皇暦2006年――六月。
シュナイゼルは宰相府の執務室で小さくため息を付いた。
母であるエレオノールがお隠れになられてから、シュナイゼルは学業以外の時間を殆ど仕事に充てるようになっていた。
後ろ盾をなくして、と悲観する貴族たちも少なくはなかったが、今はいないとはいえ娘の婚約者であるシュナイゼルの支援は惜しまないとシュヘンベルグ家がいい出したので、実質シュナイゼルの立場は何も失われていなかった。
そもそも、シュナイゼルには学業以外にもちまちまとクロスから言いつけられていた仕事をこなしていた実績もあったからかあまりとやかく言うような人物はいなかった。
あと、二年。
学業を終えれば、本格的にこの宰相府の執務室はシュナイゼルのものになる。
漸く、欲しいものを探せる地位が目の前に見えてきた。
シュナイゼルは一枚書類をめくって、ふと窓へ視線を向けた。
連日振り続けていた雨は、昨日からぱたりと止んでしまい、まだまだ厚い雲がかかっているがその隙間から真白い光が溢れて落ちてくる。
その光は新緑を照らし出して、雨粒と相まって美しい輝きを放って――シュナイゼルは目を細めた。
あと二日で――アスナの十六歳の誕生日が来る。
昨年にあんな事件があったばかりだが、伯父であるクロスは例年と変わらないパーティーを開くことをマスコミに大々的に公表した。
それは自分たちがそういったことには屈しないという示威行為でもあったのだろうが、戦略的には確かに間違っていないとシュナイゼルも思う。
――思うが、いたたまれない気持ちはある。
別に母親の死に今更感じ入ることすらなにもないが――結局最期まで、彼女とはわかりあえなかっただけのことだ。
表面上は母を失ったか細い少年を演じてはいるがそれもあと数年の話しで――と、考えたところで部屋がノックされた。
「どうぞ」
「失礼しますよ、っと」
返事のあと直ぐにドアが開いて入ってきたのは――ラーズだった。
赤い髪は以前に比べ少し伸ばされており、白いリバリーズが妙に真新しくて違和感があるくらいだ。
――なんというか、騎士服に着られているような印象。
「軍への特仕はどうしたのかな」
アスナがいなくなってから、ラーズとは葬儀以来顔を合わせてなかった。
特別、会う理由もなかったし、シュナイゼルはラーズと会いたくなかった。
その赤い髪は、蒼と緑の瞳はシュナイゼルに今はいない愛おしい人を思い出させた。
性別が違うから勘違いすることはないが、後ろ姿を一瞬だけみた時に錯覚しそうになる。
だから――避けてきた。
「……一応、それもやるけど。――今日から、第二皇子隷下の騎士団に軍属として配備されることになった」
シュナイゼルは目を見開いて、手を止めた。
「君が?」
「……そう。俺が」
「……――君がアスナの代わりになろうとしているのかな」
少しだけ声に怒りが滲んだ。
それをラーズも察したのか、わずかに居心地が悪そうに視線をそらして、ため息を付いた。
「アスナの代わりになんてなれないし、なりたくない。お前の中で、アスナっていう存在が特別だったのは知ってるから」
ラーズははっきりとそう言って、シュナイゼルを見る。
「俺達にとって、アスナってそういう存在だ」
――冒し難い、特別な人。
誰もその位置に入れ替わることのできない人だった。
ラーズにとっては人生の半身。
シュナイゼルにとっては生涯の人。
傷をなめ合うことも許されない。
シュナイゼルの視線をラーズは柔らかく受け止めて笑った。
「なるほど、それは違いない。――ゆくゆくは私の専任騎士かな」
「シュナイゼル殿下がそれを望むなら。――俺はまっぴらごめんだけどな。ただ、昇進するのに、今、ここがいいってだけで」
「私を利用しようと?」
「一番効率いいだろう? 互いにさ」
シュナイゼルはふと笑ってラーズが差し出してきた書類を受け取った。
それはラーズがシュナイゼルの部下として好きに使えるようになる書類で、シュナイゼルがサインをして漸く効力を持つものだ。
それを一瞥したあと、シュナイゼルはインク瓶の傍に置いてあった万年筆を手にとった。
サラサラとよどみなくサインをしたあと、それをラーズの手に返す。
「互いに良い方向に進めばいいけれど」
そう言って笑ったシュナイゼルの手から書類を受け取ったラーズはニヤリと笑った。
黒いリバリーズを着込んでいた彼は静かに踵を返していく。
恐らく直属の上官は別の人間なのだろう。
「ラーズ」
「……はい?」
ラーズは訝しげに首を傾げ、振り向いた。
もう呼び止められる用事もないかと思ったのだろう。
シュナイゼルはデスクの上で肘をつき、両手の指を組んでラーズを見ていた。
物静かではあるが、誰にも何も言わせないような、そんな威圧すら持っているように見える。
ラーズは一瞬、身をひるませながら、シュナイゼルの言葉を待った。
「アスナは生きていると思うかい?」
それは、と口にしかけて止めた。
多分、どういう形であれ、シュナイゼルが求めている回答と自分が今できる回答が噛み合わないと流石のラーズでも気付くことができたからだ。
ラーズが無言を通して、考えているとシュナイゼルは緩やかに目をつぶって、しかし穏やかに微笑んで言った。
「もういいよ、ありがとう」
帰りたまえ、と言われ、ラーズは納得が行かなかったが、一応相手は第二皇子で、ゆくゆくはこの国の宰相の地位もものにするだろうという男に強く反抗する気にはなれなかったのか静かに敬礼して部屋から出ていった。
シュナイゼルは静かに立ち上がった。
窓の外に広がるのは美しい白薔薇の園である。
――君がいなくなって、もう一年だ。
相変わらずシュヘンベルグ家の双塔の城――ライブラ離宮は六月になると人が絶えないほどであり、当主になることが殆ど決まっているラーズの誕生日ということもあってか、その賑わいはいつもよりもすごいものだった。
去年と比較しても遜色ないその集まり具合にシュナイゼルは少しばかり嘆息しながら、招待状をシュヘンベルグ家の使用人へ見せた。
彼らはシュナイゼルがやってきたことに頭を下げ、旦那さまが別室で殿下をお待ちでございますと声をかけた。
伯父が個人的にシュナイゼルに会いたいのだという。
シュナイゼルは別段拒む理由も、パーティーが本格的に始まるには些か早い時間だったということもあって、伯父と会うことを二つ返事で了承した。
今、シュナイゼルにとっては伯父のクロスは後見人だ。
最低限、成人するまでは彼の庇護に入っていたほうがいいだろうし、成人してからも何かと世話になることもあるだろう。
彼は顔が広く、宰相となってからの自分の人脈作りにも当然必要な存在だとシュナイゼルは知っていた。
伯父の側近であるオズワルドという執事に連れられてやってきたのは一つの部屋の前だった。
しかし、ここはライブラ離宮に住まう住人たちの私室エリアであり、部屋の配置を見る限りで――とシュナイゼルが考えたところで、オズワルドがその答えを出した。
「そのとおりでございます、殿下。こちらはお嬢様……アスナ様がお使いになられておりました」
シュナイゼルはわずかにオズワルドに視線を向けただけで、返答はしなかった。
アスナがシュナイゼルの部屋にやってきたことはあったが、シュナイゼルがアスナの部屋に来るのはこれが初めてだった。
皮肉にも本人がいないという状況で、だが。
オズワルドがドアを開けて、シュナイゼルを導くので、シュナイゼルは一歩、部屋に足を踏み入れた。
――思ったよりも、女の子らしい部屋だった。
美しいリボンで飾られたジュエリーケースや、綺麗に整頓されている髪飾りやネックレスの棚が目についた。
その近くに並べられた可愛らしいぬいぐるみはしばらく主に抱かれていないのだろう、少しだけホコリを被ってさえいた。
「……意外だろう。騎士になるとは言っていたがあいつはこういうものが好きだったんだ」
不意に聞こえてきた声に、シュナイゼルはそちらへと顔を向けた。
声の主はやはり、伯父である。
彼はすでにパーティー用に装飾が施された礼装を身に着けていた。
こういった場では大公爵の立場が優先されるのか、それとも伯父が元々窮屈なことを嫌う人だからか――彼はリバリーズをあまり好んできていないようだった。
ラウンズには決まったリバリーズがあり、それに倣うのが通例だが、伯父がそれを着ているのをみたのはシュナイゼルでも片手で数えるくらいだ。
「アスナの少女趣味は知っていましたよ。本人は隠せているつもりのようでした」
シュナイゼルは落ち着いて答えて、ぬいぐるみを一つ持ち上げた。
掃除はしていても、無人の部屋だ。
かすかに埃を被っていたそれを払ってやると、優しく棚の上に戻した。
伯父は少し、疲れているかのように見えた。
忘れそうになるが、伯父はシュナイゼルの父よりも五歳ほど年上で、五十代も後半に入っている。
実年齢よりもずっと若く見えるその男は騎士として、シャルルの皇帝即位時からずっとシュヘンベルグ家の当主として、大公爵として、そして、このブリタニアの十三番目の騎士として立ち続けていた。
――少しだけ、ほころんでしまった布のように、今の伯父はそういった経歴のすべてが廃れてしまっているようにシュナイゼルには見えた。
彼は近くにあった椅子に腰掛けると、小さく嘆息する。
少しだけ、身を屈ませ、両手を組んだ彼は小さく見える。
「今日、俺は大公爵位を降りる」
その言葉はシュナイゼルを驚かせた。
いつだって自信に満ちていた顔はあまり変わってはいないが、この一年で急激に老けたように見える。
それは彼なりにアスナのことに対して心労を抱えていたのだろうか――それを押し隠してこれまで振る舞ってきたのだろうか。
「俺は……恐らくこの罪に一生悩まされる」
「……私に懺悔ですか?」
「俺はお前と、あいつに一生恨まれても仕方ない。何なら、今日のパーティーのあとにでも、お前は俺を処断したくなるだろう」
「まさか。今、私の生活が安寧であるのは伯父上がいてくださるからではないですか」
「……どうだろうなぁ」
伯父は力なく笑うと、天井を見上げた。
本当に今日の彼はどうしたのだろうか。
「お前だけは、あいつを否定しないでやってくれ」
いまいち、今日の彼の言葉は要領を得ないものばかりだった。
シュナイゼルは少しだけ顔をしかめ、クロスを見る。
「あいつは、お前だけが光なんだ」
静かに組まれた両手に力が入る。
本当に懺悔をしているようにも見えたし、今にも何かの重圧に押しつぶされてしまうのではないかと錯覚してしまう。
「俺は当主からは降りるが表舞台から降りるわけじゃない。……お前や、コーネリアが一人前になるまでは支援を続けさせてくれ」
そう言って、クロスは力なく笑った。
それはシュナイゼルにとってはありがたい申し出だったし、次の当主が誰であれ、クロスが生きているのなら、彼が発言力を持つのは目に見えていた。
「それと……」と伯父は立ち上がりながら、静かに話し出し、シュナイゼルの肩を叩いた。
「この件、ラーズはグルじゃない。あいつは本当に何もしれない」
「……伯父上、今日はどうされたというのです」
「シャルルを恨まないでやってくれ。……多分、あいつも、苦渋の決断だった」
「…………」
「……無理だろうけどな」
俺だったら、殺してる。
そういった彼はやはり、力なく笑っていて。
ゆったりとした足取りでドアに向かって歩いていくのが見えた。
少し振り返る。
「――大きくなったなぁ、シュナイゼル」
感慨深げにそういったその人に「……もう、十六ですから」と答えるので精一杯だった。
行くぞ、と言われ、アスナの部屋から外へ出る。
主のない部屋は――静かで、孤独で、とても寂しかった。
あまり長く話していたという覚えはないが、パーティー会場にはそれなりに人が集まっているのが見えた。
シュナイゼルは一番広いエントランスから続く会場へ足を踏み入れて、今年は最初から会場入りをしているらしいラーズを見つけた。
丁度、彼は沢山の人に囲まれ、挨拶をしている真っ最中だったので今、声を掛ける必要性は感じず、だからといって他の人と話をしたいような気分にもなれなかったので、適当に飲み物をもらって、静かに壁側へ寄った。
いくら第二皇子とは言えど、この場での主役はラーズだったので、あまり深く話しかけてくる人間も、追ってくる人間もいなかった。
皆がそれなりに、昨年婚約者を亡くし、先だって母を亡くしたシュナイゼルに気を使ったのだろう。
一人で会場をながめていると、兄上、と少し潜められたような声が聞こえてきて、シュナイゼルは朗らかな笑顔を浮かべた。
「コーネリア、……一人かい? 駄目じゃないか、美しいレディが一人でパーティーにいるだなんて」
「あ、兄上……!」
シュナイゼルの言葉にコーネリアは見るからに頬を赤くして、動揺した。
軍属になってから、それなりに経っているがこういった愛らしい一面は何も変わっていないな、とシュナイゼルは少しだけ肩から力を抜いた。
「おやめください……」
「本当のことだよ。そろそろ、コーネリアも専任騎士をつけることを考えたほうがいいかもしれないね」
「……私には必要ありません」
少しだけむっとしたように表情をしかめたコーネリアにシュナイゼルは困ったように笑い、その肩を叩いた。
「言っただろう? 君は美しいのだから、こういう場で一人なのは良くない。――専任騎士なら、いかなる時だってともにいられるのだから、君にとっても良いことだよ」
――そのためにはまず、信頼できる人を見つけなくてはね、とシュナイゼルが笑うので、コーネリアは少しいたたまれなさそうに目を伏せて、そうですね、と返事をした。
すると、人の波から抜けてきたのだろうラーズがネクタイの位置を直しながら、シュナイゼルとコーネリアの元へ歩み寄ってきた。
「両殿下、ご機嫌麗しゅう。本日はお越しいただきありがとうございます」
丁寧な礼とともに述べた口上にシュナイゼルもコーネリアも同時によく化けるものだ、と思うがそれは口に出さず、シュナイゼルは手の甲に落とされるキスを黙って見ていた。
「そういえば、ラーズ」
雑談もそこそこにシュナイゼルは伯父の様子のおかしさを思い出した。
「伯父上は、体調でも悪いのかな」
「……うーん、そんなことは。ただ、ここ二ヶ月ぐらいかなぁ、ふらりとどこかに出掛けていってたみたいだけど」
だが、正直それがおかしいとはラーズは感じていなかった。
元々が家に留まっていることの少ない人だったし、どうせ愛人のところにでも行っていたのだろうというほどの認識だった。
一部の使用人たちはそんなクロスになにかいいたげな顔をしていたし、ラーズのことを気に留めるようなことも多かったように感じるが――それも気のせいだろうとラーズは思った。
「……何かあったのだろうか」
「うん?」
「いや、先程呼び出されてね――」
話を続けようとしたところで、一度、照明が薄暗くなる。
互いが認識できる程度の明かりまで落とされ、スポットライトが当てられると、シュナイゼルが会った先程までとは打って変わって道化の仮面でもかぶったかのようないつもの様子の伯父が大きく手を振り上げて、皆の前で一礼してみせる。
「皆様、ご機嫌麗しゅう。――そして、今年も我が愛しの弟、皇帝陛下のご臨席を賜りましてまこと、恐悦至極」
――シュヘンベルグ家を代表いたしまして、皆様にお礼を申し上げます。
毎年恒例の挨拶が終わると、拍手が起こる。
それに対してハットを外して、三方に向かって礼をし、クロスは顔を上げた。
その瞳はわずかにシュナイゼルとラーズを捉えたかと思うと、ほんの刹那、苦しそうに歪められ――またいつもの調子へと戻ってしまう。
「さて……皆様もご存知の通り、私も騎士を続けるには難しい年となりました」
伯父は静かにそう話しだした。
その雰囲気は決して、嘘を話しているような、日頃の道化のイメージとはかけ離れた冷静な男の姿がそこにある。
会場全体が異様な静けさに包まれ、シュナイゼルもラーズもわずかに息を呑んだ。
「皇帝陛下より先日、改めて許可をいただき――わたくし、クロス・シュヘン・アンヌ・クラウンはシュヘンベルグ大公爵及びナイトオブサーティーンの座より降りることとなりました」
事前に聞いていたシュナイゼルですら、改めて公の場で発表されれば息を呑まざるを得ないし、衝撃は免れない。
何も聞かされていない招待客は何を思うのだろう。
シュナイゼルは不意にコーネリアをみやった。
隣のコーネリアは驚きに声も出せないという雰囲気であった。
彼女の中では今でも伯父は健在だったのかもしれない。
その隣、ラーズは――いうべきことを失っていたようにシュナイゼルには見えた。
事前に聞かされていなければならない彼が何も聞いていなかったのと同じ反応をしている。
シュナイゼルは違和感を覚える。
――なぜだ。
なぜ、当主の座を継ぐはずのラーズが何も知らないのだろうか。
それはラーズよりも当主を継ぐのにふさわしい人間がいるから――。
(まさか)
シュナイゼルは首を横に降った。
頭をよぎった、紅蓮の髪の少女。
そんなわけはない、と頭の中の何かが否定をする。
(しかし、伯父上は――)
彼女が生きているとするなら、なぜ、ラーズにも、自分にも――彼女と親しかったすべての人間に対してそれが伝えられていないのだろう。
この一年、シュナイゼルやラーズがどんな思いで過ごしていたかなど、あの伯父が知らないはずがないのだ。
心臓が早鐘を鳴らすかのようにうるさい。
静まれ、静まるんだ、と何度も胸中で唱えて、全員が伯父の言葉を待っていた。
クロスは静かにドアに向けて、手を伸ばす。
「皆様――万雷の喝采を」
その声は静かな宣誓のように聞こえた。
クロスの指先がドアの前に向かうと、静かにドアが開かれた。
「ご紹介しましょう。――シュヘンベルグ家の新しい当主を」
伯父に当てられていたスポットライトが消され、ドアの前へと移される。
ドアの前にはまだ誰も立っていない。
しかし、開いたドアの向こう側から靴音が聞こえてくる。
全員がそのドアから目が離せず、誰一人として声すら発していない。
その靴音がたしかに静寂の中に響き渡り、そして。
燃えるような赤い髪はすでに腰の長さを超えていた。
高い位置で一つに結わえられたそれが彼女の歩みに応じて揺れると焔のように見えた。
漆黒の闇を写し取ったような黒のリバリーズは少女らしさを忘れていない純潔さも秘めているよう。
白い肌はすべて黒で覆われ、しかし、白い顔を彩っているのは蒼と緑の美しい宝石のような瞳。
瞳は切れ長で、鋭さを持った――まるで剣のような美しささえ秘めている。
左目は両断されており、深い疵痕が痛々しい。
スラリと立つ姿は大輪の薔薇のごとく咲き誇り――彼女はスポットライトの下に現れた。
「アスナ・シュヘン・ガル・クラウン――私の娘であり、皇帝陛下の姪であり、この度、奇跡の生還を遂げたこのブリタニアの未来の英雄に、皆様どうぞ、大きな拍手を」
拍手は起こらなかった。
いや、誰も起こせなかった。
そこにいたのは紛れもなく、一年前の、今日、シュナイゼルの前で撃たれ、連れ去られたアスナで間違いなかった。
アスナは静かに上座に座する皇帝陛下を睨みつけるような鋭い視線で見上げていたが、その場に一度平伏するため膝を折った。
それはこの場にいたすべての皇族への敬意でもある。
しばし、その平伏が続いたかと思うと、優美な動きで立ち上がり、大きなフリルとなっていたリバリーズの裾を払い、アスナは歩き出した。
「まさか」と潜められた声がシュナイゼルの耳に届いた。
「生きているはずが」また一人、誰かが言う。
「エレオノール様はさぞや無念であろう」段々と声は潜められなくなり。
「生きて帰るなんて、なんて強運な」悪意すら混じっていた。
それはラーズの耳にも入っていたのだろう。
耐えきれないというように、目をそらして――アスナを見ることをやめた。
(ああ、私も、できるならそうしたかった)
――痛々しい。
あの黒い衣装があまりにも痛々しくシュナイゼルには見えた。
その瞳は以前のような優しさは微塵も感じられず。
ただ、冷徹に歩く姿に切なくてたまらない。
あれがアスナだとはっきりわかるのに、まるでアスナではない別人を見ているような気分だった。
ついてくるスポットライトに照らされながら、アスナは静かにシャルルの前で平伏した。
「長らくの不在――叔父上を始め、多くの皆様にご塵肺をおかけしましたことをまずは謝罪したく存じます」
声の質が違う。
まるで別人ではないか、とコーネリアが横でつぶやいた。
「皇帝陛下の元へ再び参じられました慶び、これよりブリタニアの一層の繁栄の礎となりお返しいたしたいと思います」
緊張の様子も微塵もなく、アスナはつらつらと口上を述べてみせた。
ほう、と感嘆したのはシャルルだった。
「まるで別人よな」
その一言は誰しもが思ったことだった。
間違いなく、一年前のアスナは天真爛漫までとは行かずとも明るく優しい――騎士になりきれない少女だったのだ。
「茨を踏み、花を踏みにじり、数多の瓦礫を踏み越えてお前は何を得た」
「……強さを」
「強さ、と?」
「はい。今まで私は目が見えていながら、全ての事柄から目をそらしておりました。これこそ、盲目。盲信にも等しい我が愚行、それこそが真の弱さであったと」
アスナは顔を上げた。
「叔父上、私は弱かったのです。間違いなく」
「ほう」
「私はこの一年で学びました――守りたいものがあるのならば剣を取り、戦うしかないのだと」
アスナの瞳は静かな焔を宿していた。
「自らが良かったと思える選択ばかりを選ぶことができないのならば――自らの選択を正当化するために強くなるしかないのです」
茨を踏み越えた。
足はぼろぼろになった。
数多の花を踏みにじった。
美しかったはずのそれはただの廃墟となり。
それでも――その選択が間違っていなかったと思わなくては、今、自分が立っている意味がなくなってしまう。
アスナは今、立つために強くなるしかなかった。
ぎり、と握りしめられた拳が震えているのがシャルルには見えたが、敢えて何も言わなかった。
「良い――いずれ、そなたの自らの過ちに焼かれ、括られ、数多の罪の茨に絡まれ動けなくなるだろう。だが、今のお前の言葉が真理である」
「全てがいい方へと転じる選択肢などこの世にはない。故にそれが正しかったかどうか、そなた自身が揺るがぬほどに強くなれ」
アスナの瞳が一瞬だけ、あの日、花に囲まれて笑っていた少女の色を灯して、わずかに涙でくすんだかのように見えたがすぐに騎士の色を戻して――伏せられた。
「その茨の道は過酷である。儂が言えた義理ではないが――そなたの大切な人間を見失わぬことだ」
その声はアスナにしか聞こえなかっただろう。
本来ならば、イエス・ユア・マジェスティと答えなくてはならないところであったが、アスナは敢えて、小さく――はい、叔父上と答えた。
その言葉だけは皇帝としてのシャルルではなく、少なからず叔父として接してくれたわずかな記憶にあるシャルルだったと信じて。
「神聖ブリタニア帝国第九十八代皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアの名を持って――本日を以てシュヘンベルグ大公爵家当主及びナイトオブサーティーンの名をそなたに委ねる」
シャルルの朗々とした声が会場に響き渡る。
「己の裁量の許す所に於いて――我が名の使用も許可しよう。――存分にその才花を以てブリタニアへ尽くすが良い、アスナ」
「イエス・ユア・マジェスティ。――オール・ハイル・ブリタニア」
淡々と答えてアスナは立ち上がった。
そして、会場全体に明かりが灯ると、ビスマルクとマリアンヌが拍手をしたことをきっかけにぱらぱらと拍手が起こり始め、次第と渦のようなうねりを上げてそれは大きな物となっていく。
ただ、一人。
シュナイゼルを除いて。
シュヘンベルグ家の前庭にも、細かい作りは異なるものの、シュナイゼルとアスナが逢瀬を繰り返していた薔薇園によく似た薔薇園がある。
その四阿は残念ながら薔薇のチャペルでは囲まれておらず、周囲から誰がいるか確認できる作りとなっており、そこから少し離れたところには噴水も見える。
シュナイゼルはパーティー会場から逃げ出すようにしてこの四阿へとやってきた。
生きていてくれた歓喜。
それと同時にやってくる後悔。
あの日、手を離していなければ、彼女はこの道を選ばなかったのではないかという思いが失いかけたシュナイゼルの心に火を灯して――ただ苦しかった。
(純粋に喜べばいい)
おかえり、と声をかけて、抱きしめて、良かった、といえばよかったのに。
(そうすれば、もしかしたら彼女は昔のように笑ってくれたかもしれないのに)
一年の不在。
彼女が単純に無事であるなどとシュナイゼルは思えなかった。
あの変貌ぶりこそ答えである。
優しかった少女の面影は鳴りを潜めて――騎士として凛と立っていた姿はシュナイゼルには見慣れない別人のように映った。
どれほど、つらい思いをしたのか。
どれほど、痛い思いをしたのか。
シュナイゼルには想像もつかない。
絶望したのだろう。
そして、見失いかけて――アスナは生きるためにああなるしか、選択肢がなかったのかもしれない。
握りしめた手が震える。
「殿下、シュナイゼル殿下はおられますか」
は、と顔を上げてみれば、四阿の向こう側から騎士剣を下げたアスナがこちらに向かってきているのが見えた。
その足元はわずかにおぼつかないように見え、アスナはしばしキョロキョロとあたりを見回していた。
「……殿下、そちらですか?」
決して見えない距離ではないはずなのに、アスナはそう確認するようにつぶやきながらゆっくりとした足取りでシュナイゼルのいる四阿へ向かってきた。
「――殿下、こちらですね、よかった。探しましたよ」
――その瞳は、シュナイゼルを見ていなかった。
「……アスナ」
「まだ、完全ではなくて。いずれ、違和感なくお話できるようになると思いますので――暫くの間、ご迷惑をおかけします」
アスナはそう言って笑った。
少しだけぎこちないような笑顔だが、やはりそれはシュナイゼルの顔へ向けられてはいない。
歩いてくるときの違和感と今を合わせて、シュナイゼルは一つの結論に至った。
「――まさか、目を?」
シュナイゼルは立ち上がった。
そのいつもは変わらない穏やかな表情を浮かべていたはずの顔がぐしゃりと歪んだ。
殿下と呼ぶことよりも、騎士として振る舞うことよりもずっと、それが衝撃的だった。
「……? 父からなにも聞いていないのですか?」
「…………いいや、なにも」
シュナイゼルは力なくつぶやきながら、そっとアスナの頬に手を当てた。
左の疵痕が思ったよりも深く、シュナイゼルの指がなぞるとそれまでとは違う感触がして顔をしかめた。
「もう思ったより痛くはないのです。殆どふさがっておりますから」
アスナはそう言ってわずかに微笑んだ。
不敬をお許しください、とアスナはつぶやいて、シュナイゼルの手に――手袋をはめていない手を重ねた。
「……殿下なのですね」
噛みしめるように言う。
泣きそうな声で、顔で。
アスナは必死に声を絞り出していた。
「シュナイゼル殿下ですね、私の前にいらっしゃるのは」
はらりと、その瞳から涙がこぼれた。
力なく握りしめられたその手はあの日よりもずっと傷だらけになっていた。
静かな嗚咽がわずかに聞こえる。
「良かった……――殿下、もう一度、貴方に逢えてよかった」
それだけで、とアスナは言う。
一度はらりとこぼれた涙は堰を切ったようにこぼれ落ちていく。
小さな涙は、大粒に変わり、シュナイゼルの手を濡らした。
「殿下、殿下」
アスナが何度もシュナイゼルを呼ぶ。
必死にその手を握りながら。
泣きながら。
「ここにいるよ」
――私はここだ。
会いたかった。
声が聞きたかった。
唇が震えて、シュナイゼルの視界の先のアスナが滲んだ。
「もう、泣かなくていいよ」
アスナの空いている手を導いて自分の頬に触れさせた。
「殿下、泣いておられるのですか」
「キミに逢えたのが本当に嬉しかった」
もう、会えないと思った。
あの日の君はもう死んでしまったのかもしれないとさえ、思っていた。
だが、ここにアスナは帰ってきた。
それだけでいいとは思えない、だが、それはこれからだ。
「アスナ、おかえり。本当に君が生きていてくれてよかった」
おかえり、仮面を外せる人。
その指先にそっとキスを落とした。
アスナはちくりと胸が痛んだ。
こんなにも、この人の元に戻れたことが嬉しいのに。
この人のそばはいつだって温かいのに。
この人から与えられるものは幸福なのに。
(この人には嘘をつかないと決めた私が、貴方にすべてを話すことができない罪を背負ってしまった)
嫌われたくない。
貴方から二度と離れたくない。
たったそれだけのことで、アスナは、あの血に塗られた路を隠した。
――ただ、それが切なくて苦しかった。
「ごめんなさい……っ」