、剣を捨て改めて平伏した。
膝を付き、顔も上げられない。
叔父であるこの男に頭が上がらないのは単に立場がそうさせるだけではなく、発せられる声がまさしく剣のごとく鋭く、その威圧感と言ったら獅子を目の前にしているような心地だ。
この男に出会って、安堵と恐怖が同居していたが今は恐怖の割合のほうが強いだろうか。
「駄目だよ、シャルル。この子はきっと、君の役に立つよ」
場違いな少年の声が場の空気を少しだけ和らげた。
「アスナに"ギアス"を与えようと思うんだ」
彼の言葉が何も理解できない。
ギアス?
誓約?
あまりにも言葉が浮かんでは消えていく。
そして、研究者たちがつぶやいていたことを思い出して、顔をしかめた。
少年はアスナにそっと近づき、そして再びアスナの頬へ手を当てるとそっと上を向かせた。
青と緑の瞳が少年を見上げて、驚愕と理解不能である現在の状況に揺らめいているのが見えた。
彼女は歴史の分岐に立ったのだ、と少年は笑みを深くした。
「君はどんな望みを叶えるのだろうね」
――富、名声、愛、なんでもいい。一つだけ、君が抱いた願いを思い浮かべてご覧。
少年の柔らかい言葉は毒のようにアスナの体を蝕んでゆく。
その全てに身を委ねてしまえば楽であると言わんばかりに。
アスナは初めて自分が圧倒的な恐怖に飲み込まれていく感覚に抵抗感を感じた。
ここで抵抗しなくてはと考えるよりも早く脳の中に何かが入り込んだ感覚、そして、自分の中の奥深くにある記憶が引きずり出されるような気がした。
会いたい人がいる。
その人との夢の中に生きていたい。
――もしも。
――もしも、私に望むことが許されるのなら。