壊れる幻想

 アスナが通されたのは黄昏の間である。
 ブリタニア本国に存在する黄昏の扉を使って中に入ることができる特殊な空間であり、これこそシャルル・ジ・ブリタニアの夢を現実へと近づけたものである。
 黄昏の扉の前で、アスナは小さく息をついた。
 ――ここにはあまりいい思い出がない。
 皇帝の侍従が先へと促すので、アスナはそっと扉の前に手を当てて目を閉じた。
 しばらく、体がこの現実からなくなってしまったかのような感覚が体から消えなかったが――漸くアスナは意識を黄昏の間に固定することができた。
 目を開けて、アスナはぐっ、と噛みしめる。
 この中であれば、アスナは本来の視力を取り戻す。
 ――いや、厳密には視力を取り戻したのではなく、体のあらゆる神経が目として機能して、視界を手に入れる。
 ――C因子と呼ばれる特殊な遺伝子によって、アスナの体はこの黄昏の間に於いてのみ、目を取り戻し、視界を取り戻し――ものを見ることができた。
 外はすでに暗くなっている時分だというのに、この世界はいつでも時間が止まってしまっているかのように黄昏時を維持し、世界はうっすらとした朱色に染まっていて、どこか薄ら寒く感じる。
 この空中にぽっかりと浮かんでしまっているような祭壇の先に一人の影が見えて、アスナはそちらに向かって歩き出した。
「来たか」
 祭壇の上で待っていたのは――シャルルである。
 そして、その近くには一人の子供がいた。
 見覚えのないその子供は、アスナに向かってニコリと笑いかけて――その姿をマリアンヌへと変えた。
「……これは」
「ふふ、驚いた?」
 ドレスをはためかせて、くるりと回ってみせたマリアンヌはアスナが白ロシア戦線に行く前と何ら変わらないと言った様子で笑いかけた。
「私のギアスはね、人の心を渡るギアスだったの。肉体が死ぬ直前に漸く発動して――このアーニャ・アールストレイムの精神に宿ったのよ」
 アスナは驚愕で何も言えなかった。
「では、なぜ、マリアンヌ様は死んだことに……」
「兄さんだ」
「……V.V.の方、ですか」
 アスナは顔をしかめた。
 シャルルには存命している二人の兄が存在している。
 一人はシャルルの異母兄であり、アスナの父、クロス。
 もうひとりは――V.V.という少年である。
 V.V.という少年にはアスナもいい思い出はないが、ギアス能力を与えてくれたコード保有者である。
 コードとはギアスの根源であり、人間の超越者。
 あらゆる時間の概念から隔離された、幽世の存在であり、自らのギアス能力を代償にして他者のギアス能力を発現させられるもの。
 ――それが、シャルル・ジ・ブリタニアの双子の兄、V.V.である。
 世界にはもうひとりのコード保有者が存在するが、アスナはその一人とはあまり顔を合わせていない。
 アスナにギアスを与えたのはV.V.であり、彼との契約によってアスナはシャルルの指示に従っている。
「ルルーシュや、ナナリーにはこのことは」
 今も、たった二人きりであの離宮で身を寄せ合っているであろう兄妹を思い出してアスナは顔をしかめた。
 委細はこうなれば、アスナにはどうでもいい。
 シャルルがどう考えていようが、V.V.が何を考えてマリアンヌを殺そうが――アスナはあくまでも手足でしかない。
 いずれ計画のために使われるだけだ。
「――伝える必要はなかろう」
「ええ。アーカーシャの剣が完成すれば、関係ないもの」
 アスナは静かに目を見開いて、そしてゆっくりと手から力を抜いた。
 ――今まで、絶え間なく感じていた違和感が形になった瞬間だったのかもしれない。
「……承知いたしました。私はV.V.にもこの件を黙っていればよろしいのですね」
 これほどまで委細を話すお前のことは信頼している、と皇帝なりに示しているのかもしれないが、アスナの中では皇帝への信頼は失墜したのも同然であった。
 この後の行動は、ひとつなのだから。
「アスナ、後は頼むわよ」
「――イエス・ユア・ハイネス」
 マリアンヌに向かってアスナは頭を下げた。
 そして、踵を返してアスナは歩き出す。

 アーカーシャの剣は、Cの世界……無意識集合体を破壊するために作られているギアスの切り札のようなもの。
 世界を壊し、世界を改めて一つにし、人類全ての気持ちを一つにする。
 ――そうして、世界はペルソナをなくして、平和になる。
 死者も、生者も、関係ない。
 全ての人間が一つとなった世界。

 祭壇の階段を降りきって、黄昏の間から外へ出ると、アスナの視界は再び暗闇の中へ落とされた。
 あの世界でのみ得られるアスナの視界。
 体の多くの器官が目の代わりを果たそうと必死になって動いているのがアスナにはよく分かる。
 ――あの日、あの地獄から戻ってきた後、アスナはまともに立つことすら困難だった。
 目が見えない、というだけで本当にできることは少なくなるのだ。
 人間の情報の約八割と言われており、人は目で見ることで多くのことを認識している。
 その情報が一つ、欠落するだけで――あらゆることが困難となり、絶望に叩き落とされるものだ。
 アスナは剣が握れなくなった。
 握ることはできても、以前のようにまるで舞うように奮っていた戦いができなくなってしまったのだ。
 研究所を脱走するために全ての器官を使い果たしてしまったかのように、アスナの体は思ったように動いてくれない。
 あのときは恐らく、体のすべての神経が目となった。
 会いたい、ただその目的のために、体の全てが剣となり、相手を切り裂いていたに過ぎない。
 あのときほどの力は今の自分にはないと知った時、アスナはどれほど絶望したかわからない。
 剣を握って、振り下ろすだけでは戦いにならない。
 食事すらまともに一人で取れないような状況では、戦うなど以ての外だった。
 椅子から立ち上がるだけでも不安で、必死になって。
 あのリハビリの間が一番苦しかったとアスナは思い返して、少しだけ震える手を握って嗜めた。

 一歩歩けば転び。
 何かをしようとすれば、物を落とし。
 何度、怪我をしたかわからない。
 それでもアスナは諦めるわけには行かなかった。
 脳裏に焼き付いたシュナイゼルのことを思い返す度に、このままでは駄目だ、前に進まなくては、と必死で自分を奮い立たせて――
 アスナが再び剣を握れるようになったのは、戻ってきてひと月。
 さらにそのひと月後には、ビスマルクとほぼ互角の剣を打ち合えるようになった。
 さらに、そこからもうひと月も経てば――アスナは日常生活の大半を自分でできるようになっていた。
 異様なほどの回復具合に侍医たちは驚いて、奇跡だ、と言ったが視力が戻ったわけではない。
 アスナは文字通り、全身を目のように研ぎ澄ませた。
 触覚――皮膚の感覚などその最たるものだ。
 わずかな空気の震えすら感じ取るようになり、アスナは僅かなものですら、敏感で肌で感じる。
 光すら――皮膚で感じ取れるようになるもので、感覚が鋭くなりすぎたせいもあって、普段はそれを閉じる意味合いも込めてリバリーズは露出を少なくしている。
 耳も鼻も――以前に比べればずっと良くなった。
 少し離れた場所からでも、聞こえてきた足音は全て聞き分けることができるようになったし、匂いの区別もつくようになった。

(我ながら、大した執着だ)
 醜くも、生にしがみついた。
 シュナイゼルという人にすがりついて今の自分がいる。

 アーカーシャの剣が完成すれば――いつか、シュナイゼルがペルソナを棄てて、あの時の、優しい笑みを見せる少年だった頃に戻れるのだろうか。
 ――いや、とアスナは首を横に振った。
 それは、無理だ。
 自分も、シュナイゼルも。
 きっとお互いに話したくないことが増えてしまった。
 アスナは自分の過去をシュナイゼルに知られるのが怖い。
 たった一つの、エゴのために、あの血の道を作ってしまった自分を彼は軽蔑し、許さないだろう。

 暗闇の中、いつも瞼の裏にこびりついて離れないシュナイゼルの顔が曇ることが恐ろしくてたまらない。
「殿下」
 弱々しく、呼んだその声に応えてくれる人はいない。


 それから、ひと月も経たないうちにルルーシュとナナリーが日本へ行く日取りが決定した。
 八月の折――日本もさぞや暑かろう。
 アスナはアリエスでの見送りとなった。
 家財の殆どはここに残っていくこととなり、ルルーシュとナナリーは殆ど身の着一つで日本へと送られることとなったのだ。
 空港まで見送りたい気持ちがあったが、アスナは皇帝から見送りを禁止された挙げ句、公務が立て込んでいたのでアリエスで朝、ルルーシュとナナリーに会いに行くこととなった。
 アレほど麗らかな場所だったアリエスは、不気味なくらいに静まり返っており、裏門の車寄せにアスナの乗っているセダンがついた時は、誰の出迎えもなかった。
「……ここまででいい。待機していてくれ」
 アスナは車から降りると、その旨をSPに告げた。
 彼らは指示に対して是と答えると、そのまま静かに待機し始める。
 それらを見返ることもなく、アスナは通いなれたアリエスの廊下を歩き始めた。
 前庭ではスターチスの花が相変わらず綺麗に咲いていて、その香りが鼻腔をかすめる。
 ――その中に、二人の兄妹はいた。
 目が見えない妹のほうが先に気づいたらしい、はと顔を上げて「お姉さま?」とアスナを呼んだ。
 それに釣られるようにしてルルーシュもアスナの方へ視線を向けて、顔をしかめた。
「何をしに来たんだ」
「最後の見送りに」
 アスナはそう言って二人の元へ歩み寄っていく。
「……いらない」
「ああ、わかっているさ」
 アスナはそう言ってルルーシュの頭をなでて、その前に膝をついた。
「必ず、ナナリーはお前が守るんだぞ」
 ルルーシュの小さな手を握って、アスナは笑った。
 当たり前だ、と言わんばかりに大きく頷いたルルーシュに安心して、アスナはナナリーを見る。
 美しかったあの瞳が見られることはもうないのかもしれない。
 いや、もしかしたら、彼女も、自分のように――彼のギアスを克服する日が来るのかもしれない。
 いつか、残酷なことでも目を背けてはならないようなことが来るかもしれないから。
 アスナはナナリーを力いっぱい抱きしめた。
「お姉さま?」
「……ごめんなさい、私に力があれば、あなた達を守ってあげられたのに」
 腕の中で、苦しいですと無邪気にいうナナリーが悲しい。
 アスナはナナリーを離して、その頬にキスをした。
 このアリエスに訪れればいつだってこうやってナナリーとルルーシュにキスをして抱きしめた。
「お姉さまも、できるだけ早く日本へ行くから」
「本当ですか!」
 嬉しそうに声を弾ませるナナリーを再び抱きしめて、今度はすぐに離れた。
 その隣でルルーシュが何かをいいたげに見ている。
 アスナが日本へ来るということは、恐らくそういうことなのだ、とルルーシュは知っている。
 ――アスナはブリタニアの英雄騎士。
 駆り出されるのはいつも戦場ばかり。
「……戦争が始まる前にお前たちを回収できるのが一番だが」
「罪に問われるぞ、今度こそ」
「何、昔から色々ルール違反ばかりだったやつだから、いまさら誰も気にしないさ」
 だが、行けなかったら済まない、とアスナはルルーシュの頭を再び撫でた後、ルルーシュを抱きしめた。
 このプライドの高い少年にしては珍しく素直だった。
 ナナリーと同じように力を入れて抱きしめて、彼は何も言わない。
 アスナはそれを感じ取って、眉を顰めた。
 必死に、涙をこらえて、唇を震わせているルルーシュに掛ける言葉を持ち合わせていなかった。
 恐らく、アスナが見えていない人間だから、ルルーシュはこうやって少しだけ弱い顔をしたのだ。
 この場には――目の見えない人間しかいなかったから。
 だから、アスナは少年の期待に応えた。
 目の見えない、困った家庭教師のままでいようと。
 その瞳に浮かんでいたであろう涙には気付かなかったふりをした。
 しかし、アスナはルルーシュを抱きしめ続けた。
 間違いなく、この親愛の気持ちだけは嘘ではないと。
 アスナがルルーシュを離した頃には、ルルーシュの瞳には涙など微塵もなかった。

「……二人とも、さようなら」

 ――それが、アスナと兄妹の最後の日だった。

* * *


 皇暦2010年――。
 もはや、一刻の猶予も許されなかった。
 インドシナ開戦に発端を得た、日本とブリタニアのサクラダイトを巡る貿易摩擦はすでに油断を許さないレベルまで来ており、すでに宣戦布告を待つだけという状態であったそれはあっという間に決壊し――ついに日本とブリタニアは戦端を開くこととなる。
 強大な海軍力を持つ日本海軍を前に制海権を強奪に多大なる損害を被った神聖ブリタニア帝国は、内地徹底抗戦に出る日本に対して、旗艦空母シュトラールとともにナイトオブサーティーン、アスナ・シュヘン・ガル・クラウンを指揮官として戦場に送り出した。
 その時、彼女は丁度二十歳の誕生日を迎えたばかりであり、多くの識者が世界一のサクラダイト埋蔵量を誇る日本への指揮官としては力量が足りないのではないかと口にしたが、シュヘンベルグ大公はその予想を遥かに覆し、世界的にはまだ実験段階に近かった人型自在戦闘装甲騎、ナイトメアフレームの投入を早期に決断。
 従来の陸上兵器を遥かに凌駕した機動性。
 戦場に合わせた多彩な武装。
 そして、サクラダイトを素材としたエナジーフィラーや回路が生み出すエネルギー……。
 世界最大のサクラダイト産出国として発展してきた日本は、そのサクラダイトによってブリタニア帝国と衝突し、皮肉にも自らに終止符を打ったのである。

 同年、八月十日。
 日本は敗北した。


 そこから、わずかに時は遡り。
 同年、六月二十日――シュヘンベルグ大公ことアスナとその双子の弟、ラーズの誕生日パーティーはこの緊張状態もあってかシュヘンベルグ大公の意向があり中止された。
 その代わりではあったが、シュヘンベルグ大公――アスナは叔父であるシャルル・ジ・ブリタニアに謁見室へと呼び出されており、直々に祝いの言葉を賜ると同時に、一つの勅令をくだされていた。
「……今、なんとおっしゃいましたか」
 アスナはあの日以来の驚愕に、言葉を失いかけていたがかろうじて発することのできた声は自らのものとは思えないほど乾ききったものとなる。
 眼の前で玉座に座しているのは当然のように叔父、皇帝シャルルでありアスナは喉の奥が異様なほど乾く感覚がしてつばを飲み込んだ。
「手柄をくれてやる、と言っておるのだ、アスナよ。――お前を、日本攻略の指揮官に任ずる」
 淡々と、いつもどおりに告げられた。
 ――いつか、このときが来るとは思っていた。
 日本との開戦はもはや避けられないレベルになっていることはシュナイゼルから聞き及んでいたことだった。
 だが、それでも、という思いはアスナにはあった。
 財界などは日本との戦争に比較的反対を示す意見も多かったこともあって、シュナイゼルはそちらから手を回していたようだが結果として、開戦を遅らせるには至らなかったということになる。
「お待ち下さい」
 謁見室の脇に控えていた皇族たちの中から、一人だけアスナと皇帝の間に入った者がいた。
 凛と済まされた声はアスナにとっては安楽を呼ぶ、聞き慣れた愛おしい声である。
 アスナははと、顔を上げた。
 アスナの前で、同じようにして膝をついたのはシュナイゼル・エル・ブリタニアである。
 このブリタニア帝国における第二皇子であり、政治面でシャルルを支える宰相に地位についているその男は深々と父に対して頭を下げ、上げ直すと父に向かって奏上した。
「お言葉ですが、陛下。アスナ、いえ、シュヘンベルグ大公はルルーシュとナナリーの家庭教師役を陛下から仰せつかった身でございます。いくら、陛下の騎士であるとは言っても二人の捜索も救出もしないという状況で彼女に出撃を命じるのはあまりにも……」
 シュナイゼルの言葉はアスナの気持ちに寄り添ったあまりにも人道的な発言であり、周囲にいた貴族たちですらそれに同意を示すような空気が僅かに流れた。
 後ろ盾をなくし、実質上の放逐だったとはいえどルルーシュとナナリーは皇位継承権を持つ皇子、皇女であることには間違いない。
 まして、アスナを彼らの家庭教師として任命したのは他でもないシャルル・ジ・ブリタニア本人であった。
「開戦は防げないにしても、シュヘンベルグ大公に命じるならば――せめて、二人の捜索、救出であるのがよろしいかと思いますが」
 シュナイゼルは穏やかにそう告げた。
 シュナイゼルには父である皇帝の考えが理解できないわけではない。
 この状況で、アスナを動かすのはある意味最良だといえた。
 だが、それでもシュナイゼルにはそれを良しとできない理由がある。
 シュナイゼルの言葉に対して、皇帝はあまりにもあっさりとした返答であった。
「ナイトオブサーティーンであるアスナが忠を尽くすのはお主ではない」
 そのとおりである。
 アスナはあくまでも皇帝の十三騎士の一人。
 その動向は皇帝陛下の言葉こそ一番優先されるべきであり、シュナイゼルの戦略的思考、アスナをどうしたいという思惑は――皇帝には関係がないのだ。
「陛下、勅令賜りましたこと、真に恐悦至極。このアスナ、全霊を以て、日本攻略をさせていただきたく存じます」
 アスナは少し、震えた声で言う。
 ルルーシュやナナリーのことはもはや眼中にないのだ。
 ――アーカーシャの剣さえ完成してしまえば、生きていることも死んでいることも関係ない。
 V.V.から、ルルーシュやナナリーの存在を隠せれば、生きていても、死んでいても。
 アスナはぎり、と奥歯を割れんばかりに噛み締めた。
「それに伴いまして、陛下。人型自在装甲騎――ナイトメアフレームの使用を許可していただきたく」
「ほう」
 皇帝は興味深げにアスナを見下ろした。
「日本は強力な海軍力を持ち、内地徹底抗戦を謳っております。ならば、その土俵に上がって――圧倒的な力を持って叩き伏せるべきかと」
 力を持って――ブリタニアという国は弱肉強食を是としてきたのだ。
 ならば、どのような戦いであったとしても圧倒的な力で、他国を蹂躙することこそ最もふさわしい戦い方だという。
「よかろう。そこまで言うのなら、示してみせよ」
「イエス・ユア・マジェスティ」
 アスナは頭を下げながら静かに答える。

 皇帝がその場から下がると、その場に留まっていた皇族も貴族もちらちらと姿を消し始め、そこで漸くアスナは顔を上げ、立ち上がった。
 ふぅ、と一息つくと、シュナイゼルへ向き直った。
「殿下、あの場でご発言をなさいますとご自分の立場すらなくしてしまわれますよ」
 苦笑しながらアスナがいうと、シュナイゼルは悲しげに目を細めた。
「……悲しいじゃないか。君が、戦いにいくなんて」
 そういったシュナイゼルの手を握ろうとして手を伸ばしたところで、アスナの背後から足元に衝撃がある。
 小さな女の子が飛び込んできたのだ。
 小さな手が必死にアスナの足へ回されて、アスナは慌てて振り返ると、そこには柔らかそうな桃色の髪をなびかせて今にも泣きそうな顔をしている第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアがいた。
 ――名前から察するに、コーネリアの同母妹である。
 彼女の美しい紫色の瞳にはたっぷりと涙がせり上がってきており、今にも決壊してこぼれ落ちてしまいそうなほどだ。
 アスナはユーフェミアの手を一度離してもらい、向き直ると、その目尻にハンカチを当てて涙を拭ってあげた。
「ユーフェミア様、いかがなさいましたか」
「お願い……アスナ、ルルーシュと、ナナリーを助けてあげて」
 その言葉にアスナは一瞬目を見開いて、そして、柔らかく笑った。
「全力を尽くします。――必ずや」
 慰めの言葉はできるだけ口にしたくない。
 それでも、自分の気持に嘘を付くことも、ユーフェミアに真実を告げることもアスナにはできなかった。
 後ろでシュナイゼルが少しばかり悲しそうにアスナを見つめていた。
 ユーフェミアが少しだけ表情を明るめて、姉の元へ戻っていったのを見ながらアスナは立ち上がる。
「不可能なことを、と思いましたか」
「……限りなく、低い可能性だ。日本では今、ブリタニアへの反感は最高潮だろう。……もしかしなくても」
 ――その先の言葉を否定するようにアスナはシュナイゼルの唇に指を押し当てた。
「ナイトメアフレームの実戦導入を願い出たのは、できるだけ早く戦線を引かせるためです。戦いが早く済めば済むほど、我が家の手勢を二人の捜索に当てられる」
「では――君の親衛隊も動かすということかな」
「はい。誕生日プレゼント同然に騎士団の結成が許可されていたのが幸いいたしました」
 シュナイゼルが歩きだして謁見室から出ていくのについてアスナも歩きだしていた。
「ああ、なんだったか――名前」
 アスナは静かに告げた。
「カーリオン騎士団と申します、殿下」


 出兵式の黒い海の中にアスナはいた。
 大量の兵士たちの中で、一段だけ違う位置にいるアスナは普段から愛用している大公爵の身分を示すリバリーズではなく、濃紅のマントに身を包んだラウンズの正装だった。
 こういった場ではアスナは正式な軍装を余儀なくされる。
 大公爵ではあるアスナだが、そういった社会的地位をさておいて、軍部では「ナイトオブサーティーン」としての存在が最も尊ばれる。
 だから、国威発揚、軍部の式典にはアスナは普段の礼装やリバリーズではなく、ラウンズの正装と濃紅のマントを好んで着用していた。
 濃紅のマントが風の揺らぐ度に、アスナの赤い髪と混じって揺れると、まるで翼のように一陣の風で広がる。
 ――赤い翼を持った、天使。
 燃えるように揺らめいた赤い髪は、アスナを火刑に処しているようにシュナイゼルには見えた。
 そんな赤い髪を揺らした若い騎士――司令官の後ろには大量の兵士たちが隊列を作り並んでいた。
 ここにいる全員が、日本へ向けての侵攻軍の兵士たちである。
 その数や壮観たるもので、第二皇子であり、宰相であるシュナイゼルは貴賓席からそれを見下ろしていた。
 ――誰か。
 目の前にいるよりもずっと遠い位置で、アスナが騎士剣を帯刀して、掲げているのが見えた。
 美しい赤い髪は、熱気を孕んだ風に靡いて、陽炎のごとくシュナイゼルには見えた。
 凛々しく美しいその顔を悲しく見下ろした。
 彼女が出兵式から参加する戦場を経験するのはシュナイゼルには初めてだった。
 司令官として立つにはあまりにも若く、アスナは戦力としてカウントされることは多々あったが、指揮官として戦場に赴くことはあまり多くない。
 指揮官にはそれなりに歴戦の、武官出身の将軍などがついている場合も多かったし、それ以上にナイトオブワンや、自身の父であり、今は軍のオブザーバーとなったクロスの指揮下に入ることも多かったのだ。
 シュナイゼルですら、アスナが指揮官台に立ち、剣を掲げて皇帝を見ているところなど、見たことがなかった。
 つい先日まで、彼女はここで出兵式を見送る側だった。
 あまりにも麗しい顔立ちをしているアスナは凛とした立ち姿で、演説を続ける皇帝を見つめていた。
 誰が――あの美しい瞳の真実を知るだろうか。
 光すら、その瞳にはもう映すことがないというのに、彼女は戦場へと駆り立てられるのだ。
 皇帝の苛烈な話を耳にしながら、アスナは表情の一つも動かさない。
 アスナはこれから、彼女の愛した家族を殺しに行くのだ。
 シュナイゼルにとっても、愛おしい弟と妹を。
 彼女自身が殺すわけではない。
 彼女は指揮棒を振るう側として、最終的に二人を殺す人間になってしまう。
 アスナはそれをわかっている。
 自分が侵す罪を。
 皇帝のオール・ハイル・ブリタニアという声とともに、熱狂したシュプレヒコールが繰り返された。
 熱気の渦。
 もう、誰も日本との開戦を止められるものなどいなかった。
 アスナはその声を背中で受けながら、剣を掲げ続けた。
 誰も、アスナの願いは叶えてくれない。
 ――誰か、この戦いを止めてくれ。
 アスナは唇を噛み締めた。
 自分がブリタニアの剣になることに、迷いはない。
 シュナイゼルのために戦うのだと、誓った言葉を覆すつもりもない。
「進軍!」
 ブリタニア皇帝の一声が、一気に場の空気を鎮め、それが人の波となって、会場にいた兵たちが進軍を始める。
 本来なら、指揮官であるアスナが一番に、最初に出なくてはならなかったのだが、アスナはその場から動かない。
 剣を掲げたまま、貴賓席を見つめていた。
 これは、軍部側でも、見守る側にも予め伝えられていた動きであった。
 でなければ、軍部側は今頃、進軍と言われても進軍できなかっただろう。
 司令官が最後に進軍するなど、あってはならないことだったが、ブリタニア皇帝はそれを許可した。
 シャルルはそんな姪に一瞥だけくれて、あっさりと出兵式は終わったものだと、取り巻きや軍の上層部の人間とともに退室しようとした。
「シュナイゼル、お前も宰相府へと戻れ」
 シャルルは席から立ち上がろうとしないシュナイゼルに向けてそう言ったが、シュナイゼルは首を横に振った。
「いえ。私はここに」
 ――アスナが、満足するまで。
「一応、帝国宰相が軍機構のトップということにはなっておりますから。――もうしばらくは見守りたいと思います」
 シュナイゼルの視線は父には向いていなかった。
 儀礼権を掲げ続ける一人の少女から脱したばかりの――女性というには些か幼さが残った顔をしている幼馴染へと向けられていた。
 「好きにしろ」とだけ言って、その場からいなくなった皇帝のことなど、もうすでに頭にはない。
 シュナイゼルは、静かに幼馴染をよく見るために先程まで皇帝が立っていた場所まで行くために立ち上がった。
 ――もう、アスナには自分の姿は見られないと知りながら。
 そこは、確かによく見えた。
 アスナの表情もよく見えた。
 アスナはもう皇帝がいなくなったことを感じ取っているはずなのに、まるで祈るかのようにそこに立ち続けている。
 彼女なりに懺悔をしているのかもしれない。
 これから侵す罪におびえているのかもしれない。
 まるで、鉄のように何の表情も映さなかった表情。
 あんなアスナをシュナイゼルはまるで知らなかった。
 ――ふと、アスナとシュナイゼルの視線が絡んだ。
 いや、厳密には違う。
 アスナはシュナイゼルを見た、わけではないからだ。
 シュナイゼルがそう錯覚しただけだったが、直立不動だったはずのアスナはその場で膝をついた。
 そして、正しく剣に祈るようにしてシュナイゼルにその柄を差し出した。
 シュナイゼルは――目を見開いて驚いた。
 それは、騎士を任命する時に行われる儀式の一部だ。
 アスナの唇がわずかに動くのをシュナイゼルは必死で見た。
 声では聞こえてこないそれは「誓います」と言った。
「誓います。私は、あなたの剣となりましょう」
 そして、小さく目をつむった。
(どうか、私の罪をお赦しください)
 アスナはそれだけいうと、静かに立ち上がった。
 その頃には、軍人たちの波は最後の一区画に入ろうとしていて、アスナもおちおち膝をついてばかりもいられなかったのだろう。
 アスナはどこか満足気に、しかし、切なげな表情を浮かべて、濃紅のマントを翻した。
 はためいたそれが再び翼のように広がったかと思うと、ゆっくりと閉じていき、元のマントへと戻っていく。
 シュナイゼルはそれを眺めやりながら、一つため息を付いた。
「――いってらっしゃい、私の騎士」

 その言葉に、答えるかのようにアスナが最後に剣を高く掲げた。
ALICE+