03 遠吠えは誰にも届かない
眠らない夜はこれで何度目だろうか。多分、きっと、昔から眠って等いなかった、とアスナは思い返して考える。何かに怯えているのは何時だって人間ではなくて自分だった。何が怖いのかな、何が恐ろしいのかな、と考えてみるが、きっとすべてが恐ろしくてたまらなくて、泣きたくなるのだ。
――明けない夜などないのだと、誰かが言った。
じゃあ、今、続くこの暗闇はいったい何なのか、アスナには表現しようがない。きっと、これは夜ではないのだろう。では嵐だろうか。雨が、雷が降りしきる、嵐の海の中に自分はいるのだろうか。明けない夜は無いと言ったその人はきっと、苦しいことの後に楽しいことがあったのだろう。幸福が確かに待っていたのだろう。
(失うばかりの俺はどうしたら良い)
その答えは今も見つからない。ただ、欲しい物をかつては竜にした。自分にとって最良となるであろう死に向かっていた子供を竜にした。彼女は人でありながら竜となり、今は自分の手元を離れ、自分が信頼できる友と上司と共に生きているのが分かる。
もう一人は変わった男だった。アスナの前に突然現れた男だった。後ろを振り返らず進むアスナの横にそっとたったその男はいつの間にかなくてはならない存在になっていた。だからこそ、アスナは男を受け入れられなかった。失うことを恐れた。いなくなられることを怖がった。ただの臆病な子供だったのだ。彼は人間だから、いつか、自分を置いていなくなってしまうのだと思った。男は笑っていった「俺はいなくならないよ」と、おもむろにアスナの血を飲み、自ら竜へとなった。
よく生き延びたものだ、と笑うよりも早く、男の顔を泣きながら殴っていた。死ぬかと思った、死んでしまうかと本当に思った。三日三晩生死をさまよった男はからりと笑った。そして、泣きじゃくるアスナを優しく抱きしめ、その紅蓮の髪を優しくなでた。
「もう、大丈夫だよ」
その声はもうない。
自分に朝をくれたその人はなく、嵐の中導いてくれたあの光はすでに見えない。レビア達は確かに自分を救ってくれた。歌い、笑い、そして、生きる活力を確かにくれているのだろう。だが、アスナは前を見れていない。ただ、立ち止まったままだ。
(ラーズ)
心の中で名前を呟いてみる。
呼べばすぐに返事が返ってきていたはずなのに。そっと、自分の膝を抱いて丸くなった。
どうして誰も居ないのだろう。――それはあの日の選択を間違ったからでは。
間違って等いない。俺は俺の正義を通した。――それが友人を苦しめる結果となり、あいつを失う結果となった。
銃を向けた友人のあの日の顔を忘れられるわけがなかった。どうして、と問うた声はもう久しく聞いていなかった。
* * *
街ははやり妙な賑わいを見せているようにアスナは感じられた。賑わい、と言うのはいささか表現が異なるか、と思いながら煙管から煙を吐き出す。ガラが悪いと言えば、いささか失礼かもしれないがそういう連中が多く歩いているのが朝だと言うのに――見える。
日が上がる頃に窓を開けてみてみればその様子だ。夜になればもっと人が多くなるのだろうなぁ、と昨日は宿の中の食堂で酒を飲んだから気付かなかったことを考えながら、アスナは椅子に掛けてあった黒衣へ手を伸ばす。今日はそろそろ出かけなければなるまい。約束の時間は取り付けたわけではないが、明日、同じ時間に来るというニュアンスで言ったわけだからわかっているだろう。――なんとも、海軍時代に比べればゆるい考えになったものだ、とアスナはふぅとため息をついた。
部屋から出て階段を下りると、宿屋の主人がいた。
「おや、おでかけですか?」
「ああ。連れ達はまだ休んでるだろうから、そっとしてやってくれ」
「ええ、ええ。わかりましたとも」
宿屋の主人は気のよさそうな、恰幅のいい男だった。アスナが煙管を吹かせながら、ふいに、外へ視線を向けて、そして主人へ視線を戻した。
「なぁ」
「はいはい」
「……随分と海賊が多そうだ。元々そういう連中で儲けてるのか?」
人の事は言えないがな、と言いながらアスナは主人へ投げかけた。すると主人は眉を下げて、お恥ずかしい限りで、と答えた。
「ここ最近は多いんですよ。何でも、隣町にヒューマンショップが出来たとかで」
聞かなければよかった、とアスナは思ったくらいだ。だが、同時にひどく納得がいく。なるほど、ヒューマンショップ――人屋ね。といっても、売っているのは人ばかりではないのはアスナも良く知っている。例えば、人は人でも巨人族や、魚人挙句人魚となればどんどん高値が付く。そう言った人間を奴隷として扱うのは同じ人間なのだという現実が皮肉なものだ。まあ、魚人や人魚は厳密には人間じゃないとかそういう意見も良く出る話だが、アスナーー竜からすればどちらもさして変わらないものだ。
「ほう。隣町なのか」
「ええ。何だか、最近、人を売りに来る輩も多くて……昔はもっと静かだったんですがね。たまぁに海賊が来ることはあったんですが」
「ふぅん……」
隣町には港がないから一度ここへ停泊するのだという。それも仕方のないことだろうとアスナは納得がいった心地でうなづいた。それと同時に危機感を感じざるを得ない。この街への停泊は確か今日も含めて三日。レビアに知られないようにしないと、と思うのと同時に、フェイカーやラミーにもそれとなく警戒を促しておくべきかもしれないな、と思った。タイタニアは昔の大乱獲を期に、奴隷としての需要も高い。高い身体能力と、怪力などが主な要因だが……フェイカーはまだしも、ラミーの方が心配かもしれない、と考えながらキセルをふかせた。
「お客様もお気をつけて……最近は金色の瞳が需要が高いみたいです」
「……ほう?」
主人の言葉にアスナは興味深げに笑う。
エルは朝、海を眺めるのが好きだった。小高い丘から見える海は広くて、風が心地いい。海風を感じていると何だか、自分も風になれるのではないかなんて思ってしまって、でも、それがとてもよかった。ざくり、と丘の土を踏みしめる音がして振り返ると、げぇ、と顔をゆがめた。
「何だ、挨拶じゃないか少年」
「オレはエル!少年じゃない!」
「そうか」
立っていたのは昨日の赤い髪の女だった。相変わらず少年と呼ぶので、エルは名前を言った。すると彼女は落ち着いた様子で答えた。
「エル、いい名前だ」
「何が?」
「翼を意味する古い言葉さ。大きく羽ばたけるようにっていう両親の願いを感じる」
アスナはそう言いながらキセルをふかし、ゆっくりとエルの隣へたった。
「いい眺めだ」
そう呟く目は優しい目をしていた。
「そうだ、名乗って無かったな。俺はローディア・D・アスナ・シュトラールだ」
「長……どれが名前だよ」
エルはアスナの名前に渋い顔をする。確かに長いなぁ、とアスナは笑いながら、再び煙管の吸い口を咥える。緩やかな煙が海風に少しだけ流されて、形を失って消えていく。アスナは答えず、海を見つめていた。
「なぁ、どれが名前?」
「アスナ」
「……意味はあんの?」
「さぁ。忘れたな。俺は実の両親は知らないんでな」
生まれた時にすでに自分の父も母もアスナは知らない。自分を生んだ存在をアスナは知らないまま、育ってきた。養父とは、あれは、ケンカ別れと言っていいのだろうか、そういう感じで分かれてしまった。ほぼ、親子の縁は切られてしまっていてもおかしくはない。
「……家族、しらねぇの?」
エルの瞳が少しだけ寂しげにアスナをとらえた。嫌な奴だとは思ったけれど、何だか、それは寂しすぎる。アスナは目をぱちぱちと見開いて、柔らかく微笑むとその頭を撫でた。柔らかな赤い髪だ。――あいつもそうだった。と思いながら、掻き乱すように頭を回しながら撫でる。
「優しいなぁ、少年は」
「だ!か!ら!エルだってば!!」
「俺は人の名前を覚えるのが苦手でなぁ」
「おばあちゃんかよ!!まだ、十代だろ!」
「残念だな、もうすぐで三十代になる」
「はぁ!?嘘だろ!?」
あはは、とアスナは楽しそうに笑いながらエルから手を離した。エルは嘘だろ、と繰り返しながらアスナを見る。すると、顔の左側の火傷に目が行った。
「……痛くねぇの、それ」
「ん?」
さわってもいい?と聞くと、ああ、と少しだけ背の小さなエルに腰をかがめて、自分の火傷に触らせた。すでに乾いているのだろう、火傷は普通の肌とは違う感触がした。きっと痛かったはずだ。自分は少し油のはねた場所が水ぶくれになっただけでも結構痛かったというのに。どういう炎で焼かれたらこうなるのかな、とエルは顔をゆがめながら、まるでアスナの痛みを共有しようとするように優しくなでた。
「俺はな、罪人なのさ」
エルの気持ちを感じ取ったアスナが一つ呟いた。
「お前、悪いやつなの?」
「世間的にはそうだろうなぁ」
エルは首をかしげた。確かに少し嫌な奴だけど、悪いやつかと言われたそうじゃない気がしたのだ。
「そうは見えないけどなぁ」
そう言うと、エルはアスナの頭を撫でた。赤い髪はとてもよく似ていた。親戚かな、と聞かれてもおかしくないくらいかもしれない、などと思いながら、エルはアスナを見上げた。悪い人ではないと思ったのだ。どんなに悪ぶっていても、本当は――ただの寂しがり屋なように見えて。
「まだまだ子供なんだなぁ」
「な、何だよ!もう十四歳だぞ!」
「それを言っているうちはまだまだ子供だなぁ」
怒るエルと笑うアスナ。楽しそうな光景を後ろから見ていたルナにアスナはようやく振り返った。
「お邪魔します――いえ、しています、ですね」
「いえいえ。主人が中で待っておりますわ……シュトラール殿下」
アスナはその言葉に悲しげに顔をゆがめた。そして、同様にルナも悲しそうな顔をしていた。お互いに察したうえでの行動だった。アスナはじゃあな、少年、と言って頭をなでると歩いて行った。
医院の中は静かな物だった。普段はここで治療することは少ないのだろうとも、アスナは思った。
中に入ると一人の男が座っている。
「アーサイズ・ルカルと申します。ドクターローズ」
「……よく調べが付きましたね」
たった一日だったのに、とアスナは言いながら勧められるままにルカルが指したソファへ腰かけた。良い香りの紅茶を差し出され、アスナは危急に用件を済ませる気が相手にないのを察した。Dr.ローズという名前を知っている以上、彼はこちらの素性をすべて知って、招き入れているのだ。
「抗生剤と麻酔は用意できています。後ほど持って行かれるといい」
「感謝します。それで? 俺の用件はすでに終わってしまった――話があるのは貴方の方ですか?」
カップへ手を伸ばした。ルカルの表情が少し深刻さを滲み出させ、言うのを何か躊躇っているように、両手を膝の上で組んで強く握りしめた。
「妻は竜です」
独白にも近い口調だった。アスナに向けていっているのか、そうではないのか。
昨日来たときと変わらない紅茶の味にアスナはこれは彼の妻であるルナが淹れたものだとすぐにわかった。きっとここらでは良い紅茶が取れるのだろう。香りも、味も、ひどくアスナの好みだった。
「私は犯してはならない罪を犯したのでしょう」
人と竜。
それは何千年も前から争いを繰り返し、漸く膠着状態を維持できるまでになった。それまでは――互いに乱獲をし、人間と竜の間で百年にも及ぶ戦争すら起こった。今でも、その百年の戦争の記憶がある竜とて少なくはないだろう。今の竜帝は人との共存を話してはいるが、実質、人と竜は互いのすみかを明確に分け、その中で暮らし、互いの領分を犯した時に罪で裁くといった、冷戦以外にほかならないとアスナも――多くの竜たちが理解している。
竜は人間に侵されないよう、人間を侵さないよう、"擬態"する。アスナとて十八歳近い少女の姿をしている。それはそのままの竜の姿では人の世界で暮らせないからだ。人間に育てられ、人であることを覚え、人と共に生きることを知ったアスナは多分、竜の世界では十分な異端者だ。――そして、眼の前にいる男と、その妻もまた。
「だが、罪を負うべきは私達夫婦だ。エルではない」
指の先が白くなるほど握りしめられた手。震えている。
アスナは何も言わずにカップをソーサーの上に戻して、男を見つめた。かつて、自分もそうだったのだ。竜でありながら、人間に恋をした。そして、その人間を――
「なぜ、竜にならなかった?」
アスナの口から飛び出した言葉にルカルは目を見開いた。そして、少しばかり自嘲気味に笑った。
「なれるとお思いですか?」
――私ごときが。と言っているように聞こえた。すまないことを聞いた、とアスナは謝りを入れ、静かに外を――壁を見つめた。その先に見えるのはルナとエルが話す姿だ。彼らの平穏は恐らくこの男と妻が幾重にも気を張って作っているものだとわかる。
「最近、隣町にヒューマンショップができたことはご存知で」
「……ああ」
「黄金の瞳を探しているんです」
「竜の特徴だ。俺達がごまかすことのできない、竜の特徴――黄金の瞳と身体の一部の鱗だからな」
すなわち、ヒューマンショップが何を目玉にしようとしているのかおおよそ予想はつく。
「お願いがあります」
ルカルの瞳がアスナを捉えた。アスナは足を組み直し、煙管を取り出した。
「エルを――私達の息子を連れて行ってはくれませんか」
「あ、もう、話は終わったのか?」
アスナが荷物を抱えて外へ行くと、エルが本を読んでいたようだった。ルナがひどく心配そうな瞳でこちらを見てくるがそれには目礼のみで答える。アスナはそうだ、と答えてエルの頭を撫でる。
「……医学書か」
「そう! 父さんが尊敬する医者が書いたんだってさ!」
「Dr.ローズ?」
「知ってんの?」
「会ったことがある」
嘘は言ってない。――鏡で見てるんだから。
アスナはそう言いながら煙管の吸口へ口をつけた。するとエルが思いっきり顔をしかめて、アスナを見た。
「医者の不養生は良くないんだぞ!」
「こりゃ、薬草だ」
「え」
たまに煙草も入れてるがな、と言いながらアスナは煙をふかせた。
「鼻から取り入れたほうが薬は効率がいいんだぞ」
一つ勉強になったな、と言いながらアスナはエルの隣に腰掛けて医学書を覗き込んだ。懐かしい、これはいつの頃に書いたものだったかな、と思いながら未だに印税が自分の手元に入ってきていることは海軍に知られれば大変なことだろう。出版元も、自分も。足がついていないあたり、彼らの仕事っぷりには感謝せざるを得ない。それとも、海軍にとっては未だDr.ローズの名前は有効なのか。アスナはそんなことを考えながら、エルを見下ろした。
「なぁ、エル」
「何だよ」
「俺と一緒に来るか?」
エルは目を見開いた。
「な、何で」
当然の反応だろう。家のドアが開く音がして、ルカルが出てきたのがアスナにわかった。
「俺はその論文の作者だ」
「……あ」
Dr.ローズってのはあだ名だから。アスナは静かにエルから視線を外して海を見つめた。世界は広い。きっと、いろいろなことが彼に起こるだろう。ここに居て悲しい結末を迎えるか、いや、自分と来ても悲しい結末が待っているだけかもしれない。だが、彼らの両親の望みは――
「い、嫌だ! 俺はここにいる!」
「そうか。お前の父さんは確かに優秀な医者だ」
アスナはエルの言葉を聞くとあっさりと諦めた。それが意外だったのだろうエルはアスナが歩いていくのを見つめた。アスナは煙管を吹かしながら何も言わずに歩いて、そしてアカシアの花の下で立ち止まった。
「気が変わったら、後二日はこの島にいる。――声をかけてくれ」
* * *
こんこん、と部屋のノックが聞こえてレビアは読んでいた本から顔を上げた。誰?と言えば、外からアスナだ、と聞こえて、笑ってどうぞ、と答えた。ドアノブが回されて入ってきたアスナは相変わらず煙管を携えていて、しかし、どこか花の香りがした。
「どこかに出かけてたの?」
「ああ、薬の不足分を買いに。――なぁ、レビア」
レビアが椅子を勧めるとアスナは首を横に振った。
「もしも、俺が暴れても、怒らないか?」
少し力なく笑った。
アスナは蒼の瞳の中でも比較的おとなしい――というと語弊があるかもしれないが――タイプだ。戦闘では前線を張って戦うタイプではない。それはリッタや、フェイカー、ジニアなどと言った歴戦の戦士たちがいる。医者としての役割を十分理解しているアスナは普段は後方支援に回ることが多い。もちろん、その武器が毒香水というサポート向けの武器であることにも起因しているのだろうが。
しかし、戦闘力だけならば蒼の瞳でもずば抜けているだろう。優れた覇気の使い手であり、海軍の中将には医者としてなったわけではない。そもそも、アスナは人間ではないのだから、その戦闘力を人間の枠で考えるのもおかしいものだとレビアは思っている。今、目の前で見せている実力は"人間"としての上限。――まだ、見せてない部分があるのはレビアも察しているところだ。
そんなアスナが「暴れても怒らないか」などと、珍しい言葉を聞いた。
「それはどういう事?」
「いや、何、何か起こった時に、俺が暴れるかもしれないっていう話だ。――ちょっと助けてやりたいやつが居てね」
アスナはいつものように笑った。人を化かすような、自分の本心をごまかすような笑みだ。だが、しかし、確かな熱をレビアは感じた。アスナが助けたいと思ったのは、もしかして――
「昨日、市場ですれ違った男の子……?」
一瞬しか見てない。
レビアはあのときも、三年前も正直一瞬しか見ていないのだ。――彼を。
「……」
何も聞かないでくれ、アスナの目はたしかにそう言っていた。悲しそうに歪められ、それがまるで悪いことであるかのように自分を責めているのがレビアにもわかって、それ以上は何も言えなかった。多分、もうアスナは決心している。だから、ここへ来たのだ。
「一つだけ約束して」
レビアがまっすぐにアスナを見つめ、そして、アスナの手を握った。
「――一人では行かないで」
必ず私達を連れて行って。一人で全て背負わないで。この船に乗った以上、貴方は私の家族なのだから。
「……わかったよ」
レビアの部屋から外に出ると、クロノが立っていた。
「あのさ」
「うん?」
「アスナはなんでも一人でできるかもしれないかもしれないけどさ、一人でやろうとしなくてもいいんじゃない?」
私達じゃ頼りないのかもしれないけど、と言ったクロノの頭に手をおいた。
「まさか、頼りないなんてことあるか」
アスナは笑った。
「頼りがいがありすぎて困ってるんだよ」
きっと、彼女らは自分が弱ったり、傷ついたりすれば真っ先に駆けつけ、手を差し伸べてくれるのだろう。心地よく、暖かな慈愛を持ってレビアは船員たちを愛するのだろう。自分の船に乗ったすべてのものを大切にするのだろう。クロノも、アスナもそういう意味ではレビアに守られているし、レビアを守っている、とも言える。だからこそ、アスナは人間としてこの船に乗っていたかった。竜としてではなく、人間のアスナとして、愛する船を守っていたかったが――今回はそうは行かないだろう。
「……多分、もう、人間ではいられないんだろうなぁ」
黙ってみていて、苦しい思いをするのはもう嫌だった。
* * *
「父さん、ちょっといい?」
「――ああ」
読んでいた本から顔を上げて、ルカルは息子を迎え入れた。本を読む時に愛用しているメガネを外してケースの中へしまう。エルはランプを持って父の元へ近づき、父の対面側にある椅子へ腰掛けて、テーブルの上にランタンを置いた。
「昼間の話なんだけど、さ」
「……父さんは、外に出て学ぶことはいいことだと思うぞ」
背中を押してほしいのか、引き止めてほしいのか、あいにく竜の力を持たない父にはその真意はわからない。でも、たしかにエルにとって学びになるとルカルは思ったのだ。Dr.ローズは未だにその腕は廃れていないはず。彼女のもとで学べば将来すごい医者になれる、とルカルは考えている。それが息子のためになり――そして、息子の命を守るためにつながると。
「でも、最近、街の様子がおかしいよ。なんか、母さんを探してるんだ」
それなのに、俺、行けないよ。
エルの言葉を聞いて、ルカルは泣きそうな顔をした。そして、力いっぱい息子を抱きしめる。もしかしたら、もう時間がないのかもしれない。苦しいよ、父さん、と腕の中で言うエルにすまない、と答えつつ力を抜くことはできなかった。
もしも、世界に神様がいるなら、と願わずを得ない。
「いいか、エル」
伝えて置かなければ。
「守りたい、って思った人は命をかけて守るんだ。――それが男の勤めだぞ」
じっと瞳を見つめる。母さんによく似た美しい黄金の瞳。これこそ、エルが狙われる理由だが、エルはまだ何もわかっていない。このまま何も知らないまま育ってもかまわないと思っていたのに。この島なら平穏に暮らしていけるとそう思っていたのに。
父の大きな手で頬を撫でられてエルは何がなんだか、わからないまま頷いた。
声が聞こえた気がして、アスナは微睡みの中から意識が持ち上がった。――アスナ。
自分を呼ぶ声だった。――起きて。
懐かしい、声に後押しされるようにしてアスナが目を開けるとそこは宿の自分の部屋だった。誰もいない一人部屋。だが、確かな胸騒ぎが到来してアスナは居てもたっても居られなくなって、椅子にかけてあった黒衣へ手を伸ばす。早く、早く、と自分の心の中の何かが急かす。この感覚は何年ぶりだろうか。
(そうだ、リーヴに会った時もそうだった)
ただ、誰かに呼ばれていた。焼け野原にしたばかりの村から、自分を呼ぶ声が聞こえてきて、船から飛び降りるとまだ火の止むことのなかった村の中へ入っていった。多くの船員たちに呼び止められたが脇目もふらずに歩いていった。そして、その先で一人の少女を見つけた。そして、死にかけたその体に竜の血を分け与えて、竜にした。
あの時の感覚に近い。
誰かに、呼ばれている。
アスナは気配を消した。すべてのものと同調し、擬態するように。そっと呼吸を合わせて、自分の存在を宵闇へ溶かしていった。今、この時間なら皆が眠っている時間だ。
(まあ、レビアには気付かれるんだろう)
窓をそっと開けてみる。外は宵闇なら、深い藍色でなければならないはずなのに――紅い夜だった。
窓を開けて漸く理解した。ゾッとするような殺気と、濃密な血の匂い。――同族の血の臭いだ。自分も随分と感覚が狂ったものだな、と飛び出して、アスナは走った。恐らく、蒼の瞳の何も知らない船員たちが見たらびっくりするくらいの速度が出ていただろう。途中、走るのすら惜しくなって、地面を蹴って高く舞い上がった。黒衣が吹き飛びそうになるのを手で抑えて、飛び去った先、アカシアの花が見えてきた。
「……アーカーシャ」
そっと呟いた名前の先。
暴れる竜と、それを殺そうと武器を構える人間たち。
何度も繰り返された人間と竜の歴史の成れの果て。
アスナは奥歯を噛み締めた。
ただ、劈くような竜の咆哮が、夜を染め上げて、全てを震わせていた。
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