狼と蝶 03
甘味というものは、人を幸せにする。
なんなら、世界平和に必要である。
――などという妄言が浮かぶほど、なまえは浮かれていた。しかし仕草などには出さず、内心で。
ナシャタウンで購入した、数量限定ケーキ。
ふわふわのスポンジとたまらない「重さ」と甘さのクリームが載った、シンプルだがとても美味しいケーキ。いや、シンプルさゆえにパティシエの腕が光るケーキだ。
ケーキに載るフルーツは仕入れの状況によって異なるので、それも楽しみだった。
(どの紅茶にしようかしら)
今日載っているフルーツは夕暮れの実だ。
合いそうな紅茶をいくつか思い浮かべながら、内心ウキウキスキップ状態でなまえは早い時間だが家路へと歩く。
いつもなら散策したり買い物したり、放っておけないワイルドハントの殲滅をしているところだが、今日の目的はこのケーキだ。急を要するワイルドハントも近くに発生してないので、購入したケーキを早く味わいたくて堪らなかった。
だから、注意散漫になっていた。いや、
――ナシャタウンは……というか、ナド・クライは治安がいいとは言えない。
流れ者が集まっているのもあるが、警察や司法を司る組織が存在していない。だから自由という聞こえのいい言葉で装いつつ、基本的に自己防衛や自己責任だ。
そんな場所だから、小競り合いは日常茶飯事だ。ごく稀にそれぞれの所属同士の争いになることもあるが、その規模に至るのはナドクライでも稀、あるいはファデュイ相手くらいの時だ。
「だが、今日の小競り合いでは面白いことが起きてね。取っ組み合い、殴り合い、投げ合いしていた男たちに、晴れていたのに突然タライをひっくり返したような水が降ってきたのさ。当人だけじゃなく、誰もがなぜそうなったのか分からなかった。いつもの小競り合いが、いつもと違う結末を迎えたってわけさ。誰がしたか不明、何も無い空から突如ぶちまけられた水はどこから来たかわからない。――まるで、痕跡を残さずにワイルドハントを殲滅している何者かみたいじゃないかい?」
情報交換に訪れた秘聞の館で、館の主ネフェルは今日起きた小競り合いをファルカに聞かせた。今日払った金がいつもより少し多かったので、「おまけさ」と聞かせてくれたのだ。
ネフェルも痕跡を残さずワイルドハントを消してる存在がいるというのは、知っている。
情報は金。
その正体を知っておいて損は無い。しかしネフェルもしっぽすら掴めずにいたが、今日ナシャタウンで妙なことが起きたのだ。
「……そいつはナシャタウンにいる可能性があるな」
話を聞き終えたファルカは、その可能性に思い至る。ネフェルもまた同じ考えに至っていたので、ファルカの考えを否定することはしない。
「その時に誰がいたかの調査はどうする?もちろん、貰うのはちゃんと貰うよ」
おまけという名の、追加のビジネスの話だった。ネフェルというのは、そういう女だ。分かっているので、ファルカは特に気を悪くした様子はなかった。
「いや、本人が隠しておきたいことなら、暴き立てるものではないだろう。それで本人に不都合や危機が発生したら、意味が無い。むしろナシャタウンにいると分かれば、ある意味で安心だ」
「そうかい。ま、気が変わったならいつでも言っておくれ」
ネフェルの飼い猫、黒猫のアシュルは人間たちの会話をよそにごろごろまったり寛いでいる。そんなアシュルを帰るために腰を上げたファルカは、通り過ぎざまに軽く撫でてから秘聞の館を後にした。
少し遅い時間に秘聞の館を訪れたため、秘聞の館を出た時日は傾きかけていた。腹もすいてきている。そして、フラッグシップは近い。大団長としての仕事も、今日はこれで終わりだ。となると、ファルカがとる選択肢はひとつ。
「飲みに行くか」
真っ直ぐにフラッグシップへと足を向けた。
フラッグシップは今日も賑わっている。まだ早い時間帯なので、酒は飲まず夕飯を食べに来てるだけの客もいる。空いてる席が少ないのでどの席にしようかと辺りを見渡していると、見覚えのある金髪が視界に止まった。ちょうど隣の席があいているので、挨拶がてらファルカはそちらへと向かう。
「よお、なまえ。……どうした?なんか落ち込んでるのか?」
ファルカから声をかけられたなまえは、ゆっくりと視線をファルカに向ける。その表情は、明らかにいつもと違った。
普段はしとやかに淑女らしく微笑んでいる彼女が珍しく、分かりやすいくらいしょんぼりしていた。
「……ちょっと、悲しいことがあっただけよ」
短く答えながら、なまえは酒を飲む。今日はジョッキで飲んでいる。それも強めの酒だ。
ファルカより先に飲んでいるようだが、ちっともアルコールが回っている様子がない。
ファルカも大概酒に強い飲兵衛だが、なまえはファルカより酒に強いようだった。
「大丈夫か?ずいぶん、ショックなことだったんだろう」
ここまであからさまになまえが悲哀を表してるところを見るのは、ファルカも初めてだった。珍しい、素直にそう思ったし、心配もした。
いつものように近くに座ることをなまえに確認してから席に座り、ファルカは酒と食事を頼む。ついでに、なまえのために彼女の好きなデザートも。
なまえは再度ジョッキを煽ったあと、ゆっくりとジョッキを置いた。
「……ケーキ」
「ん?」
「今日、数量限定のケーキを買ったの」
「ああ、あそこのか。俺もまだ食べたことないな。よく買えたな」
数量限定のケーキの存在はファルカも知っていた。甘味好きな騎士団員もいるので、遠征駐屯地で話題になっていた。遠征駐屯地からナシャタウンに着く頃には大体売り切れてるので、騎士団員で購入できた人間はまだいない。買うならナシャタウンに泊まらなければいけないなと、笑いながら話していた。
「あそこは開店前に並ぶの禁止でしょう?今日はベストな時間についたから買えたの。ふわふわの生クリームに、カットされた夕暮れの実がのっていたわ」
「そうか。……買えたのにずいぶんへこんでいるな」
「……食べられなかったの」
「……へ?なんでだ?」
ぐい、っと、彼女にしては大仰な仕草でジョッキの中身をなまえは一気に飲み干した。そのあと、タンッと小さく音を立てて、なまえはテーブルにジョッキを置いた。
いつもより乱暴に飲んだからか口元が少し酒にまみれたので、なまえは紙ナプキンで口元を拭う。
「今日、小競り合いがあったのは知っているかしら?」
「ん?ああ……話には聞いたが」
このタイミングでファルカが頼んだ酒と料理が運ばれてきた。なまえはついでにと、追加の酒を注文する。果たして何杯目なんだとファルカは思った。
ようやく成人したくらいの見た目にみえるなまえは酒に強く、それでいて大量に飲むということは知っていたが、今日はいつもより飲んでいそうだというのは伝わった。
運ばれてきた暖かな湯気が昇る肉料理にナイフとフォークをいれながら、ファルカはなまえの話の続きを促した。
「小競り合いとケーキにどんな関係が?」
「……ケーキを買った帰りに、その小競り合いに遭遇したの。殴る蹴るだけなら離れてるところ歩いてたから問題なかったんだけど……物が、飛んできて……それが、私の手に当たったの」
そこまで聞けば、どうなったかファルカにも分かった。
白魚のような華奢な手が飛んできたものの勢いに耐えられるわけもなく、ケーキが入った小さな箱は、無惨にも手からすっぽ抜けて落ちたか飛ばされたかしたのだろう。
なまえのこの様子から察するに、食べられないほどぐちゃぐちゃになっていたのだろうというのが、想像にかたくない。
酒以上に甘味が好きななまえからすると、耐え難いほど悲しかったに違いない。食べ物の恨みもあるだろうが、それ以上に悲しいというのが強いのだろう。だからこそ、こんなにそれが表に出ている。
「それは、気の毒だったな。……手は、大丈夫か?」
見る限りなまえの手に目立った傷はないが、ファルカは念の為尋ねた。なまえはこくりと頷く。
「ええ。痛みと衝撃はあったけど、怪我はないわ」
「そうか。そこはよかった」
不幸中の幸い。いや、なまえからすればケーキが無惨な目にあったことのほうが辛いかもしれないが。
「お待たせしました」
と、なまえが頼んだ酒と、ファルカが頼んだデザートが運ばれてきた。なまえは酒を受け取ったあと、ファルカが頼んだデザートを珍しげに見ていた。
ファルカがデザートを頼むところは、初めて見たかもしれないと思っていた。
「珍しいのね。デザート頼むなんて」
「いや、これはなまえ用だ」
「……え?」
「あのケーキの代わりにはならないかもしれないが、少しは気晴らしになればと思ってな」
すっ、と、ファルカはデザートが載った皿をなまえの方にやる。
アイスとブラウニーが載ったデザート。
なまえも何回か食べたことがある、フラッグシップでのデザート。ファルカはなまえがこれをよく頼んでいるというのを、覚えていたのだろう。
ファルカが言うように味や希少性はあのケーキほどでは無いが、なまえの沈んだ気持ちが少しずつ霧散し、ほわっとした感覚が彼女の胸の内に広まった。
「……ありがとう、ファルカ」
「どういたしまして」
ようやくなまえが微笑んだのを見て、ファルカもまた表情を和らげた。
――なお、このまま酒を飲みながらなまえはそのデザートを味わった。