開演のブザーが鳴る。観客席に響き渡っているこの音が、我々役者には気持ちの切り替えをする緊張感をもって伝わってくる。
「いよいよだね」
召使い姿の同輩が小声で囁いた。私は静かに、落ち着いて頷く。何でもないような顔をしてみせようとしたが、手は震えていた。この感覚には一生慣れることがないだろう。
同輩の彼女はそっと私の手を握り、「頑張って」と口だけを動かした。それだけで十分だった。

「『まあ、お嬢様ったら、またお外であの子供たちと遊んでいたのね!』」
「『あんなに泥だらけになって。貴族の恥ですわ!』」
「『本当よね。信じられない!』」
メイド三人衆のなじる声。この声が止んでから三秒、二秒、一秒……。
「『どうしたのです、そんなに騒いで』」
舞台袖近く、メイド三人衆と目が合う。体はあくまで観客に向けたままだ。
「『奥様!お嬢様がお外に出て泥だらけで帰ってきたんです!』」
「『あの子はまた……!そんなことでは、嫁の貰い手が無くなってしまいますよ!』」
嘆きながらツカツカと舞台の中心へ。厳しい母親も、この喜劇の中では笑いを起こすトリガーとなる。
「『でも、お母様。私は結婚などに興味はありませんわ。外で子供達と遊ぶこと、それが私の喜びです!』」
生意気だがかわいい娘。そんな娘に母親は歪な愛情を向ける。
「『お黙り!私はあなたのためを思って……』」
舞台袖から私に歩み寄る娘、私は駆け寄って彼女の手をしっかりと握る。
「『………ひい!』」
握ったはずの手を振り解いて三歩退く。まるでおぞましいものを見たかのように。
「『あっあなた!何という物を!』」
観客の視線は掴んだ。こちらからでは顔がよく見えないが、皆この嫌な母親がどのような目に遭ったのか興味津々である。
「『これですか?毛虫ですわ!先程お外で見つけましたの。育てても良いですか?』」
ともなく湧き上がる笑い声。そうだ。台本通り、観客もここで笑わなければいけない。
「『そんなもの捨てておしまいなさい!メアリー!』」
私が舞台袖に向かって叫べば、同輩……メイド長のメアリーがすぐさま駆けてきた。
「『はい、奥様』」
「『今すぐ娘を風呂に。それから濡れたタオルを私の部屋まで持ってきて頂戴!』」
「『かしこまりました』」
「『メイド三人娘!』」
「『は、はい!奥様!』」
「『あなた達はこの虫を何とかして頂戴。わかったわね!』」
「『う……はい、奥様……』」
メイドの渋い顔を確認するや否や、私は出て来た方向と同じ舞台袖へ早足で去る。
舞台袖が遠く感じる。まだか、まだあの薄暗い場所に行けないのか。観客の声はもう耳に届かない。
最後の一歩を踏みしめた後、私は膝が折れそうになるのを感じた。役者として初めて、あの観客の数、あの拍手、笑い声に囲まれた。その実感は生々しく私の震える手に残っていた。
ともかく、この母親が舞台に立つことはもうない。この一回きりの登場に魂を振り絞った。荒い呼吸を整え、同輩がメイド三人と戻ってきたのを見て、ようやく普段の冷静さを取り戻す。すると、自分が何かを忘れていることに気がついた。
「あ……」
あの会場には海堂薫が来ているはずだった。

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